言葉を失ったあとで ― 2022年07月02日
信田さよ子、上間陽子 <筑摩書房・2021.11.30>
依存症やDV被害者などのカウンセラーとして長年、活動してきた信田と、沖縄の夜の街で困難をかかえて働く少女達の調査研究をしながら彼女らの支援を続ける琉球大学教授の上間との対談本。コロナ禍のためにオンラインによる5回と、実際に会った最後の1回の計6回の対談が記録されている。ベストセラーの「海をあげる」を読んで知った上間に興味を持って読み始め、後期高齢者という信田と上間は親子ほども年齢が違うが、上間と同様に現場をよく知る信田とのきわめて率直な対話に感心した。冒頭の信田の「まえがき」にあるように、上間の適切なあるいは意表をついた問いかけに信田が自身の経験から出る言葉があり、それに対して上間が自分が接してきた少女達の言動を重ねていく。性暴力やDVの被害を受けた女性達の困難、生きづらさが伝わってくると同時に、彼女らに寄り添い、活動している2人の真摯な姿勢は本物と感じた。2人は互いに著作などを通して知っていたものの話をするのは初めてだったそうだが、双方がレスペクトし、共感し、かつ刺激し合うこのような対談は滅多にないだろう。
対談の内容はきわめて重く、性暴力やDVによって言葉を奪われた被害者の声を引き出して「聴く」姿勢は、「「ひきこもり」から考える」の石川良子が言うことと共通する。信田は話を聴くプロとしての様々なノウハウも語っているが、印象的だったのは、いくつかの言葉を禁じるということ。「意志が弱いから」「母の愛」「自己肯定感」「親だから」などは別の言葉に言い換えさせることによって、被害者がより自分の体験にそぐう言葉を考えるようになるという。さらに著者らは、信田はカウンセラーという仕事を通して、上間はボランティアとして、被害者の回復の手助けをしている。またこの対談では、加害者についても多く語られていて、加害者に対する再犯防止プログラムの重要性を説いている。世界中でDV加害者プログラムに公的に言及していないのは、一説によると北朝鮮と日本だけ、という。周囲に性暴力やDVの被害者がいないため(会っていてもこちらが気付いていないだけかもしれないが)私に実感が乏しいことは否めないが、日本の犯罪者一般に対する取り扱いは罰に重きを置き過ぎて、再犯防止を軽視していることは感じていたので、加害者プログラムの重要性は納得できた。本書でも言及されている映画「プリズン・サークル」は是非、どこかで見てみたい。
ちょうど、NHK-の番組「ハートネットTV」で上間の活動が紹介されているのを見た。内容は本で知っていることが多かったが、本書での雄弁な語り口と異なり、沖縄の少女たちの状況を静かに説明する上間の姿が印象的だった。
依存症やDV被害者などのカウンセラーとして長年、活動してきた信田と、沖縄の夜の街で困難をかかえて働く少女達の調査研究をしながら彼女らの支援を続ける琉球大学教授の上間との対談本。コロナ禍のためにオンラインによる5回と、実際に会った最後の1回の計6回の対談が記録されている。ベストセラーの「海をあげる」を読んで知った上間に興味を持って読み始め、後期高齢者という信田と上間は親子ほども年齢が違うが、上間と同様に現場をよく知る信田とのきわめて率直な対話に感心した。冒頭の信田の「まえがき」にあるように、上間の適切なあるいは意表をついた問いかけに信田が自身の経験から出る言葉があり、それに対して上間が自分が接してきた少女達の言動を重ねていく。性暴力やDVの被害を受けた女性達の困難、生きづらさが伝わってくると同時に、彼女らに寄り添い、活動している2人の真摯な姿勢は本物と感じた。2人は互いに著作などを通して知っていたものの話をするのは初めてだったそうだが、双方がレスペクトし、共感し、かつ刺激し合うこのような対談は滅多にないだろう。
