ニュー・アソシエーショニスト宣言2022年10月03日

柄谷行人 <作品社・2021.2.5>

 他館からの取り寄せで、かつ入館後1年後からとの条件だったので、知ってから入手するまで長い期間がかかったが、待った甲斐があった。本書を手に取ったきっかけは、デヴィッド・グレーバーに始まって少しずつ最近のアナーキズムに関する本を読み始めたことで、著者もアナーキズムに類した活動をしているらしい、と知って読んでみて、実際そうだった。著者のことは名前しか知らず、私には読みにくそうな本と思っていたが、確かに哲学的な部分は難しかったものの(カント、ヘーゲルの名前は知っていても純粋理系の私には無縁だった)、そこは私の関心からやや遠いので、期待したことを理解するのにはそれほど難渋しなかった。質問に対して著者が答える対話式の箇所が多いことも、わかりやすい所以の一つだろう。著者は私より一回りくらい上の世代であり、学生のときに1960年の安保反対運動に参加して社会改革を目指し、その後も様々な形をとりながらその活動を続けている数少ない闘士として認知されているらしい。私が持っていたイメージとそれほど違わなかったが、これまであまり関心がなかったので、このあたりのことは本書で初めて知った。
 著者はNAMという略号にこだわっていて、本書の英文タイトルは New Associationist Manifesto だが、元々は New Associationist Movement(運動)だった。アソシエーショニスト運動という言葉自体は著者が作ったようだが、その内容は古くからあるという。「自由かつ平等な社会を実現するための運動」であり、「歴史は長く、内容は多様である。・・現在も存続している」としている。2000年に著者らがNAMという組織を作ったのは「アナーキズムとマルクス主義の総合を、実戦レベルで追求するための試み」で、2年後に組織は解散したが、個人的に細々とNAMの活動を続けている。組織解散後も「NAMの原理」という著者ら言葉の英語版がウェブ上に残っていて、今まで引き続き諸外国から連絡がきているとのことで、世界各地の運動で引用されているらしい。
 著者らが考えたNAMは5つのプログラムからなる。NAMは (1) 倫理的 - 経済的な運動である (2) 資本と国家への対抗運動を組織する (3) 「非暴力的」である (4) 組織形態自体において、この運動が実現すべきものを体現する (5) 現実の矛盾を止揚する現実的な運動であり、それは現実的な諸前提から生まれる。
 マルクス主義が「生産過程」を中心に据えるのに対して、著者は「交換過程(売買や贈与など)」を重視する。資本主義に立ち向かうには、著者がいう「内在的対抗運動」と「超出的対抗運動」の両方が必要であり、前者は労働運動や消費者運動、選挙その他の政治活動など、資本主義の中で闘うことであるのに対して、後者は消費・生産協同組合や地域通貨など、資本主義的でない経済を作り出すこと、としている。後者は私が以前に読んだマーク・ボイルの無銭経済運動や、平川克美の共有地に通じるものと思われるが、著者は前者、すなわち資本主義内での闘いを否定するものではない。また資本主義だけでなく、国家も捨て去るべきものとして考えることがアナーキズムとなる所以なのだろう。「非暴力的」の意味は「暴力革命」を否定するだけでなく、議会による国家権力の獲得とその行使を志向しないことを指す。(4)で著者が強調するのは、組織のリーダーを選ぶ際には必ず選挙とくじ引きを組み合わせる(選挙で3人に絞って最後はくじ引き)ことにより、代表制の官僚的固定化を阻むことだ。これによりリーダーを輩出するグループの存在を防ぐことができると考えているようだ。(5)は地域での活動が出発点で、それが協同組合や地域通貨に通じる、と私は理解した。
 私が一番知りたいこと、すなわちアナーキスト達は、アナーキズムの先にどのような世界が広がると考えているのか、についてはまだ良くわからないが、地に足がついている人たちは、著者のようなローカルな、地道な活動にしか先はない、と考えているらしいことが段々わかってきた気がする。
 著者の活動が日本ばかりでなく世界にどれほどの影響を与えているのか、私には全くわからない。しかしそういうことよりも、10代のときに世の中に対して抱いた問題意識を80歳まで変わらず持ち続け、活動し続けたことはレスペクトに値するし、そこに繋がる、大きく変化した世界の分析と自身の活動の点検をしているらしいことは、尋常ではない継続力と思う。

