皮膚、人間のすべてを語る 万能の臓器と巡る10章2023年04月01日

モンティ・ライマン (塩﨑香織・訳)<みすず書房・2022.5.9>

 特に皮膚に興味があったわけではないが、それなりに面白く読み通した。著者はイギリスの皮膚科医だが、本の内容には人間や社会一般に対する洞察も含まれ、またアジアやアフリカの開発途上国での経験が随所に紹介されていて、単なる医学の一分野の話を大きく超えていた。一般知識として知らなかったことも多く、知っていたことでも新たな視点から興味深い結びつきがわかって楽しめた。「菌類が世界を救う」のマーリン・シェルドレイクと同じく、自分の専門領域を愛していて、さらにそこを突き抜けた魅力を引き出すイギリスの若い教養人、という印象を受けたが少し褒めすぎか。全体としては皮膚がいかに重要で面白いかを様々な角度から記しているが、以下に興味深かったことを記す。
 最近、ヒトに住み着いている生物として腸内細菌が話題になるが、皮膚にも多くの生物が生きている。ヒトの皮膚の表面積は 2 m2 あり、そこには真菌(菌類)、ウイルス、ダニのほか1000種類以上の細菌や古細菌までいるという。ありとあらゆる種類の微生物がいるということだ。そのほとんどは悪さをしない共生菌だが、中には黄色ブドウ球菌など病気の原因になるものもいる。その形態のおぞましさの例として紹介しているのがニキビダニで、「クモともカニとも言い切れない体にミミズの細長い尻尾がついたような生き物が、まず間違いなく読者の顔面をはい回り、眉毛の毛包に入り込んでいる」という。確かに載っている写真は、実際に自分の身体にいるのを顕微鏡で見たら、何としても排除したくなりそうな生き物だ。
 皮膚がんの発症には太陽光が大きく関与していて、皮膚の色が薄い人(白人)に特に影響が強く、日本人にとって馴染みが薄いが、近年、欧米諸国では爆発的に皮膚がんの発症率が高くなっている。アメリカではここ30年で皮膚がん患者数がその他のがん患者の合計を上回るようになり、オーストラリアでは3人のうち2人が一生のうちに皮膚がんを発症するという。その原因として私はオゾン層の破壊によって地表に届く紫外線量が増加したことが大きいと思っていたが、本書ではそれには触れず、白人が「健康的な小麦色」の肌への憧れのために、日焼け止めを利用せず、積極的に日焼けをしていることを挙げている。小麦色の肌が「健康的」というのは俗説に過ぎず、皮膚の色が少し濃くなる程度でも、日焼けのダメージは長年に渡って蓄積するし、小さな子どもに炎症を起こすような日焼けをさせることは児童虐待である、という。欧米諸国では公衆衛生の啓発活動として、日焼けの防止が推奨されているが、その効果は上がっておらず、この30年で皮膚がんの発症率を減少に転じさせた国は、その世界では有名なキャンペーンを成功させたオーストラリアだけらしい。肌の色が濃くても太陽光によって皮膚がん発症のリスクは上がるものの白人に比べて小さいため、日本ではほとんど問題にされていないが、ランニングや畑仕事で毎年、強烈に肌を焼いている私としてはもう少し気をつけるべきなのかも知れない。
 ヒトの五感の一つである触覚には、指先など皮膚の無毛部が感じる「識別的触覚」があり、その受容体(メカノレセプター)や脳に高速で信号を送る神経繊維がわかっているが、最近、これとは全く別の触覚システムが理解され始めた。誰でも知っているように、自分で自分をくすぐることはできないし、「恋人に腕を触られたときの感覚は、・・医者の触診や混雑した電車の中で知らない人の手がかすったときの感覚」とは全く異なる。これらは「情動的触覚」と呼ばれ、皮膚の有毛部にある受容体で感知され、いま皮膚を触っているのは何か、という視覚情報と合わさって脳に伝達されて情動を形成する。従って「敵」と認識されればその刺激はさらに不快に感じられ、「愛情のこもった手で撫でられることを期待していれば、快感を受け止めるために皮膚の構造は一時的に変化する」という。自分でくすぐることができないのは「期待と予感をめぐる皮膚と脳のかけひきの奥深さをよく表している」というのが面白い。
 触れることは人間の生存と発達に大きな役割を果たすらしい。13世紀に、現代では倫理的にとても許されそうにない実験が行われた。人間が最初に話す言語を発見するために、生まれたばかりの赤ちゃんを母親から引き離して育て、乳母ら世話係は赤ちゃんがいるところでは会話禁止、さらに赤ちゃんに触れることも禁止したところ、乳は与えられていたにもかかわらず、赤ちゃんは死んでしまった、という。またチャウシェスク独裁政権時代のルーマニアで、職員が絶対的に足りない孤児院で成長した人は、ほかのルーマニア人に比べて、糖尿病から統合失調症まで、身体・精神疾患がはるかに高い割合でみられた。一方、1978年、南米コロンビアの母子医療センターでは、新生児集中治療室のスタッフと保育器の不足のため、赤ちゃんの死亡率が70%に達していたことから、方針を変えて、未熟児で生まれた赤ちゃんを肌が直接触れるように母親の胸に抱かせ、温めるとともに、母乳養育を推奨したところ、死亡率は10%に急低下した。この方法はカンガルーケアと名付けられ、その後の2、30年で世界に広がり、母親あるいは保育者との肌の触れ合いに特別な力があることがわかったという。カンガルーケアは赤ちゃんのバイタルサインを安定させ、睡眠を改善し、体重増加につながる上に、両親に対しても心理的にプラスの影響を与え、不安を和らげて育児に自信をもたせる効果が認められている。
