ジェンダーと脳 性別を超える脳の多様性 ― 2022年07月16日
Gender Mosaic: Beyond the Myth of the Male and Female Brain
ダフナ・ジョエル、ルバ・ヴィハンスキ (鍛原多惠子・訳)<紀伊國屋書店・2021.9.10>
囲碁の世界では男性と伍して戦う女性がいるが(特に海外で)、日本の将棋界に、同年代の男の子と対等に争う小学生の少女が時折出るものの、これまで男性と同じ基準でプロ棋士(四段)になった女性はいない。その理由は、挑戦する女性が少ないからとか、体力が必要だからとか言われているが、私は長年、囲碁と将棋の戦いには違いがあり、将棋では脳の働きの性差が影響しやすいのではないかと考えている。将棋の方が戦いが激しく、一瞬の小さなミスが勝敗を分けるため、一般論として、女性には向かないのかも知れないと思うのだ(女流棋士の将棋の方が、より攻撃的と聞いたことがある)。今の世の中でこのような考えはPolitical Correctness 的に問題があることは認識しているが、以前、故米長元将棋連盟会長・永世棋聖が女流棋士達の権利主張に対して、文句があるなら四段になってみろ、と言わんばかりの発言をしたときには、不公平ではないかと感じたものだ。
本書の著者のジョエルは女性の神経科学者で、脳に性差はあるが典型的な男脳や女脳というものはなく、観察されるのは男も女も、「男性的」あるいは「女性的」な脳の部位が入り混じってモザイクを形成する個人、と主張する。すなわち、動物実験でもヒトの研究でも、脳の様々な部位に有意な性差(男女の平均値の差)は観察されるが、個人の分布をみると、男と女で必ず重なりがあり(「男性的」な女性や「女性的」な男性がいる)、さらにそれらはストレスなどの環境要因によって大きく変動する。また部位や個別の反応ごとの性差を「男性的」「女性的」として各個人について色分けしていくと、「男性的」だけの男や「女性的」だけの女はおらず、全ての人が様々なモザイク模様を呈するという。性別は脳の構造や機能を決める一つの要因に過ぎず、「性別は身長、体重、年齢、眼の色などと同じく、身体的特徴を表す言葉の一つに過ぎない」というのが彼女の主張である。そこまで性別を軽視していいのかやや疑問を感じたが、平均的な男より筋力が強い女性が大勢いるのは確かであるし、脳に性差が観察されても程度の問題に過ぎない、ということは納得できた。
本書の後半は、ジェンダー(生物学的な性別ではなく、社会的および文化的性別)の問題点を挙げ、ジェンダーフリーの世界に向けた行動や展望を示している。著者らが目指すのは男女の区別だけでなく、LGBTQも含めた多様性を認める社会であり、今の世の中は生殖器の違いを重要視し過ぎると考えているようだ。彼女の言うようなジェンダーフリーの世界の方が本当に男女ともに幸せなのか、という気がしてしまうが、それは単に男の都合だけなのかも知れない、とも思う。少なくとも私にとって「多様性」の意味が少し広がった気がした。
最近の将棋界では、数年前に西山が四段まであと1勝と迫ったし、里見が規定の成績を挙げて近々に(男性棋士の)プロ編入試験を受けることになったなど、以前より女流棋士のトップは確実に男性棋士に近づいていて楽しみではあるが、そのことと将棋の戦いに脳の性差が関係するかどうか、は別の話であると私は思っている。ヒトゲノムの解析が行われ始めた頃、肌の色に関する遺伝子解析はタブー視されていたが、「人類の起源」にあったように、今では人種に関する遺伝子も問題なく研究されており、やはり社会の認識がある程度進まないと難しかったのだろう。将棋と性差に関する私の疑問が、いつの日か科学的な研究の対象になることを期待している。
ダフナ・ジョエル、ルバ・ヴィハンスキ (鍛原多惠子・訳)<紀伊國屋書店・2021.9.10>
囲碁の世界では男性と伍して戦う女性がいるが(特に海外で)、日本の将棋界に、同年代の男の子と対等に争う小学生の少女が時折出るものの、これまで男性と同じ基準でプロ棋士(四段)になった女性はいない。その理由は、挑戦する女性が少ないからとか、体力が必要だからとか言われているが、私は長年、囲碁と将棋の戦いには違いがあり、将棋では脳の働きの性差が影響しやすいのではないかと考えている。将棋の方が戦いが激しく、一瞬の小さなミスが勝敗を分けるため、一般論として、女性には向かないのかも知れないと思うのだ(女流棋士の将棋の方が、より攻撃的と聞いたことがある)。今の世の中でこのような考えはPolitical Correctness 的に問題があることは認識しているが、以前、故米長元将棋連盟会長・永世棋聖が女流棋士達の権利主張に対して、文句があるなら四段になってみろ、と言わんばかりの発言をしたときには、不公平ではないかと感じたものだ。
本書の著者のジョエルは女性の神経科学者で、脳に性差はあるが典型的な男脳や女脳というものはなく、観察されるのは男も女も、「男性的」あるいは「女性的」な脳の部位が入り混じってモザイクを形成する個人、と主張する。すなわち、動物実験でもヒトの研究でも、脳の様々な部位に有意な性差(男女の平均値の差)は観察されるが、個人の分布をみると、男と女で必ず重なりがあり(「男性的」な女性や「女性的」な男性がいる)、さらにそれらはストレスなどの環境要因によって大きく変動する。また部位や個別の反応ごとの性差を「男性的」「女性的」として各個人について色分けしていくと、「男性的」だけの男や「女性的」だけの女はおらず、全ての人が様々なモザイク模様を呈するという。性別は脳の構造や機能を決める一つの要因に過ぎず、「性別は身長、体重、年齢、眼の色などと同じく、身体的特徴を表す言葉の一つに過ぎない」というのが彼女の主張である。そこまで性別を軽視していいのかやや疑問を感じたが、平均的な男より筋力が強い女性が大勢いるのは確かであるし、脳に性差が観察されても程度の問題に過ぎない、ということは納得できた。
本書の後半は、ジェンダー(生物学的な性別ではなく、社会的および文化的性別)の問題点を挙げ、ジェンダーフリーの世界に向けた行動や展望を示している。著者らが目指すのは男女の区別だけでなく、LGBTQも含めた多様性を認める社会であり、今の世の中は生殖器の違いを重要視し過ぎると考えているようだ。彼女の言うようなジェンダーフリーの世界の方が本当に男女ともに幸せなのか、という気がしてしまうが、それは単に男の都合だけなのかも知れない、とも思う。少なくとも私にとって「多様性」の意味が少し広がった気がした。
最近の将棋界では、数年前に西山が四段まであと1勝と迫ったし、里見が規定の成績を挙げて近々に(男性棋士の)プロ編入試験を受けることになったなど、以前より女流棋士のトップは確実に男性棋士に近づいていて楽しみではあるが、そのことと将棋の戦いに脳の性差が関係するかどうか、は別の話であると私は思っている。ヒトゲノムの解析が行われ始めた頃、肌の色に関する遺伝子解析はタブー視されていたが、「人類の起源」にあったように、今では人種に関する遺伝子も問題なく研究されており、やはり社会の認識がある程度進まないと難しかったのだろう。将棋と性差に関する私の疑問が、いつの日か科学的な研究の対象になることを期待している。
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