力と交換様式2023年03月17日

柄谷行人 <岩波書店・2022.10.5>

 「ニュー・アソシエーショニスト宣言(NAM)」を読んで著者の活動や考え方に興味を持ち、新刊案内で本書を見つけて読んでみた。いつも読む本とはかなり趣きが異なり、私にとっては非常に難解で著者の意図を理解できたとは到底思えないが、一応何とか最後まで読み通したので、メモを残すことにした。私が知りたかったこと、すなわち著者の現在のNAMの活動はどのような考えに裏打ちされているのか、は本書の最後の数ページで何となくわかった気がしたので、もしかしたらそこだけ読んでも結局、何の違いもなかったのかも知れない。
 私にとって本書が難解だった理由の一つは、前提となる知識がほとんどないことで、マルクスの本は若い頃に手にしたことはあったが読み通すことができず、また著者の本も上記1冊しか読んだことがない。史的唯物論の概略は何となくわかるが、それに対する批判やその限界などは全く理解していない。また理系の私には、本書に見られるような極めて断定的な書き方に強い違和感があり、理系の専門書であれば事実と意見は明確に区別されるはずだが、その線引きが曖昧なために読みにくい。さらに「フェティシュ(物神)」「揚棄」など、全く馴染みがない専門用語が出てくることも厄介であった。という弁解を前置きにして、本書を読んで自分が理解したと思ったことを以下に記す。
 著者は2010年に「世界史の構造」の中で、マルクスが唱えた生産様式による分類に対して交換様式の重要性を提案したが、それでは不十分と考えて書いたのが本書らしい。マルクス主義では一般に、「生産様式が経済的なベースにあり、政治的、観念的な上部構造がそれによって規定されている」と考えられているが、著者は経済的なベースは「生産様式だけではなく、むしろ交換様式にある」と考える。交換様式には4つの型があるとする。
A: 互酬(贈与と返礼)、B: 服従と保護(略取と再分配)、C: 商品交換(貨幣と商品)、
D: Aの高次元での回復
 交換様式Aは、私のここ数年の読書で馴染みができた贈与論なので、何となくわかる。集団内部ではなく「見知らぬ、不気味な他者との接触において始まる」贈与と返礼が重要で、デヴィッド・グレーバーが評価した人類学者マルセル・モースが言い出したことだ。人類の原始社会では、以前に考えられていたような互いに必要なものを交換する物々交換ではなく、一方的な贈与と、もらった側が行わなければならないと感じる返礼を交換の基本とする。いわゆる物々交換はこの後に起きる。またここには婚姻による人の交換も含まれる。交換様式Cは通常の貨幣経済を考えればいいので最も理解しやすい。やや難解なのが交換様式Bで、これは一見、交換とは思えないが、「服従すれば保護されるという関係、あるいは、保護されるのでなければ服従しないという双務的な関係」で、Aの互酬性が水平的であり、それを垂直的な上下関係にしたものがBである、とする。確かに服従しないという選択肢があるのなら、双務的と言えるかも知れない。交換様式DとAとの違いについては最後にも触れるが、私には全くわからなかった。Dは、原始社会にあったAではなく、BやCを経験した後に行われるAということか。あるいはBやCの存在をものともせずに成しうるAなのか。
 本書のタイトルにある「力」について。上記のそれぞれの交換様式には力が伴う。「その力は物理的な力ではなく、観念的、あるいは霊的な力を指す」という。モースは交換において生じる(返礼を要求する)力を「物に付着した霊」と考え、マルクスは「フェティシュ(物神)」と呼んだ。そのような宗教的な用語は以降の人々から批判を浴びたらしいが、柄谷はモースやマルクスの考えを擁護し、その力には人智の及ばぬ霊的なものがあると主張する。理系の私にはやはり霊的との解釈は奇異に感じ、ヒトが他のヒトあるいは他のヒト集団から感じる「無言の圧力」と言った方がまだ良いように思った。その力は、集団で生きるように進化した人類が、対人関係において無意識のうちに与えるもの、あるいは感じるもので、集団としても発揮され、その力が社会を動かす。カーネマンらの言うシステム2ではなく、システム1の考え方が関与する力と思われ、従ってカーネマン、トベルスキーの行動経済学のような手法で、ヒトがあるいはヒト集団が感じる「力」を調べることができればいいと思うが、残念ながら私には何のアイディアも出てこない。
 生産様式よりも交換様式から考える方が、人類の歴史を説明しやすいかどうか、今の私には良くわからないので、深追いはしない。もしかしたら今後の考え方に影響を受けるのかも知れないが、今は何とも言えない。
 本書には「銃・病原菌・鉄」のジャレド・ダイアモンドや、ダンバー数のロビン・ダンバーが引用されていて少し驚いた。確かに人類学の流れに入らなくもないから、読んでいて自然ではあったが、私から見れば彼らの本は理系に属していて、前置きに書いたような、私が違和感を持つ断定的な表現が使われることはなかった(と思う)。柄谷は科学、あるいは科学的であることに強い意識を持っているようだが、彼の領域では自然科学のように過去のデータではなく、過去の考え方を引用して自分の考えの根拠に使うようなので、断定的な表現は不可避なのか。
 交換様式Dにおける「高次元での回復」とは何か。「今日世界宗教と見なされる諸宗教・諸宗派はすべて、交換様式Dに根ざしているといってよい。さもなければ、各地に浸透する「世界宗教」たりえなかっただろうから」というが、残念ながら私には理解できない(「世界史の構造」を読んでいないので、単に当方の怠慢かも知れないが)。伝道師という全くの他者からの贈与から始まるAとは考えられないのか。その後の文章でも宗教を交えて考察していて、過去の人たちの議論を踏まえるとそうならざるを得ないのかも知れないが、ヒト集団の行動を科学的に考えるときに宗教を持ち出す必要があるのか、との疑問が拭えない。
 最後の最後に社会主義、共産主義の今後の展望が書かれていて、そこに私が知りたかったことがあった。世界各地に「協同組合」や「協同体(アソシエーション)」などによる交換様式Aが現在も存在することを指摘し、「にもかかわらず、Aに依拠する対抗運動が概してローカルにとどまり、BやCに十分に対抗できるようなものとなりえないということも、否定しえない事実である」とする。また「Aの限界を一先ずB、すなわち、国家権力によって超えること」も議論しているが、「Cは制限されても、Bは残る。また、Aもそこに取り込まれる。・・・その結果、資本が存続することになる。」として、それがBやCを無くす可能性を否定する(著者が望むような資本も国家も無い世界はできない)。そこで出てくるのがDなのだが、著者曰く「Dは、Aとは違って、人が願望し、あるいは企画することによって実現されるようなものではない。それはいわば “向こうから” 来るのだ。」「そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、”Aの高次元での回復” としてのDが必ず到来する、と。」で本書は終わっている。どのような理屈から出てくるのか、何のことやらさっぱりわからないが、これが著者の願望であり、希望的観測なのだろう。
 結局、著者は、ローカルから抜け出すことはできないと知りつつも、「ニュー・アソシエーション」の活動を続け、あるいはサポートし、その先は未知の力に委ねる。やはりこれがアナーキズムの基本的なスタンス、というのが私の理解である。

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