 触れることの癒しの力は恋人や家族とのスキンシップにもあり、ストレスを下げる、脳からのエンドルフィンやオキシトシンの分泌が上がって報酬系や思いやりの回路が活性化される、など様々な結果が報告されている。さらにアルツハイマー病患者に触れるケアを取り入れると、周囲の人との感情的なつながりが改善され、症状を和らげるという。身体に手をあてて不調を治す方法は大昔から知られているが、そのしくみの理解はまだ始まったばかりで、今後の研究により「人間のタッチの力でさらに驚くような発見がなされることは間違いないだろう」としている。少し言い過ぎの気がしないでもないが。日本人は世界の中でかなりスキンシップが少ないと思うが、日本人を対象とした「触れる」ことに関する上述のような研究があるか、元々が少なければタッチの効果は低いのか、あるいはかえって強く効果が出るのか、知りたいところだ。
 心と皮膚の状態とは密接な関係がある。ストレスは湿疹や乾癬、ニキビ、脱毛、かゆみといった皮膚症状を悪化させる。赤面、冷や汗、鳥肌なども精神状態が皮膚に出たものと言える。逆に、私たちの身体で唯一外界にさらされていて、よくも悪くも第一印象を左右するから、皮膚が直接心に対して影響を与えることもある。ニキビに悩み、自殺を考えたことのある人はアメリカとイギリスで5人に1人という驚きの調査もあるという。確かに、特に若いうちは外見の悩みが心の傷として生涯にわたって残る可能性もあり、「気にするな」などの言葉はむやみに掛けるべきではないのだろう。
 最後に、本書で最も驚いたこと。現在、アメリカとイギリスでは26ー40歳のおよそ3分の1が少なくとも1つタトゥー(一生残る色素を身体に入れること)を有しているという。ヨーロッパにおけるこの風習は19世紀後半に始まるとのことで、もとは非常に高額の費用が必要だったために上流社会や王族のあいだで流行したが、安価な機械が開発されて広まったそうだ。日本では遅くとも江戸時代には刺青(入れ墨)が行われていたと思うが、ヨーロッパの氷河で発見された紀元前3300年頃のミイラ、通称「アイスマン」の全身に61個の小さな入れ墨が見つかったというから、かなりの歴史がある風習のようだ。なお、今のところ、タトゥーの色素が吸収されて身体のあちこちに移動することが知られているが、それらが健康に長期的な影響を及ぼすかどうかは不明とのことである。その他、皮膚と関連する人種、セックス、宗教、哲学なども議論されていて興味深いこともあったが、ここでは省く。

脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論2023年04月08日

ジェフ・ホーキンス (太田直子・訳)<早川書房・2022.4.25>

 これも図書館の新刊置き場で見かけ、「脳の最大の謎が解けた!」という誇張とも思える帯の言葉に半信半疑で読んでみたが、序文でリチャード・ドーキンス(「利己的な遺伝子」の著者)が絶賛する通り、もしかしたら歴史に残る本かも知れないと思った。本書はヒトの知能はどういう原理に基づいて成り立っているかについての新しい理論を提案するものであり、その説に基づいて考えられた人工知能(AI)やヒトの意識の捉え方が、これまで読んだどの本よりも説得力があって、AIによるシンギュラリティ(Singularity;技術的特異点)や、AIが人類を滅ぼすリスクについても、現在あるAIの進展の先には起きないとする理屈に納得がいった。一般紙の書評で取り上げられなかったようだが、不思議だ。但し、私が本書の理論を充分に理解したとは思えず、著者の自信たっぷりの書き方や30年前のインテル社での講演の逸話(現在のスマホの隆盛を予言するような携帯型コンピュータの話をしたのに全く受けなかった)、さらに今のAIやヒトの意識に関する記述に私が強く印象付けられただけで、脳の理論自体の評価ではないような気がする。
 著者は脳の研究を志して大学院に入ったが、そこで行われている研究に飽き足らず2年で辞め、シリコンバレーで携帯型コンピュータの会社を起業して成功した後に、その資金を使って独立系の研究会社を立ち上げて、脳の仕組みの解明を目指している、極めて異色の研究者だ。ドーキンスによれば、大学と関係なく政府の補助金にも頼らず、さらにその革命的な理論を表すには論文では足りずに1冊の本が必要という点が、ダーウィンに通じるという。つまり本書は「種の起源」に匹敵するというのが彼の見立てだ。