ジョブ型雇用社会とは何か 正社員体制の矛盾と転機2022年10月10日

濱口桂一郎 <岩波新書・2021.9.17>

 私にとって全く学んだことのない分野であるが、日本人の生活を考える上で労働環境の理解は重要だろうと思い、手軽な新書ということもあって読んでみた。著者は旧労働省の時代から長らく労働政策に関わってきた官僚であり、しばらくEUにもいたとのことで、ヨーロッパの事情にも詳しいらしい。
 年功序列による給与体系、新卒一括採用、人事異動による転勤、中高年社員への肩たたきや追い出し部屋、企業別組合など、日本に特徴的と言われる事柄について、マスコミを通してバラバラには知識として知っていたつもりだったが、それらの関連については真面目に考えたこともなかった。本書によれば、それらは全て密接に関係していて、その最も本質的なことは雇用が、諸外国のジョブ型ではない、日本特有のメンバーシップ型(いずれも著者が命名したらしい)にあるという。日本の労働にまつわる問題の歴史的経緯や、その場しのぎの対策が複雑に絡み合った現状が何となく理解できた気がする。
 日本以外の国で行われている雇用は全てジョブ型で、先ず職務記述書(Job Description)があり、そのジョブに対する賃金が決まっていて(人ではなく椅子に値段がつく)、ジョブに必要なスキルを有する人を雇用する。従って原則はいつも欠員募集であり、該当するジョブが無くなれば解雇されることになる(但し、アメリカを除く全ての国で解雇規制はある)。スキルは一般に経験者の方が高いから、若者に失業者が多く、また同様のスキルを有する労働者は同様のジョブにつくから、その賃上げを要求するために産業別に団結して組合をつくる。一方、日本はジョブを限定せずに、新卒を一括採用して、会社のメンバーとして迎える。新入社員に具体的な労働スキルを求めず、人の「潜在能力」で判断して入社させ(著者はiPS細胞と呼ぶ)、会社に入ってから必要なスキルを身につけさせる(OJT, On the Job Training)。社員のジョブは会社の都合によって一方的変えることができ(ジョブ型雇用ではありえない)、配置転換や転勤を指示できる(社員に拒否権はない)。新たなジョブへの適応力が下がってきた高齢者(老化したiPS細胞)は会社にとって不要となり、肩をたたかれ追い出し部屋に送られる(もちろん一部ではあるが)。1970年代後半から1990年代前半までの20年間、日本の経済が好調だったことから、日本独特のメンバーシップ型の雇用システムが競争力の源泉としてもてはやされたが、以降の凋落により今では日本もジョブ型に変えるべきという風潮になっているらしい。しかし日本では「メンバーシップ型」の仕組みが人々に深く根付いているため、現在、日本で議論されている「ジョブ型」が非常に誤解の多い扱いをされている、というのが著者が本書を書く動機となっている。
 上述の日本の状況は主に大企業のことであり、国内の大部分を占める中小企業は状況がかなり異なるが、職務記述書はなく会社の都合でジョブを変更されることは変わりないようだ。また海外の話が先進国だけなのか、全てなのかはわからなかったが、少なくとも大企業については全てジョブ型雇用なのかも知れない。
 あまりに多くの知らなかったことが載っていて、到底全部を網羅できないが、驚いたことをいくつか。今の日本の給与体系は、戦前の軍人が提唱した「生活給」が基になっており、労働の中身より、男が結婚し子供を育てるのに必要なお金、という考え方から成り立っている。そのため給与は年功序列で上がっていくことになり(勤続年数と定期昇給)、これまで当たり前のようにもらっていた家族手当や児童手当もその考えからくる。ところが年功序列で上がっていく給与は現在、建て前としては経験を積んで得られる「能力」の向上で説明されていて、したがって「能力」は低下しないことになっている。しかしその「能力」は具体的なジョブを想定しないため、スキルのような実態はなく、「職務遂行能力」という測定困難な、日本以外の国からみたら極めて奇妙なものとなる。さらに1990年代から、下がった「能力」に見合う給与に下げるために「成果主義」による評価を持ち込んだが、会社の都合で割り振ったジョブで、さらに多くが集団で得られる成果であることから、個々に評価することが難しく失敗に終わった、としている。
 またジョブ型雇用では、管理職は採用時から別扱いであるが(ジョブがそのように規定されている)、日本ではエリートもノンエリートも区別なく採用され、昇進によって管理職になる。アメリカのビジネススクール(大学院相当)や、フランスのエリート養成校は知っていたが、これらはジョブ型雇用の社会では一般的なようで、そこを修了することが直接、エリートである管理職への道につながり、高給を得られるようになるらしい。確かに日本ではいわゆる一流大学を卒業しても、少なくとも見かけ上、就職時には他大学出身者と同じスタートラインに立つ。
 男女平等や、外国人、障害者の扱いなどについて、日本も国際情勢に合わせた対応を求められ、そのための法整備をしたようだが、元々が上述のような雇用および給与体系であるため、それぞれ様々な矛盾を孕んだものとならざるを得ない。さらに同一労働同一賃金(社内でジョブを移る日本で全員を対象とすることは不可能)、労働争議における金銭解決(日本では法制化されていない)、企業内組合の位置付け(任意加入、多くが非正規を入れていない、名ばかりの管理職でも組合から外れる)などの問題も全てメンバーシップ型雇用にからんでいる。日本も諸外国と同じくジョブ型雇用にすることで多くの矛盾が解消しそうに思えるが、著者は、日本の企業がジョブ型雇用を採用することに非常に懐疑的であり、社員を自由に配置できる、企業側にとって使い勝手の良いメンバーシップ型雇用を手放すとは考えられないようだ。要するに、日本におけるこれらの労働問題の明快な解決法はない、というのが現状のようで、本書を読んでわかったことと言えそうだ。

