僕らが変わればまちが変わり、まちが変われば世界が変わる トランジション・タウンという試み2023年03月07日

榎本英剛 <地湧の杜・2021.3.11>

 2年前発行の本だが図書館の新刊置き場で見つけた。タイトルの通り、ボトムアップでまち(地域コミュニティ)や世界を変えようという活動の記録。トランジション・タウンとは、現在の持続不可能な仕組みから持続可能なコミュニティに移行(トランジション)しようとする活動で、2005年にイギリス南部のトットネスという小さな町で始められ、10年強の間に日本を含む世界40カ国以上、1200を超える地域がネットワークに加盟するまで広がったという。著者はそれを日本に最初に持ち込んだ3人のうちの1人で、2009年に神奈川県相模原市の藤野地区で仲間を募って活動を開始した。本書はトランジション・タウンの目的や手法を簡潔にまとめてあり、さらに藤野地区でこれまでに立ち上がった様々な活動を紹介している。何気なく手にした本であったが、こんな活動が世の中にあり、それも世界に広がっていることに驚いた。
 本書ではトランジション・タウンを「市民が自らの創造力を最大限に発揮しながら地域のレジリエンス(底力、と著者は意訳)を高めることで、持続不可能なシステムからの脱依存を図るための実践的な提案活動」と定義している。持続不可能とは一般に、有限である化石エネルギーの利用とか、現在進行中の地球環境破壊を考えると思うが、著者らが言うコミュニティレベルでの持続不可能とは「そこに暮らす住民が生活する上で必要とする食料やエネルギーなどの資源をほとんど外部に依存している」状態を指し、「そうした資源をかなりの程度もともと地元にあるもので賄っているコミュニティ」にすることが活動の目的となる。但し本書でわかることは、この活動はトップダウンではなく、地域住民の一人一人が創造力を発揮し、やりたいことをすることが基本であるため、この目的のためにと指図されることはないし、関わった人たちが身近な活動を通して、この目的の方向に徐々に意識が高まっていくようなしかけになっているという。それはイギリスでこの活動を始めたロブ・ホプキンスが紹介する「トランジションの12ステップ」によく表れていて、立ち上げに尽力したコアグループの人々(著者は3人いればOKとしている)は声を掛けるだけで、実際の活動は関わる人の自発性に全て委ねられているところが面白い。ステップ11は「流れに身を任せる」であり、著者らの藤野地区での活動も最近、コアグループによる定期的なミーティングは無くして「解散」したそうだ。もちろん立ち上がったワーキング・グループやプロジェクトは健在であり、発展的解消と言えるのかも知れない。
 その他の興味深い点をいくつか。著者が日本で活動を始めた当初は、トランジション・タウンの説明をすると「Why」の質問を受けることが多かったが、東日本大震災をきっかけにして人々の基本姿勢が変わり、質問が「How」になったという。震災が日本の持続不可能な状況を人々に知らしめたのだろう。また「もともと地元にあるもので賄っているコミュニティ」にするためには、地元の年寄りの知識や知恵が大切となり、12ステップの一つには「10. お年寄りを大切にする」がある。さらに「3. 地域の関連団体と連携する」とか「9. 地方行政との架け橋をつくる」など、既存の組織(すなわちそれまで地域を支えていた人々)へのレスペクトも欠かさず、藤野でもコアメンバーの多くが既存の地域活動の団体にも所属しているという。12ステップはイギリスで考えられたものであるから、どちらも世界の多くの地域で当てはまる、ということだろう。
 本書にはアナーキズムという言葉は使われていないが(そんな言葉を出したら警戒される?)、読んでいて、これも一種のアナーキズムと思った。これが日本でも広がりつつあるということは、柄谷行人のNAMの活動より人々を巻き込みやすいのだろう。いかに多くの地域の人が当事者意識を持つようになるか、が鍵になるように思え、その点で個人の自発性や創造力を最大限に生かそうとするトランジション・タウンの手法が重要なのかも知れない。まちが変わるところまでは良くわかったが、世界が変わるところまでたどり着くか、残念ながら今のところそれを予感させることは起きていないように思うが、それを無理に追わないことがトランジション・タウンの考え方であり、アナーキズムでもあるのだろう。