 本書は3部からなり、第1部は著者が「1000の脳理論(Thousand Brains Theory)」と呼ぶ新しい概念、第2部はAIの現状と著者の理論に基づいて考えるAIの方向性、第3部は脳と知能の働きから考えるヒトの「信念」の問題点や誤った信念がもたらす人類存亡のリスク、そこからの脱出法などが語られる。
 本書で先ず強調されるのは、脳は古い部位の上に新しい部位を加えて進化してきた、ということだ。小さな蠕虫の単純な運動を可能にしているニューロンが我々の脊髄の祖先となり、次に体の一方の端に現れたニューロンの塊が我々の消化と呼吸を制御する脳幹の祖先となった。すなわち脳は時間をかけて、古い部位に新しい部位を加えて進化させることによって、だんだんに複雑なふるまいができるようになった。我々がどれだけ賢くて高機能であっても、呼吸、飲食、セックス、反射反応は生存に不可欠であり、その調節機構は太古から進化してきた古い脳にある。
 哺乳類はここに新皮質を加え、さらにヒトは新皮質を脳の容積の約7割まで拡大して、これがヒトの知能の器官となった。新皮質の進化は、それまでの脳が数億年の期間をかけたのに対して遥かに短く、そのため新皮質は新規の構造が次々と加えられたのではなく、基本的には同じ構造が量的に増えて大きくなった。すなわちヒトの脳の7割は同じ構造の繰り返しということだ。これらは以前から知られていたことのようだが、ヒトの知能は新皮質によって生まれ、真の機械知能は新皮質で働くメカニズムを模してこそ可能と考える著者は、以上の点に重きを置く。従って著者は、新皮質の同じような構造から生まれるヒトの知能は、視覚、聴覚、触覚、言語を司る領域も全て似たような仕組みで動いていると考える。また本書では、感情は古い脳が、知性は新しい脳が担うことを指摘し、著者が考えるAIは新皮質を模した構造と機能を有するものであるから、敢えて古い脳に対応する機能を加えない限り、AIがヒトの感情に類した反応をすることはない、とする。これは言われてみればその通りと納得するしかない。
 新皮質は、広げると大きめの食事用ナプキンくらいで厚さは約 2.5 mm、その基本単位は、面積が約 1 mm2 のコラム(Column、円柱の意味。科学用語としては「カラム」の方が馴染みがあると思うが)であり、細いスパゲッティの小さなかけらのようなコラムが15万個ほどぎっしり横に並んでいる。但し、コラム自体は顕微鏡でも見えない。さらに1つのコラムは、こちらは顕微鏡で見える数百のミニコラムからなり、1つのミニコラムには100個程度のニューロン(脳の中心的な細胞)が含まれる。1978年に発行された「意識する脳 The Mindful Brain」においてマウントキャッスルは、ヒトの知能は全てこの皮質コラムおよびミニコラムにおいて同じ基本アルゴリズムのなせる業と提案した。著者は40年前にそれを読んで深く納得し、以降その具体的な中身について研究を続けて、現在までの成果をまとめたのが本書である。
 ヒトは周囲の様々なものを無意識のうちに認識し、何かそれまでと違うことがあると気付く。家具の配置が変わっていれば意識がそこにいくし、コーヒーカップの手触りがいつもと違えば違和感を覚える。これらは常にヒトが自分を取り巻く世界を予測しているからで、それから外れるとわかる、と著者は考え、このことから、脳は予測マシンであり、あらゆる皮質コラムは予測をしているとした。脳は世界の予測モデルをつくり、予測が間違っていたら、その誤りに注意を向けて、モデルを更新する。予測が正しいときは、予測が行われたことに気付かない。
 脳への入力は、2つの理由で常に変化している。一つは世界が変化しているからで、音や風に揺れる木は動き、車や時計の針も動く。もう一つはヒトが動くからで、歩く、手足を動かす、眼を動かす、頭を回すなど。眼は1秒に3回くらい、サッカードと呼ばれる急速な動きをすることで、眼から脳への情報が変わる。これらの動きを元に、脳は世界の予測モデルを作っている、と著者は考える。そこで著者らは「膨大な数のほぼそっくりの皮質コラムからなる新皮質は、どうやって動きから世界の予測モデルを学習するのか?」という問いを立て、これに答えられれば、新皮質をリバースエンジニアリングできる、と考えた。このような発想は当時の神経科学の中で非常に斬新であった、という。