<RUNことはじめ>2022年10月11日

 読書メモの掲載を始めて半年が過ぎ、ブログというものの様子がだんだんわかってきたので、<プラスアルファ>として、少しずつ畑、RUN、音楽の記事も書こうと思います。元々タイトルを考えたときから、いずれこれら3つについても何か載せたいとは思っていましたが、先ずは本線の内容をしっかり書いてからと思って控えてました。とは言え、これまで読書メモへの反応が全く無いし、更新頻度を上げれば人目に触れる機会が増えるかも、とは思いますが読書メモを増やすのはなかなか難しいので、少し門戸を広げることにします。もしRSSリーダーでチェックして読書メモを読んで下さっている方がおられたら、空振りになってしまってごめんなさい。読書メモ以外の<プラスアルファ>の記事のタイトルは<>マークで区別しますので何卒ご容赦下さい。
 畑については一度書いたので、今回はRUNについて。尚、タイトルをつけるに当たって語呂で「走(そう)」ではなく「ラン」がいいと思ったのですが、植物のランと紛らわしいのでRUNにしてみました。
 走り始めたのはもうすぐ40歳という時期、30年以上前のことになります。生活習慣病(当時は成人病)が気になり始めて何か運動をと思い、当時住んでいた東京・中野に1周500mの走路があったこともあって、手軽に一人でできるランニングを始めました。子どもの頃、短距離はダメでしたが、長距離はそれなりに得意だったこともあります。高校以来、定期的なまともな運動をしてなかったので、二十数年ぶりでした。
 1991年12月初めの日曜にコースを10周、5 kmを走ったのが最初で、思いのほか気持ちよく順調にいったので、それから週末ごとに5 kmを計4回走り、これなら続けられそうと思い始めたとき、年末の新聞の片隅に3月立川マラソンの記事を見つけました。それまで世の中に自分が参加できるような大会が存在することなど考えてもいなかったですが、ハーフは締め切ったが10キロは募集中とのこと。まだ10キロを走ったことはありませんでしたが、高校では毎年8キロのロードレースがあったし、2ヶ月あれば距離を延ばせると考え、早速、申し込みました。続けるにはやはり何か目標が欲しくなったのだと思います。
 1月から週1を週2に増やし、10キロ走を何回かやって距離に慣れて、本番では44分と少しで無事完走。この時のレース中およびゴールでの快感にハマり(私のために場所を作り、タイムを計ってくれる!)、情報を求めて入った本屋で雑誌「ランナーズ」を見つけ、巻末の大会一覧で近場のレースを探すようになりました。
 その年の10月に浦安のハーフ、走り始めて1年後の11月末にはつくばマラソンに参加しました。自分の性格上、レースの前に同じ距離を走っておきたいので、9月から青梅街道の歩道で40キロ走を2回やって準備し、本番ではほぼイーブンペースで3時間半を少し切ってゴール。最後は疲れ果てましたが、完走の感激が忘れられず、その後は健康のためというより大会に出るために走り続けて現在に至ります。途中、ケガなどのために走れない時期が何回かありましたが、不思議にRUNを止めるという気持ちになることはありませんでした。
 このところコロナ禍のために大会がなく、また加齢による衰えでめっきり体力が落ちてきたこともあって、最近あちこちで大会が復活しても以前ほど食指が動かなくなり、これからは無理せず、健康ランに戻ろうかな、なんて考えている今日この頃です。