対談の内容はきわめて重く、性暴力やDVによって言葉を奪われた被害者の声を引き出して「聴く」姿勢は、「「ひきこもり」から考える」の石川良子が言うことと共通する。信田は話を聴くプロとしての様々なノウハウも語っているが、印象的だったのは、いくつかの言葉を禁じるということ。「意志が弱いから」「母の愛」「自己肯定感」「親だから」などは別の言葉に言い換えさせることによって、被害者がより自分の体験にそぐう言葉を考えるようになるという。さらに著者らは、信田はカウンセラーという仕事を通して、上間はボランティアとして、被害者の回復の手助けをしている。またこの対談では、加害者についても多く語られていて、加害者に対する再犯防止プログラムの重要性を説いている。世界中でDV加害者プログラムに公的に言及していないのは、一説によると北朝鮮と日本だけ、という。周囲に性暴力やDVの被害者がいないため(会っていてもこちらが気付いていないだけかもしれないが)私に実感が乏しいことは否めないが、日本の犯罪者一般に対する取り扱いは罰に重きを置き過ぎて、再犯防止を軽視していることは感じていたので、加害者プログラムの重要性は納得できた。本書でも言及されている映画「プリズン・サークル」は是非、どこかで見てみたい。
ちょうど、NHK-の番組「ハートネットTV」で上間の活動が紹介されているのを見た。内容は本で知っていることが多かったが、本書での雄弁な語り口と異なり、沖縄の少女たちの状況を静かに説明する上間の姿が印象的だった。
ジェンダーと脳 性別を超える脳の多様性 ― 2022年07月16日
Gender Mosaic: Beyond the Myth of the Male and Female Brain
ダフナ・ジョエル、ルバ・ヴィハンスキ (鍛原多惠子・訳)<紀伊國屋書店・2021.9.10>
囲碁の世界では男性と伍して戦う女性がいるが(特に海外で)、日本の将棋界に、同年代の男の子と対等に争う小学生の少女が時折出るものの、これまで男性と同じ基準でプロ棋士(四段)になった女性はいない。その理由は、挑戦する女性が少ないからとか、体力が必要だからとか言われているが、私は長年、囲碁と将棋の戦いには違いがあり、将棋では脳の働きの性差が影響しやすいのではないかと考えている。将棋の方が戦いが激しく、一瞬の小さなミスが勝敗を分けるため、一般論として、女性には向かないのかも知れないと思うのだ(女流棋士の将棋の方が、より攻撃的と聞いたことがある)。今の世の中でこのような考えはPolitical Correctness 的に問題があることは認識しているが、以前、故米長元将棋連盟会長・永世棋聖が女流棋士達の権利主張に対して、文句があるなら四段になってみろ、と言わんばかりの発言をしたときには、不公平ではないかと感じたものだ。
本書の著者のジョエルは女性の神経科学者で、脳に性差はあるが典型的な男脳や女脳というものはなく、観察されるのは男も女も、「男性的」あるいは「女性的」な脳の部位が入り混じってモザイクを形成する個人、と主張する。すなわち、動物実験でもヒトの研究でも、脳の様々な部位に有意な性差(男女の平均値の差)は観察されるが、個人の分布をみると、男と女で必ず重なりがあり(「男性的」な女性や「女性的」な男性がいる)、さらにそれらはストレスなどの環境要因によって大きく変動する。また部位や個別の反応ごとの性差を「男性的」「女性的」として各個人について色分けしていくと、「男性的」だけの男や「女性的」だけの女はおらず、全ての人が様々なモザイク模様を呈するという。性別は脳の構造や機能を決める一つの要因に過ぎず、「性別は身長、体重、年齢、眼の色などと同じく、身体的特徴を表す言葉の一つに過ぎない」というのが彼女の主張である。そこまで性別を軽視していいのかやや疑問を感じたが、平均的な男より筋力が強い女性が大勢いるのは確かであるし、脳に性差が観察されても程度の問題に過ぎない、ということは納得できた。
本書の後半は、ジェンダー(生物学的な性別ではなく、社会的および文化的性別)の問題点を挙げ、ジェンダーフリーの世界に向けた行動や展望を示している。著者らが目指すのは男女の区別だけでなく、LGBTQも含めた多様性を認める社会であり、今の世の中は生殖器の違いを重要視し過ぎると考えているようだ。彼女の言うようなジェンダーフリーの世界の方が本当に男女ともに幸せなのか、という気がしてしまうが、それは単に男の都合だけなのかも知れない、とも思う。少なくとも私にとって「多様性」の意味が少し広がった気がした。