 著者は、ニューロンの樹状突起活動電位は予測である、と考えた。シナプスで繋がっている樹状突起が入力を受け取るとそのニューロンは樹状突起活動電位を発生し、それが細胞体の電圧を上昇させ、細胞を予測状態にする。これは「位置について、用意・・」の合図を聞くランナーが、走り始める準備を整える様子に似ている、という。この状態にあるニューロンが次に、活動電位を発生するのに十分な入力を受ければ、ニューロンが予測状態ではなかった場合よりも少し早く、その細胞は活動電位を発生する。こうすることで、あるニューロンが接する近隣のニューロンに情報を伝えたとき、予測状態にあるニューロンのみが活動電位を発生し、その他のニューロンは抑制される。一方、予想外の入力が来ると、複数のニューロンが一度に発火する。これは新皮質についての一般的な観察結果と一致するそうで、予想外の入力のほうが、予想されていたものより、はるかに多くの活動を引き起こす、という。1つのニューロンには何千ものシナプスがあるので、各ニューロンが活性化すべきときを予測する何百ものパターンを認識できる。このように、予測は新皮質を構成するニューロンに組み込まれている、というのが著者らの重要な発見の1つとしている。
 さらに著者らは、各皮質コラム内のニューロンの大部分が果たす機能は、座標系をつくって位置を追跡すること、とした。著者らは地図の格子線を例に挙げているが、確かに世界を認識するのに座標は必要であり、またコーヒーカップなどの物体の形も3次元の座標で表すことができる。哺乳類の脳の古い部分(海馬と嗅内皮質)には、訪れたことのある場所の地図を学習するニューロンの存在が知られていて、そこにある「場所細胞」が自分がどこにいるかを教え、「格子細胞」が全体の地図を作る。両者があることにより、環境の完璧なモデルができる。これと似たようなものが新皮質にある、と著者らは考えた。但し、同じではなく、古い脳内の格子細胞と場所細胞が追いかけるのはもっぱら自分の体の位置であるが、新皮質ではこの回路のコピーが皮質コラム1個につき1つ、合わせて15万個あり、新皮質は何千もの位置を同時に追いかける。たとえば皮膚の小区画それぞれ、網膜の小区画それそれが、新皮質のなかに独自の座標系をもっている、と考える。
 ここまでは相手が物体なのでイメージしやすいが、著者はこれと同じ皮質アルゴリズムが、民主主義や人権などの概念、さらには言語や思考でも働いている、とする。すなわちこれらも全て座標系で表されるということで、本書では様々な例やたとえを用いて説明しており、何となくわかるが、何となくしかわからない、という感じだが、ともかく著者はこの説が正しい、と確信している。それは、著者が知っている様々な問題が、この考え方によって非常にうまく説明できるから、という理由による。
 第1部の最後で、本書のタイトルにもなっている「1000の脳」理論を提案する。上述のように各皮質カラムがそれぞれ完全な1つの感覚運動システムを有し、また何かについてのヒトの知識は何千もの皮質コラムに分散している。何千も予測モデルが存在するのに、ヒトが感じる知覚は統合された1つだけである(1つのコーヒーカップについて脳内には何千ものモデルがあるが、ヒトが感じるのは1つ)。このモデルの統合を著者は「コラムによる投票」で説明する。5本の指でコーヒーカップを触るとき、それぞれの指は別々の情報を得るが、ヒトはそれらを統合してコップの形状を知る。物体を細いストローを通して見るとき、全体を認識するにはそのストローを動かさなくてはならないが、眼全体で見るなら、動かさなくても認識できる。新皮質の中で、投票は全てのコラムが行うのではなく、情報を有しているコラム(その中のニューロン)だけであり、それが(15万個のうち)およそ1000個ということで「1000の脳」理論となったようだ。このあたりはトノーニの「統合情報理論」(「意識はいつ生まれるのか」)を思い起こさせるが、本書に言及はない。著者が言う「投票」がトノーニには無い考え方なのだろう。
 著者は、真に知的なAIは、現在、知的であると唯一思われている脳をモデルにしなければできない、と考えていて、脳のメカニズムはそれを作るために必須と信じている。そこで本書の第2部では上述の議論を踏まえ、AI の重要な特性として「たえず学習する」「動きによって学習する」「たくさんのモデルをもつ」「知識を保存するのに座標系を使う」の4つを揚げている。また著者は、「意識」についても述べていて、脳と同じ原理で動く機械には意識がある(もちろん哺乳類にも意識はある)と確信している、という。但し、最初に書いたように、感情を担う古い脳の機能を加えない限り、AIに恐怖も愛情もなく、支配したい、生き延びたいという欲望もない。これらのことは私には非常に説得力があり、一部のAI研究者が危惧するような、AIによるヒトの支配など考えても意味がないように思える。
 最近、ChatGPTなる対話型AIが公表され、私もいろいろ試してみたが確かに想像を超える出来であった。Googleや中国の企業も同様のAIを開発したとの報道もあったが、専門家集団が開発中止を呼び掛ける声明を出したり、使用を禁じた国がでたりするなど、現在のAIシステムでも少し前に私が思っていたレベルより遥かに向上し、ヒトへの影響が大きくなってきているように思う。果たして現行のシステムでも私の予想を超えてシンギュラリティに行き着くのか、あるいは本書の著者が言うように、脳と同じ仕組みでなければ無理なのか、興味津々である。