アナーキスト人類学のための断章2022年10月16日

デヴィッド・グレーバー (高祖岩三郎・訳)<以文社・2006.11.1>

 15年以上前に出た本だが、「ブルシット・ジョブ」を読んだあとに出会って、自分が最もしっくりくる生き方に近いのはアナーキズムかも知れないと思ったきっかけであり、以降の読書にも大きな影響を受けたので、改めて読み直してメモを残すことにした。
 著者はニューヨーク出身の文化人類学者で、2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動の指導的存在と言われる。本書日本語版へのまえがき「まだ見ぬ日本の読者へ 自伝風序文」に自身の生い立ちが記してあり、12歳のときのマヤ象形文字の解読がハーバード大の専門家に認められて高校の奨学金を得て、19歳のときに人類学を志し、さらにアナーキストたることを決めたという。その背景には、両親ともに左翼の闘士であり、訳者いわく「労働者的ニューヨークの申し子」という環境で育ったことがあるようだ。著者は研究者の枠にとどまらず、世界の民衆とともに戦う活発なアクティヴィストであり、そのためイェール大学の教職を追われてロンドンの大学に移った。「ブルシット・ジョブ」が世界的なベストセラーになり、日本でも翻訳が出た直後の2020年9月に59歳の若さで亡くなった。従って、私が著者の本を読み始めたときには既に故人になってしまっていた。
 私が最初にアナーキズムに親近感を抱いた文章はまえがきにあった。「・・・社会主義者が労働者のためにより高賃金の獲得を叫んでいたことに対して、アナーキストは労働時間の短縮を求めていたことにあった。・・・非資本主義的な環境に生きるほとんどの人びとは、経済学者が「目標収入(Target incomes)」と呼ぶものを目指して働いている。彼らは市場から何が必要か、それがいつ手に入るかわかっているので、ある時点で仕事をやめ、リラックスし、人生を楽しむことができる。」もちろん私は資本主義社会に生きているが、周囲の人を見ていると自分のスタンスは明らかにマイナーと感じていたので、この文章に出会って仲間を見つけた気がした。食べ物に困るほどの貧困を知らず生きてきたこともあるだろうが、高級レストランには全く興味がないし、安価な食事でもあれば満足なのも確かだ。
 著者によれば古典的アナーキズムの原理は「自律(autonomy)」「自由連合(voluntary association)」「自己組織化(self-organization)」「相互扶助(mutual aid)」「直接民主主義(direct democracy)」で、自分たちをアナーキストと呼ぶかどうかに関わらず、これらの活動は現在、世界各地で広がっているという。またこの生き方は人類学者にとっては馴染みのあるものであり、著者が研究したマダガスカルで見た人々もそうであった。人類学におけるアナーキズムの先駆者と著者が考えるマルセル・モースは「国家と市場のない社会は、彼らがそのように生きることを積極的に望んだためにそうなった」としている。アマゾンや北米の先住民は、暴力の脅威に裏付けられた権力や恒常的な富の不平等が生じないような状況を作っていた、という。すなわちヒトの社会は、発展して国家や市場経済を作り出したわけではないということだ。最近よく聞くようになり、このブログでも以前に紹介した「贈与経済」もモースに由来するもので、モース以前は、貨幣や市場なき経済は「物々交換」によって機能している、と考えられていたが、実際には「贈与経済」だったことをモースは証明したそうだ。
 しかしこれまで実際に存在したアナーキズムは原住民の社会か、あるいは近代テクノロジーの世界では小規模な孤立した運動の形であって、全社会的変革が実現したことはない。それはアナーキストは権力を奪取しようとはせず、国家の形成を目指さないから(だから無政府主義者と日本では訳される)、と著者はいう。アナーキストが目指すのは「・・より漸進的に、現今の権力の形態が馬鹿馬鹿しく意味をなさないことを証明する、世界的な規模の代案的(alternative)組織形態をつくり、新しいコミュニケーションの形式を示し、新しい非疎外的な生活の組織化の方法を創造する」ことで、「このことは逆に、実現しうるアナーキズムには無数の例がありうることを意味している。..高みに立って権威を押しつけないものなら、どんな種類の組織でもアナーキズムたりうるのだ。」
 私が理解したところでは、著者がいうアナーキストの社会は直接民主主義であり、多数決を用いずに合意形成ができるまで話し合いを繰り返す(多数決は少数者への「暴力」を伴い、内部にしこりを残す)。またそれがどこまで広がるかは結果であって、社会全体がアナーキズムになるように命令したり、暴力的に他者を圧することはない。基本はローカルな組織や社会での実現を目指す。そこでどうしても頭がいってしまうのは、「ウォール街を占拠せよ」運動は一時的に盛り上がったとしても、「ウォール街」に代表される経済の仕組みを変革することはできないだろう、ということだ。おそらく著者の答えは、上述の「現今の権力の形態が馬鹿馬鹿しく意味をなさない」と多数の人が思うようになれば変わる、ということになるのだろう。先ずは自分の周りの社会をアナーキスト的に、ということか。尚、本書の主題はアナーキズムではなく、アナーキスト人類学なので、人類学との関連に重点が置かれているが、私の関心はあまりそこにないため本文では大部分を省略した。
 先日、NHK-BSで放映された2022年フィンランドのドキュメンタリー番組「”燃え尽き症候群(Burnout)”を生むシステム」に著者が出演していて、初めて彼の言葉を聞いた。元々はアメリカかイギリスで作られた番組をフィンランドで編集し直されたため、何年も前に亡くなった故人が出ているのかと想像しているが、話の中身は「ブルシット・ジョブ」に関することで、その話し振りはこれまで持っていたイメージ通りの、一見さえないおっさんで何故か嬉しくなった。