最近の将棋界では、数年前に西山が四段まであと1勝と迫ったし、里見が規定の成績を挙げて近々に(男性棋士の)プロ編入試験を受けることになったなど、以前より女流棋士のトップは確実に男性棋士に近づいていて楽しみではあるが、そのことと将棋の戦いに脳の性差が関係するかどうか、は別の話であると私は思っている。ヒトゲノムの解析が行われ始めた頃、肌の色に関する遺伝子解析はタブー視されていたが、「人類の起源」にあったように、今では人種に関する遺伝子も問題なく研究されており、やはり社会の認識がある程度進まないと難しかったのだろう。将棋と性差に関する私の疑問が、いつの日か科学的な研究の対象になることを期待している。
ダフナ・ジョエル、ルバ・ヴィハンスキ (鍛原多惠子・訳)<紀伊國屋書店・2021.9.10>
囲碁の世界では男性と伍して戦う女性がいるが(特に海外で)、日本の将棋界に、同年代の男の子と対等に争う小学生の少女が時折出るものの、これまで男性と同じ基準でプロ棋士(四段)になった女性はいない。その理由は、挑戦する女性が少ないからとか、体力が必要だからとか言われているが、私は長年、囲碁と将棋の戦いには違いがあり、将棋では脳の働きの性差が影響しやすいのではないかと考えている。将棋の方が戦いが激しく、一瞬の小さなミスが勝敗を分けるため、一般論として、女性には向かないのかも知れないと思うのだ(女流棋士の将棋の方が、より攻撃的と聞いたことがある)。今の世の中でこのような考えはPolitical Correctness 的に問題があることは認識しているが、以前、故米長元将棋連盟会長・永世棋聖が女流棋士達の権利主張に対して、文句があるなら四段になってみろ、と言わんばかりの発言をしたときには、不公平ではないかと感じたものだ。
本書の著者のジョエルは女性の神経科学者で、脳に性差はあるが典型的な男脳や女脳というものはなく、観察されるのは男も女も、「男性的」あるいは「女性的」な脳の部位が入り混じってモザイクを形成する個人、と主張する。すなわち、動物実験でもヒトの研究でも、脳の様々な部位に有意な性差(男女の平均値の差)は観察されるが、個人の分布をみると、男と女で必ず重なりがあり(「男性的」な女性や「女性的」な男性がいる)、さらにそれらはストレスなどの環境要因によって大きく変動する。また部位や個別の反応ごとの性差を「男性的」「女性的」として各個人について色分けしていくと、「男性的」だけの男や「女性的」だけの女はおらず、全ての人が様々なモザイク模様を呈するという。性別は脳の構造や機能を決める一つの要因に過ぎず、「性別は身長、体重、年齢、眼の色などと同じく、身体的特徴を表す言葉の一つに過ぎない」というのが彼女の主張である。そこまで性別を軽視していいのかやや疑問を感じたが、平均的な男より筋力が強い女性が大勢いるのは確かであるし、脳に性差が観察されても程度の問題に過ぎない、ということは納得できた。
本書の後半は、ジェンダー(生物学的な性別ではなく、社会的および文化的性別)の問題点を挙げ、ジェンダーフリーの世界に向けた行動や展望を示している。著者らが目指すのは男女の区別だけでなく、LGBTQも含めた多様性を認める社会であり、今の世の中は生殖器の違いを重要視し過ぎると考えているようだ。彼女の言うようなジェンダーフリーの世界の方が本当に男女ともに幸せなのか、という気がしてしまうが、それは単に男の都合だけなのかも知れない、とも思う。少なくとも私にとって「多様性」の意味が少し広がった気がした。
最近の将棋界では、数年前に西山が四段まであと1勝と迫ったし、里見が規定の成績を挙げて近々に(男性棋士の)プロ編入試験を受けることになったなど、以前より女流棋士のトップは確実に男性棋士に近づいていて楽しみではあるが、そのことと将棋の戦いに脳の性差が関係するかどうか、は別の話であると私は思っている。ヒトゲノムの解析が行われ始めた頃、肌の色に関する遺伝子解析はタブー視されていたが、「人類の起源」にあったように、今では人種に関する遺伝子も問題なく研究されており、やはり社会の認識がある程度進まないと難しかったのだろう。将棋と性差に関する私の疑問が、いつの日か科学的な研究の対象になることを期待している。