 本書の第3部では、ヒトの知能が原因となる人類存亡のリスク(地球環境の破壊、核兵器など)について書かれていて、そこでは古い脳と新皮質との争いの結果、ヒトが「誤った信念」を持つことがあることを指摘していて興味深いが、メモが長くなり過ぎたので割愛する。また最後の方ではヒトの火星移住やゲノム編集によるヒトの改変の話題になり、確かに人類の将来として考えるべきことかも知れないが、私の興味、関心から外れるのでこれも省略。

新・資本主義論 「見捨てない社会」を取り戻すために2023年04月15日

ポール・コリアー (伊藤 真・訳)<白水社・2020.9.10>

 原著は2018年、日本語訳は2020年に発行された本だがこれも図書館の新着本の棚で見つけた。帯には「開発経済学の泰斗が満を持して放つ処方箋」とある。この数年、世の中を良くする方策の本として、主にアナーキズム関連を読んできたので、別の立場からの議論も知りたいと思って読んでみた。先の柄谷の「力と交換様式」と同じく私にとって異分野の用語が多用され、プラグマティズム、ポピュリズムまではよかったが、コミュニタリアニズム(共同体主義)、ロールズ主義になるとネットで調べても著者が伝えたいであろうイメージが掴めず、読みにくかった。理系の人が一般向けに書くときは用語の初出時に簡単な説明をつけると思うが、こういう分野では難しいのだろうか。
 著者はイギリス・シェフィールドで低学歴の両親のもとに生まれながら、奨学金を得てオックスフォード大学で学び、オックスフォード、ハーヴァード、パリの大学の教授職につき、さらに大英帝国の勲章、ナイト爵位、英国学士院の学士院長賞を得たという政治経済学者。一方、著者の従姉妹は14歳まで自分とほぼ同じ境遇だったが、父親が急死したために10代で子供を産み、それに伴う問題や恥辱も味わった。「私は成功した一流家族と崩壊して貧困に落ち込んでしまう家族という、スキルと意欲が生み出す格差も味わってきた」と著者はいう。本書ではロンドンのような大都会とシェフィールドに代表される衰退した地方都市、高学歴層と低学歴層、スキルのある高所得者とスキルを持たない低所得者、という対比が何度も強調されるが、自分は両者を良く知ると言いたいのだろう。本書の著者紹介によれば、「アフリカをフィールドワークの中心としながら、世界の最貧国の最底辺で暮らす人びとに寄り添い、先進諸国の政治・経済政策やグローバリズムの弊害に厳しい批判の目を向けてきた」というから、基本的には弱者の側に立つ人と思われる。
 このように経験豊富で、その世界では恐らく著名な学者が書いた「処方箋」ということでそれなりの期待を持って読んだのだが、共感や納得する部分はあったものの、「新・資本主義」という点では少しがっかり、というのが率直な感想である。著者の責任ではないが、誤字脱字が多かったことも悪印象に繋がったのかも知れない。それにしても自らを「一流家族」と呼ぶことには驚いた。たとえイギリスのような階層社会で客観的に見れば自分はそうであると判断したとしても、謙遜を旨とする日本の感覚では考えられない。
 著者は、現在の社会では経済格差が急激に拡大しているために、「深刻な亀裂の数々が私たちの社会を大きく切り裂こうとしている。それは人びとに新たな不安と新たな怒りを抱かせ、同時に新たな政治的な激情も生み出している。」とする。その亀裂の一つとして「場所」の要素が大きく関わり、国レベルだけでなく、大都市と地方都市の違いも大きい。また「新たなスキルを身につけた高学歴者たち」という支配者層が生まれ、それに伴って大都市圏でも全国的にも低学歴の「白人労働者層」という「蔑称」で呼ばれる人びとが危機に直面している、という。著者は欧米先進国を考えているが、日本で言えば前者は「ヒルズ族」だろうか。このような現状を打開する方策を提案するために本書は書かれた。
 著者の基本的なスタンスは「資本主義は多くの成果をあげてきたし、繁栄には欠かせない。だが資本主義経済を過度に楽観視すべきではない」。マルクス主義がダメなことは、ソ連などの共産主義国が権威主義的であり、最終的に滅びたことで既に実証済み、とする。著者が良かったと考える資本主義は、第二次世界大戦後から1970年頃までの先進諸国で、「その資本主義はコミュニタリアニズムによる社会民主主義としっかりと結びついていた」。しかしその後「コミュニタリアニズムは社会的父権主義に取ってかわられた」ために反発されるようになり、結果としてイデオローグか、またはポピュリストが支持されるようになった。「左派のインテリたちが実際的なコミュニタリアニズムに根ざした社会民主主義を放棄し、功利主義やロールズ主義のイデオロギー支持へと移っていく中、中道右派の諸政党は見識に乏しい懐古主義(ノルタルジア)に凝り固まるか、これに劣らず見当外れなインテリ集団の虜になっていった。イタリアのベルルスコーニ、フランスのジャック・シラク、ドイツのメルケルらに象徴されるヨーロッパ大陸諸国のキリスト教徒民主主義者たちは、おおかたノスタルジアの道を選んだ。」バーニー・サンダース、ジェレミー・コービンがイデオローグかどうか、私には判断できないが、彼らのことも嫌いらしい。レッテル貼りが好きな人のようだ。