<今年の畑は不作でした>2022年10月19日

 この夏は私が住む北東北で雨が多く、マスコミで報道された洪水等による農作物の被害ばかりでなく、野菜の出来も芳しいものではありませんでした。
 我が家の畑では私が好きなオクラやズッキーニは例年より1ヶ月近く早く終わり、ミニトマト、ナス、ピーマン類もいつもよりかなり少ない収量でした。ここで畑を始めてから10年ちょっとになりますが、過去最悪と思います。毎年あちこちに配る枝豆も、早生の湯上り娘は順調に育って差し上げた方に喜ばれましたが、本命の秘伝の生育が悪く、例年ならとっくに収穫が終わっているのに、今年は未だに大半の豆が大きくならず、このまま終わってしまいそうな状態です。落花生も花が少ない気はしていましたが、やはり実の数はいつもの半分以下のようです。順調だったのは、サラダ菜やサニーレタスなどの葉物と、今年初めて挑戦したパースニップ、人参くらいでしょうか。ご近所の農家さんも、今年の畑は散々だったと言っていたので、プロでもそうなら素人の私では致し方ないところです。やはり自然相手の仕事は思うようにいきません。家庭菜園は不作でもがっかりするだけですが、農家さんはそれどころではないでしょうから、私ごときがあまり愚痴ってはいけませんが・。幸いお米は平年並みに育って収穫できたようなので、数十年に一度あるらしい、いわゆる冷夏の恐ろしさを考えれば、問題にならない程度なのでしょう。また来年を期待してということで、そろそろ玉葱の植付けにかかります。
 毎年、反省と翌年への期待を繰り返す野菜作りは、おそらく花の栽培も同じなのでしょうが、年寄りにはぴったりの趣味と思っています。