すき間の子ども、すき間の支援 一人ひとりの「語り」と経験の可視化 ― 2022年07月17日
村上靖彦・編著 <明石書店・2021.9.10>
昨年読んだ、大阪・西成地区の子育て支援に関する「子どもたちがつくる町」の著者が関わった本ということで目に留まって読んでみた。社会のすき間、福祉制度のすき間にいる子どもやその親をテーマとして、7人の著者がそれぞれ個別の人や施設について書いている。発達障害児やそのグレーゾーンにいる子どもの養育に関する話が2つ、社会的養護(児童養護施設)が3つ、放課後等デイサービス(障害のある子どもの放課後支援)と、主に貧困家庭の子どもの居場所(こども食堂および学習支援活動)に関する話がそれぞれ1つ。類型化や統計ではなく、具体的な出来事に重きを置くために対象の数は限られているが、興味深い事例が多かった。児童養護施設に関する印象的な2つを以下に記す。
大阪市の湾岸部にある大きな児童養護施設・入舟寮は長い歴史を持ち、ベテラン職員も多くいたが、2010年代前半に子どもたちの問題行動が増えて次第に集団化し、施設全体に広がって収拾がつかない状態になった。万引きなどの犯罪や学校での暴力行動による警察沙汰が日常的に起きるようになり、中学生の半数くらいが不登校の状態だったという。この章の著者の久保は2016年、施設立て直しのアドバイザーとして入舟寮に関わりを持ち始めた。「崩壊」のきっかけは、少しでも家庭生活に近づけるための施設の小規模化という社会からの要請であったが、著者によれば実際はそれだけでなく、新たに来た施設長による運営方針の変更(スポーツ活動などの集団行事の廃止、「職員ファースト」による職員の負担軽減や頻繁な配置転換、子どもの規則違反に対する厳罰化、など)が大きいそうだ。2015年に着任した新施設長の新しい方針、子どもとの信頼関係を作り直すことを基本とし、職員たちの多大な努力により現在では施設が「再生」されたという。これらの記述に著者のバイアスがどれほど入っているかはわからないが、少なくとも現場の主役(この場合は子どもたち)に目を向けない方針転換が混乱を招いたことは確かと思われる。また様々な困難を抱えた子どもたちの表面的な言動だけから判断したのでは大きな間違いを犯すことがあり、「言葉を失ったあとで」の被害者たちと同じく、彼らの声を聴き、彼らの言動の背後にある心理(何故、荒れ始めたのか)を考えることが重要であると理解した。
もう一つは村上の記述による章で、大阪・西成地区でヤングケアラーとして育ち、一時期は社会的養護を受けた女性の話。(ほとんど)母子家庭の長女で、覚せい剤中毒の母だけでなく、小さい頃から妹と弟の面倒もみていたという。救いは「子どもたちがつくる町」に紹介されていた「こどもの里」で、彼女は長期間にわたって入り浸り、1年間の社会的養護も受け、この施設があったからこそ彼女たちは文字通り、生き延びることができた。但し、彼女からこどもの里に、食べるものがないというSOSを出すことはあっても、母の覚せい剤のことを語ることはなく、最後まで母も含めた家族を守り通した。現在は20代で社会福祉士になることを目指し、児童養護施設で働いているそうだが、彼女が支援したいのは子どもだけでなく、その母親も、と考えているという。覚せい剤中毒だった自分の母も被害者、という視点から離れることはない。
ひきこもり、性暴力やDVの被害者、児童養護施設の子どもたち、その他困難を抱えて生きている人たちを理解する上で、彼ら彼女らの「声を聴く」ことの難しさを感じるとともに、自分の常識やものの見方、考え方を当てはめることが如何に危ないか、を考えさせられる。
昨年読んだ、大阪・西成地区の子育て支援に関する「子どもたちがつくる町」の著者が関わった本ということで目に留まって読んでみた。社会のすき間、福祉制度のすき間にいる子どもやその親をテーマとして、7人の著者がそれぞれ個別の人や施設について書いている。発達障害児やそのグレーゾーンにいる子どもの養育に関する話が2つ、社会的養護(児童養護施設)が3つ、放課後等デイサービス(障害のある子どもの放課後支援)と、主に貧困家庭の子どもの居場所(こども食堂および学習支援活動)に関する話がそれぞれ1つ。類型化や統計ではなく、具体的な出来事に重きを置くために対象の数は限られているが、興味深い事例が多かった。児童養護施設に関する印象的な2つを以下に記す。