 そこで著者は「社会的母権主義(ソーシャル・マターナリズム)」と呼ぶ諸政策を提案する。「国家は社会と経済の両方の領域で積極的に役割を果たすが、過度に自らの権力を増大させることはしない。租税政策は強者たちが分不相応な利益を持ち去ることがないように抑制するが、喜び勇んで富裕層から所得を奪い取って貧困層に配るようなことはしない。」というが、残念ながらそれらの違いは私には良くわからなかった。著者が良しとする政治家は、シンガポールのリー・クアンユー、カナダのトルドー、ルワンダのカガメであり、全てプラグマティストとして賞賛する。フランスのマクロンも評価している。
 著者がシェフィールドを愛するように、郷土愛としての「愛国心が人びとを結束させる推進力となり、不平不満に基づく個々にばらばらなアイデンティティは重視されなくなる。」「本書のプラグマティズムは道徳的価値観にしっかりと、そして一貫して根ざしている。・・「左寄り:というアイデンティティは道徳的優越感を感じるための怠惰な手法となっている。「右寄り」というアイデンティティは自分は「現実的」だと感じるための怠惰な手法となっている。みなさんはこれから本書を通じて倫理的な資本主義の未来を探究することになるーーど真ん中の中道へ、ようこそ」。これらの表現の仕方は私にはどうも気に入らない。
 著者が言う「新・資本主義」とは「道徳的な資本主義」のことで、それには家族、企業、国家という3つの組織への帰属意識が重要であり、それぞれ「倫理的な家族」など章立てして、著者が考える、あるべき3つの組織像が書かれている。これらの組織のリーダーは、成員に「義務感」を生み出すことよって彼らの順守性(コンプライアンス)を劇的に増大させることができる。すなわち成員が嫌々するのではなく、「すべき」と判断して行動するように仕向けるということだ。ピラミッド型の組織でリーダーが命令によって成員を従わせるのでは自発的な行動は期待できない。企業については、良い例としてトヨタやジョンソン・エンド・ジョンソンなど、また悪い例としてゼネラルモーターズなどで起きた具体的な事例を挙げ、倫理的な企業は発展するし、そうでない企業は没落する(ことがある?)、と考えているようだ。著者の考え方は、トランジションタウンで私が重要と感じた「当事者意識」と通じるし、望ましい組織像とは思うが、家族はともかく、現代の企業で経営者に「道徳的」であろうとするインセンティブを与えることができるのか、国のリーダーにそのような人を国民が選ぶようになるのか、私には甚だ疑問だ。著者は可能と思っているらしいが、このような理想論もプラグマティックなのだろうか。
 「現在、英米系の経済圏では、企業の重役らは自社の所有者たちの利益のために会社を経営することを法的に求められている」そうで、「企業の所有者とはもっぱら株主のことを指す」。しかし「このような仕組みは資本主義に初めから備わっているものではない。」という。「おそらく今や分散化されていない最大のリスクは、一つには勤続年数の長い従業員らが負うリスクだろう。自分自身という人的資本をたった一つの会社に投資してきたのだから。もう一つは長期的かつ構造的に供給を特定の会社に依存するかたちになってしまった顧客が負うリスクだ。」という主張は非常に納得できる。著者は従って、両者のいずれかの代表を取締役会に入れた「相互会社」という企業をベターと考えていて、それは実際に存在するし、広めることも可能と考えている。ただ、そこへの道筋として挙げられる課税や公益の監視などで達成されるのか、私には良くわからない。おそらく著者も提案はするものの、それほど実現性が高いとは考えていないと思った。
 私に最も違和感があったのは、組織の成員同士の「相互扶助」の説明だった。その必要性は私にも理解できるが、著者の表現によれば「ぼくを助けてくれるなら、ぼくも君を助けてあげるよ」となっていて、ということは著者が考える成員間のデフォルトは「信頼できない仲間」であるように思えた。私なら「君を助けてあげるから、ぼくのことも助けてね」とするところだが、理想的過ぎるのだろうか。
 一般論としてプラグマティックな考え方はそれなりに理解できるし、どちらかと言えば私もそれに近い部分はあるかも知れないとも思う。いわゆる「原理主義」が多くの軋轢や亀裂を生むであろうことも深く納得する。しかし全てのイデオロギーを排する姿勢で世の中うまくいくのだろうか、とも思ってしまう。また道徳や倫理の重要性についても同意するが、現在のグローバルな競争の中にいる企業や国家にそれを求めても無理だろう、との思いは拭えない。
 これまで考えたことが無かったのは、「場所」に関する議論のうち、大都市の優位性に関することで、人や企業が集積すること自体によって利益が生まれ、特定の層のみがその利益を得ているという話だ。それは本人あるいは当該企業の能力や努力によらない利益であるから、適切に課税すべき、と著者は主張する。具体的に人で言えば、そのような利益を得ているのが地主なのか、あるいは「新たなスキルを身につけた高学歴者たち」なのか、といかにもイギリスらしい図式的な議論があり、理屈としてはもっともと思ったが、そのような課税の仕組みが実施可能なのか私にはわからない。日本の地方交付税のような税金の徴収と分配をもっと精密に、ということなのだろうか。
 著者が懐かしむ社会民主主義は、当時活発だった協同組合が結束して生まれた中道左派政党によるらしく、また著者の故郷であるシェフィールドを含む地域で盛んになった協同組合運動が、ほぼヨーロッパ全域に急激に普及していったことを、誇らしげに語っている。外観だけ見ると、著者とグレーバーや柄谷、さらにはトランジションタウンの考え方とは水と油だが、協同組合などは共通するように感じ、歩み寄ることはできないのだろうか、と思ってしまった。但し、現在の著者はローカルな活動の再現を考えているのではなく、企業のグローバル化は基本的に善であり、国際的なあるいは国内での対応を適切に行えば有益としているので、やはり水と油か。

スギと広葉樹の混交林 蘇る生態系サービス2023年04月29日

清和研二 <農文協・2022.9.20>

 日本の林業やスギ人工林について、これまで新聞等で見る以外ほとんど知識がなく、自分が花粉症ではないので関心も低かったが、中島岳志の新聞書評に興味を惹かれたことと、本書を出版した農文協(農山漁村文化協会)がこれまで畑関連の調べ物(モグラ対策など)で見た雑誌のほか、地域コミュニティ活動関連の本でも良い印象を持っていたこともあり、さらに近隣の図書館にあったので読んでみた。戦後の日本で大量に作られたスギ人工林の問題点やその改善策について学べただけでなく、これまで読んだ樹木や菌類の本の内容とも結びついて充分に面白かった。著者は東北大学農学部の名誉教授で、日本の森林を良くする(回復させる)ために自身の研究成果を広く知らせたいとの思いで本書を書いたとのことである。
 従来の日本では、スギやヒノキは主に吉野、尾鷲などの「いわゆる有名林業地帯」に植えられ、人工植栽した林をきっちりと密度管理し、高品質な材を売っていた。第二次大戦後、「このような先進地の施業を真似れば、日本全国どこでも林業経営が成り立つだろう」との安易で無定見な考えが国策として行われ、結果としてなんと日本の森林の41%を針葉樹(主にスギとヒノキ)人工林に変えてしまった、という。しかしこれだけの木材に対する需要が続くはずもなく、また安い外材の輸入に押されてスギ材の価格は1980年頃をピークにして値崩れを続け、長期低落に陥った。こうなると悪循環で、森林の管理に手をかける動機も薄れ、さらに林業従事者の高齢化が伴って多くの人工林が放置されたままになっているのが現状らしい。もともと日本にあった天然林は、世界自然遺産になった秋田・白神山地のブナ林に見られるような広葉樹林であり、また天然のスギ林でも多くの広葉樹と混交して多様性が高く、さらに人の手が加わった林でも、かつては薪炭の材料となる広葉樹が多かったようだ。すなわち、この70年ほどの間に、多様性を無視して一見、ヒトに都合がいいように単純化した「自然」を日本中に作ってきた。ジャレド・ダイアモンドが「文明崩壊」に記したような、江戸時代の持続可能な森林利用システムとは異なる方向に一気に進んだわけだ。これほどまで大規模な自然の改造が国策として、私が生きていた時代の日本で行われてきたことは認識していなかった。
 本書の副題にある「生態系サービス」は私には馴染みがない言葉で、本書に何の解説も無かったが、ウィキペディアによれば「生物・生態系に由来し、人類の利益になる機能のこと。「エコロジカルサービス」や「生態系の公益的機能」とも呼ぶ」となっていて、雨水の保持による洪水防止や水質浄化、土壌の生産力の向上や持続性などを指すようだ。但し、著者は人類の利益だけでなく、動植物全体を含めた生態系の復活を意図している。本書はスギ人工林を広葉樹との混交林に変えることによって生態系サービスが回復するという研究成果をまとめたものであり、生態系サービスを変えるには現在、林野庁その他で進められようとしている程度の混交林では不十分であり、もっと強いスギの間伐が必要、というのが本書の主張である。