大阪市の湾岸部にある大きな児童養護施設・入舟寮は長い歴史を持ち、ベテラン職員も多くいたが、2010年代前半に子どもたちの問題行動が増えて次第に集団化し、施設全体に広がって収拾がつかない状態になった。万引きなどの犯罪や学校での暴力行動による警察沙汰が日常的に起きるようになり、中学生の半数くらいが不登校の状態だったという。この章の著者の久保は2016年、施設立て直しのアドバイザーとして入舟寮に関わりを持ち始めた。「崩壊」のきっかけは、少しでも家庭生活に近づけるための施設の小規模化という社会からの要請であったが、著者によれば実際はそれだけでなく、新たに来た施設長による運営方針の変更(スポーツ活動などの集団行事の廃止、「職員ファースト」による職員の負担軽減や頻繁な配置転換、子どもの規則違反に対する厳罰化、など)が大きいそうだ。2015年に着任した新施設長の新しい方針、子どもとの信頼関係を作り直すことを基本とし、職員たちの多大な努力により現在では施設が「再生」されたという。これらの記述に著者のバイアスがどれほど入っているかはわからないが、少なくとも現場の主役(この場合は子どもたち)に目を向けない方針転換が混乱を招いたことは確かと思われる。また様々な困難を抱えた子どもたちの表面的な言動だけから判断したのでは大きな間違いを犯すことがあり、「言葉を失ったあとで」の被害者たちと同じく、彼らの声を聴き、彼らの言動の背後にある心理(何故、荒れ始めたのか)を考えることが重要であると理解した。
もう一つは村上の記述による章で、大阪・西成地区でヤングケアラーとして育ち、一時期は社会的養護を受けた女性の話。(ほとんど)母子家庭の長女で、覚せい剤中毒の母だけでなく、小さい頃から妹と弟の面倒もみていたという。救いは「子どもたちがつくる町」に紹介されていた「こどもの里」で、彼女は長期間にわたって入り浸り、1年間の社会的養護も受け、この施設があったからこそ彼女たちは文字通り、生き延びることができた。但し、彼女からこどもの里に、食べるものがないというSOSを出すことはあっても、母の覚せい剤のことを語ることはなく、最後まで母も含めた家族を守り通した。現在は20代で社会福祉士になることを目指し、児童養護施設で働いているそうだが、彼女が支援したいのは子どもだけでなく、その母親も、と考えているという。覚せい剤中毒だった自分の母も被害者、という視点から離れることはない。
ひきこもり、性暴力やDVの被害者、児童養護施設の子どもたち、その他困難を抱えて生きている人たちを理解する上で、彼ら彼女らの「声を聴く」ことの難しさを感じるとともに、自分の常識やものの見方、考え方を当てはめることが如何に危ないか、を考えさせられる。
世界少子化考 子供が増えれば幸せなのか ― 2022年07月23日
毎日新聞取材班 <毎日新聞出版・2022.4.20>
毎日新聞の記者たちが、韓国、中国、フランス、イスラエル、米国、ハンガリー、フィンランドの少子化対策の実情を取材して、日本と比較しつつまとめた本。但し、フランスと米国は国による「少子化対策」ではなく、リプロダクティブ・ライツ(性や生殖に関する権利)の視点から進められている政策あるいは企業活動についてで、子供を持つことに関する女性の選択肢拡大の話。国ごとに歴史的背景や民族意識、家族観, 結婚のしきたりなどに様々な違いがある上に、女性の権利に関する制度や政治的状況も異なるため、国による違いが非常に大きい。
日本を含めた東アジア3国は共通点も多いが、韓国の合計特殊出生率(以下、出生率。計算上は2.1で人口維持、日本は1.3から1.4)は世界最低水準の0.8くらいであり、中国も一人っ子政策の反動が大きく、国の強い権限を持ってしても対策は非常に難しそうで、どちらも少子化は日本以上に深刻な状況らしい。この両国に加えフランス、米国のことは以前に新聞・TV等で知っていたことがあったが、残り3つの国については全く知らなかったので、その概要を以下に記す。