 著者らは、拡大造林時代に植えられた東北大の広大なスギ人工林を実験に用いた。2003年の秋、ほぼ均一な環境の林を9区画(1区画が 0.5 - 0.6 ha)に分け、間伐強度を3段階(無間伐、弱度間伐、強度間伐)に変えて3回反復した。ここでの弱度間伐(全材積の3分の1の抜き取り)が現在、日本中で一般的に行われている間伐法に近く、本実験の目玉は強度間伐(全材積の3分の2の抜き取り)である。2008年秋、2020年秋にも同じ地域に同じ間伐を繰り返した。林学の実験は息が長い。この実験地の周囲には広葉樹林が広がっていて、間伐された空き地には周囲から種々の樹木のタネが飛んできて生育し、スギと広葉樹との混交林が自然にできあがったが、弱度と強度の間伐の違いは顕著であり、当然ではあるが広葉樹の種類も本数も強度の方が遥かに多く、すなわち多様性が高くなった。
 本書の主張はここからで、広葉樹が多く種多様性が高いことにより、強度間伐の区域では硝酸態窒素の減少でみた水質の浄化と、その窒素を利用した生産力の向上および持続性(今後の広葉樹の成長も含めて)、土壌の水浸透能の増加に伴う雨水保持能力の向上、すなわち洪水や渇水の防止、さらには広葉樹の実や花を求めてくる動物や昆虫類の増加、などが顕著になった。一方、現在の日本で多く進められている弱度間伐ではその程度が遥かに弱いため、もっと強く間伐をすべきだ、と著者はいう。実験開始からまだ20年足らずであり、樹木の寿命を考えればまだほんの初期の変化を見ているだけだろうが、変化の傾向としては充分に説得力のあるデータと思った(ミミズ等の生物の変化も知りたい、と生物系の私は思ったが)。
 著者の目標は、もともとその地域にあったスギ天然林の復活である。また単に生態系サービスの増加だけを考えるのではなく、それを可能にする林業の成立を目指している。林学とはそういう学問のようだ。地域の自然環境によってその場所に適した樹木の種類は異なってくるが、スギと種々の広葉樹の巨木が混じり合い、いったんその地域にあった天然林に近い姿に近づいてきたら、後はあまり手入れをしなくても維持されるようになるだろう、という。これこそが天然林を求める意義であろうか。また林業に伴う伐採についても提案していて、皆伐と再造林の繰り返しはコスト的にも、生態系サービスの面でも非常に問題が多いため、様々な成長の程度の樹木を部分的にまんべんなく取るべき、とする。この点については、実際に行う際の手間や効率などについて林業従事者から意見がありそうだが、私にはわからない。
 間伐してできた空き地に生育する広葉樹の種類は、それまでその地に生えていた樹木や草の種類の影響が強く出るという。ここには、以前に「菌類は世界を救う」で読んだ樹木と菌類の共生が関与し、樹木によって「アーバスキュラー菌根菌」と「外生菌根菌」のどちらかに感染し、その助けがないと大きくなれない。スギはアーバスキュラー菌根菌と共生するため、スギ林の間伐でできた空き地には同じ菌類を好むカエデやミズキは成育しやすいが、外生菌根菌を好むコナラやクリは成育が止まってしまうそうだ。また牧草もアーバスキュラー菌根菌と共生するため、牧草地に外生菌根菌はいないらしい。従って、著者らの実験林のように広葉樹のタネが飛んでくる場合でも、あるいは種類を選んで植栽する場合でも、しばらくは(数十年?)その影響が出るようだ。但し、老熟した天然林では両方の菌根菌が見られるため、スギ人工林を混交林に変えたあと、長い年月をかけて次第に両者が共存する状態になっていくのだろう。
 世界でベストセラーになった「樹木たちの知られざる生活」を以前、大変面白く読んだが、中央ヨーロッパの、樹木にとって理想的な環境ではブナが一人勝ちになり、どこでもブナ林になってしまうように書かれていた。但しそれは気候(温度、湿度など)によって異なるとのことだったので、日本のように多様性の高い気候の国では、天然林に生える樹木にも場所による多様性が出るのだろう。
 全く知らなかったが日本では2019年、「森林環境税及び森林環境譲与税に関する法律」が成立し、これにより国民1人当たり毎年1000円の森林環境税が2024年から課税される。この法律の目的は「地球温暖化防止や国土の保全や水源の涵養等」なので、それを実現するための方法は「間伐」であると著者は理解しているが、具体的な間伐の方法までは法律に記載されていない。著者が危惧するのは、現在の日本の流れが著者のいう「弱度間伐」であるため、そのまま進めれば、より適した混交林の育成には繋がらない、と考えられることだ。どうもこれが著者の本書執筆の動機だったように思われるが、著者らのデータに基づいて日本の各地で同様の研究が行われ、望ましい間伐と混交林の育成が行われることを強く期待しているようだ。
 花が咲く、実がなる、葉が落ちるなどの現象が、虫や鳥、けものにとって重要なことは理解できるし、ヒトにとっても多くの場合は好ましく感じられるだろう。日本の行政の方向が、単一針葉樹林から混交林に代わろうしているらしいが、それが生態系にとってより良いものになるか、これまで気にしたことがなかった。今後、新聞に出てきたら関心を持って読むことになるだろう。