イスラエルは先進国としては例外的に出生率が高い(3.0)。その要因として、国内のユダヤ人の人口をアラブ人より少なくならないようにする国策もあるがそれ以上に、迫害を受けたユダヤ民族の長い歴史、親族の絆が強い大家族主義、好調な経済の持続などがあり、さらにユダヤ人には、子供は社会が育てるという考え方が浸透しているという。そのため女性の社会進出が進んでも、子供を多く持ちたいという人がその欲求を満たすことが可能となるようだ。
ハンガリーは1989年の社会主義体制崩壊の直後から出生率が急速に低下し、91年に1.87だったのが99年には1.28にまで落ち込んだ。さらに2004年のEU加盟以降、若い世代を中心に西側諸国への移住が増え、人口減少に拍車をかけた。これに対して2010年に政権に返り咲いたオルバーン首相は少子化対策を最優先課題として、出産ローン(3人生まれれば全額免除)や所得減税など、より多くの子供を産むことへのインセンティブを与える政策を実施し、11年に1.23だった出生率を18年には1.55まで引き上げた。シンガポールやロシアをモデルとして「非自由民主主義」を標榜し、反移民や反LGBTを明確に打ち出して西側諸国から批判が多いオルバーン首相だが、人口問題に関しては存在感を高めているという。しかしこれらの政策の恩恵を被るのは比較的裕福な家族に限られ、貧困層への支援になっていないため、出生率上昇への寄与は少ない、という野党の批判もあり、著者らも伝統的価値観の強要に見える現在の政策に疑問を投げかけている。
フィンランドはジェンダーギャップも少なく、出産や子育てに対する支援策も様々に行われているが、出生率は2010年から低下を続け、19年には日本と同レベル(1.35)になった。一般に先進国では男女格差が縮まるほど出生率は上がると言われてきたが、必ずしもそうではないようだ。その要因は子供を欲しがらない人が増えているからだそうで、「チャイルド・フリー」という選択肢が若者、特に若い女性の間で広まってきているという。現代に生きる先進国の人々は、個人の幸せを優先させるようになると、子どもを持つという負荷を避ける人が増えるということなのだろう。
最後の章では「少子化が本当に問題なのか」について取材、考察していて、地球環境への負荷を考えれば、人口は減った方が良いという活動と、人口減少による経済的課題は労働生産性を上げることで克服できるという学説を紹介している。結論として著者らは、「少子化そのものを「悪」として捉えて無理に人口を増やすのではなく」、「子供を産みたい人が、子供を産むことができる社会、育てたい人が育てられる環境」、「子供を持たない選択をした人が肩身が狭い」思いをしない社会を作ることが重要とする。きわめてもっともな主張と思う。
今後の日本では当分の間、出産可能な女性が年々減少することは確実であり、さらに移民はダメ、伝統的な家族形成以外はダメという保守的な政策を続ける限り、人口減少が止まる要因は今のところ見られない。では、どういう社会を目指すのか、について、本書に見解を載せている80歳の「新しい歴史教科書をつくる会」会長や70歳の私のような年寄りの見解は脇に置き、次の日本を担う人たちで議論し、考えて欲しいと切に願う。
毎日新聞の記者たちが、韓国、中国、フランス、イスラエル、米国、ハンガリー、フィンランドの少子化対策の実情を取材して、日本と比較しつつまとめた本。但し、フランスと米国は国による「少子化対策」ではなく、リプロダクティブ・ライツ(性や生殖に関する権利)の視点から進められている政策あるいは企業活動についてで、子供を持つことに関する女性の選択肢拡大の話。国ごとに歴史的背景や民族意識、家族観, 結婚のしきたりなどに様々な違いがある上に、女性の権利に関する制度や政治的状況も異なるため、国による違いが非常に大きい。
日本を含めた東アジア3国は共通点も多いが、韓国の合計特殊出生率(以下、出生率。計算上は2.1で人口維持、日本は1.3から1.4)は世界最低水準の0.8くらいであり、中国も一人っ子政策の反動が大きく、国の強い権限を持ってしても対策は非常に難しそうで、どちらも少子化は日本以上に深刻な状況らしい。この両国に加えフランス、米国のことは以前に新聞・TV等で知っていたことがあったが、残り3つの国については全く知らなかったので、その概要を以下に記す。
イスラエルは先進国としては例外的に出生率が高い(3.0)。その要因として、国内のユダヤ人の人口をアラブ人より少なくならないようにする国策もあるがそれ以上に、迫害を受けたユダヤ民族の長い歴史、親族の絆が強い大家族主義、好調な経済の持続などがあり、さらにユダヤ人には、子供は社会が育てるという考え方が浸透しているという。そのため女性の社会進出が進んでも、子供を多く持ちたいという人がその欲求を満たすことが可能となるようだ。
ハンガリーは1989年の社会主義体制崩壊の直後から出生率が急速に低下し、91年に1.87だったのが99年には1.28にまで落ち込んだ。さらに2004年のEU加盟以降、若い世代を中心に西側諸国への移住が増え、人口減少に拍車をかけた。これに対して2010年に政権に返り咲いたオルバーン首相は少子化対策を最優先課題として、出産ローン(3人生まれれば全額免除)や所得減税など、より多くの子供を産むことへのインセンティブを与える政策を実施し、11年に1.23だった出生率を18年には1.55まで引き上げた。シンガポールやロシアをモデルとして「非自由民主主義」を標榜し、反移民や反LGBTを明確に打ち出して西側諸国から批判が多いオルバーン首相だが、人口問題に関しては存在感を高めているという。しかしこれらの政策の恩恵を被るのは比較的裕福な家族に限られ、貧困層への支援になっていないため、出生率上昇への寄与は少ない、という野党の批判もあり、著者らも伝統的価値観の強要に見える現在の政策に疑問を投げかけている。
フィンランドはジェンダーギャップも少なく、出産や子育てに対する支援策も様々に行われているが、出生率は2010年から低下を続け、19年には日本と同レベル(1.35)になった。一般に先進国では男女格差が縮まるほど出生率は上がると言われてきたが、必ずしもそうではないようだ。その要因は子供を欲しがらない人が増えているからだそうで、「チャイルド・フリー」という選択肢が若者、特に若い女性の間で広まってきているという。現代に生きる先進国の人々は、個人の幸せを優先させるようになると、子どもを持つという負荷を避ける人が増えるということなのだろう。
最後の章では「少子化が本当に問題なのか」について取材、考察していて、地球環境への負荷を考えれば、人口は減った方が良いという活動と、人口減少による経済的課題は労働生産性を上げることで克服できるという学説を紹介している。結論として著者らは、「少子化そのものを「悪」として捉えて無理に人口を増やすのではなく」、「子供を産みたい人が、子供を産むことができる社会、育てたい人が育てられる環境」、「子供を持たない選択をした人が肩身が狭い」思いをしない社会を作ることが重要とする。きわめてもっともな主張と思う。
今後の日本では当分の間、出産可能な女性が年々減少することは確実であり、さらに移民はダメ、伝統的な家族形成以外はダメという保守的な政策を続ける限り、人口減少が止まる要因は今のところ見られない。では、どういう社会を目指すのか、について、本書に見解を載せている80歳の「新しい歴史教科書をつくる会」会長や70歳の私のような年寄りの見解は脇に置き、次の日本を担う人たちで議論し、考えて欲しいと切に願う。
アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話 ― 2022年07月25日
カトリーン・マルサル (高橋璃子・訳)<河出書房新社・2021.11.30>
著者はスウェーデン出身の女性ジャーナリストで、本書は1990年代に登場したというフェミニスト経済学の考え方をジャーナリスティックに訴えているが、本書最後の「経済への影響力こそ、フェミニズムの秘密兵器である」という言葉に示されるように、経済学を材料としたフェミニズムの本と読めた。アダム・スミスの夕食を作り続け、個人的生活を支えたのは全て彼の母親と親戚の女性だったらしい。しかし彼が創り出した経済合理性(見えざる手)を体現する経済人(ホモ・エコノミクス)にはそのことが全く反映されておらず、彼は同時代の人々と比較しても女性を軽視しているという。本書では、経済人の性格は全くの「男性」であり、そこでは女性の担う役割が無視され、家事労働あるいはケア労働は全く含まれていないことを徹底的にしつこいほどに批判する。フェミニズムのためには、既にできあがっている経済人というモデルに女性を当てはめても何も改善されず、従ってエピローグのタイトル「経済人にさよならを言おう」が著者の結論となる。
経済学の対象を人間の労働全般に広げ(それはもう「経済学」ではないのかも知れないが)、GDPに変わる新たな指標が必要ということだろうと思ったが、著者は研究者ではないので、残念ながら具体的なアイディアは開示されていない。本書はフェミニスト経済学の観点からの主張であるため省かれているが、GDPに含まれないのは家事労働だけでなく、様々なレベルにおけるのコミュニティ活動やボランティア活動にも「労働」はあるだろう。ブータンの国民総幸福量や、国連の幸福度スコアなど、GDPに代わる国の評価基準は作られているが、これらはもっと普遍的な「幸せ」を表すものであって、GDPが表すものとのギャップが大き過ぎる気がする。家事労働などを金銭に換算した数値(同じ時間を他の労働に従事した場合、あるいはその労働を有償で行った場合)を見たことはあるが、国全体に広げて比較した値は知らない。素人にはなかなかイメージできないが、何かないのだろうか。あるいはヒトの生活を支える全ての活動(労働)を数値化(金銭化)し、同列に並べて比較すること自体に無理があるのならば、どのようにしてジェンダーを超えた評価が可能なのだろう。
著者はスウェーデン出身の女性ジャーナリストで、本書は1990年代に登場したというフェミニスト経済学の考え方をジャーナリスティックに訴えているが、本書最後の「経済への影響力こそ、フェミニズムの秘密兵器である」という言葉に示されるように、経済学を材料としたフェミニズムの本と読めた。アダム・スミスの夕食を作り続け、個人的生活を支えたのは全て彼の母親と親戚の女性だったらしい。しかし彼が創り出した経済合理性(見えざる手)を体現する経済人(ホモ・エコノミクス)にはそのことが全く反映されておらず、彼は同時代の人々と比較しても女性を軽視しているという。本書では、経済人の性格は全くの「男性」であり、そこでは女性の担う役割が無視され、家事労働あるいはケア労働は全く含まれていないことを徹底的にしつこいほどに批判する。フェミニズムのためには、既にできあがっている経済人というモデルに女性を当てはめても何も改善されず、従ってエピローグのタイトル「経済人にさよならを言おう」が著者の結論となる。
経済学の対象を人間の労働全般に広げ(それはもう「経済学」ではないのかも知れないが)、GDPに変わる新たな指標が必要ということだろうと思ったが、著者は研究者ではないので、残念ながら具体的なアイディアは開示されていない。本書はフェミニスト経済学の観点からの主張であるため省かれているが、GDPに含まれないのは家事労働だけでなく、様々なレベルにおけるのコミュニティ活動やボランティア活動にも「労働」はあるだろう。ブータンの国民総幸福量や、国連の幸福度スコアなど、GDPに代わる国の評価基準は作られているが、これらはもっと普遍的な「幸せ」を表すものであって、GDPが表すものとのギャップが大き過ぎる気がする。家事労働などを金銭に換算した数値(同じ時間を他の労働に従事した場合、あるいはその労働を有償で行った場合)を見たことはあるが、国全体に広げて比較した値は知らない。素人にはなかなかイメージできないが、何かないのだろうか。あるいはヒトの生活を支える全ての活動(労働)を数値化(金銭化)し、同列に並べて比較すること自体に無理があるのならば、どのようにしてジェンダーを超えた評価が可能なのだろう。
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