力と交換様式2023年03月17日

柄谷行人 <岩波書店・2022.10.5>

 「ニュー・アソシエーショニスト宣言(NAM)」を読んで著者の活動や考え方に興味を持ち、新刊案内で本書を見つけて読んでみた。いつも読む本とはかなり趣きが異なり、私にとっては非常に難解で著者の意図を理解できたとは到底思えないが、一応何とか最後まで読み通したので、メモを残すことにした。私が知りたかったこと、すなわち著者の現在のNAMの活動はどのような考えに裏打ちされているのか、は本書の最後の数ページで何となくわかった気がしたので、もしかしたらそこだけ読んでも結局、何の違いもなかったのかも知れない。
 私にとって本書が難解だった理由の一つは、前提となる知識がほとんどないことで、マルクスの本は若い頃に手にしたことはあったが読み通すことができず、また著者の本も上記1冊しか読んだことがない。史的唯物論の概略は何となくわかるが、それに対する批判やその限界などは全く理解していない。また理系の私には、本書に見られるような極めて断定的な書き方に強い違和感があり、理系の専門書であれば事実と意見は明確に区別されるはずだが、その線引きが曖昧なために読みにくい。さらに「フェティシュ(物神)」「揚棄」など、全く馴染みがない専門用語が出てくることも厄介であった。という弁解を前置きにして、本書を読んで自分が理解したと思ったことを以下に記す。
 著者は2010年に「世界史の構造」の中で、マルクスが唱えた生産様式による分類に対して交換様式の重要性を提案したが、それでは不十分と考えて書いたのが本書らしい。マルクス主義では一般に、「生産様式が経済的なベースにあり、政治的、観念的な上部構造がそれによって規定されている」と考えられているが、著者は経済的なベースは「生産様式だけではなく、むしろ交換様式にある」と考える。交換様式には4つの型があるとする。
A: 互酬(贈与と返礼)、B: 服従と保護(略取と再分配)、C: 商品交換(貨幣と商品)、
D: Aの高次元での回復
 交換様式Aは、私のここ数年の読書で馴染みができた贈与論なので、何となくわかる。集団内部ではなく「見知らぬ、不気味な他者との接触において始まる」贈与と返礼が重要で、デヴィッド・グレーバーが評価した人類学者マルセル・モースが言い出したことだ。人類の原始社会では、以前に考えられていたような互いに必要なものを交換する物々交換ではなく、一方的な贈与と、もらった側が行わなければならないと感じる返礼を交換の基本とする。いわゆる物々交換はこの後に起きる。またここには婚姻による人の交換も含まれる。交換様式Cは通常の貨幣経済を考えればいいので最も理解しやすい。やや難解なのが交換様式Bで、これは一見、交換とは思えないが、「服従すれば保護されるという関係、あるいは、保護されるのでなければ服従しないという双務的な関係」で、Aの互酬性が水平的であり、それを垂直的な上下関係にしたものがBである、とする。確かに服従しないという選択肢があるのなら、双務的と言えるかも知れない。交換様式DとAとの違いについては最後にも触れるが、私には全くわからなかった。Dは、原始社会にあったAではなく、BやCを経験した後に行われるAということか。あるいはBやCの存在をものともせずに成しうるAなのか。
 本書のタイトルにある「力」について。上記のそれぞれの交換様式には力が伴う。「その力は物理的な力ではなく、観念的、あるいは霊的な力を指す」という。モースは交換において生じる(返礼を要求する)力を「物に付着した霊」と考え、マルクスは「フェティシュ(物神)」と呼んだ。そのような宗教的な用語は以降の人々から批判を浴びたらしいが、柄谷はモースやマルクスの考えを擁護し、その力には人智の及ばぬ霊的なものがあると主張する。理系の私にはやはり霊的との解釈は奇異に感じ、ヒトが他のヒトあるいは他のヒト集団から感じる「無言の圧力」と言った方がまだ良いように思った。その力は、集団で生きるように進化した人類が、対人関係において無意識のうちに与えるもの、あるいは感じるもので、集団としても発揮され、その力が社会を動かす。カーネマンらの言うシステム2ではなく、システム1の考え方が関与する力と思われ、従ってカーネマン、トベルスキーの行動経済学のような手法で、ヒトがあるいはヒト集団が感じる「力」を調べることができればいいと思うが、残念ながら私には何のアイディアも出てこない。
 生産様式よりも交換様式から考える方が、人類の歴史を説明しやすいかどうか、今の私には良くわからないので、深追いはしない。もしかしたら今後の考え方に影響を受けるのかも知れないが、今は何とも言えない。
 本書には「銃・病原菌・鉄」のジャレド・ダイアモンドや、ダンバー数のロビン・ダンバーが引用されていて少し驚いた。確かに人類学の流れに入らなくもないから、読んでいて自然ではあったが、私から見れば彼らの本は理系に属していて、前置きに書いたような、私が違和感を持つ断定的な表現が使われることはなかった(と思う)。柄谷は科学、あるいは科学的であることに強い意識を持っているようだが、彼の領域では自然科学のように過去のデータではなく、過去の考え方を引用して自分の考えの根拠に使うようなので、断定的な表現は不可避なのか。
 交換様式Dにおける「高次元での回復」とは何か。「今日世界宗教と見なされる諸宗教・諸宗派はすべて、交換様式Dに根ざしているといってよい。さもなければ、各地に浸透する「世界宗教」たりえなかっただろうから」というが、残念ながら私には理解できない(「世界史の構造」を読んでいないので、単に当方の怠慢かも知れないが)。伝道師という全くの他者からの贈与から始まるAとは考えられないのか。その後の文章でも宗教を交えて考察していて、過去の人たちの議論を踏まえるとそうならざるを得ないのかも知れないが、ヒト集団の行動を科学的に考えるときに宗教を持ち出す必要があるのか、との疑問が拭えない。
 最後の最後に社会主義、共産主義の今後の展望が書かれていて、そこに私が知りたかったことがあった。世界各地に「協同組合」や「協同体(アソシエーション)」などによる交換様式Aが現在も存在することを指摘し、「にもかかわらず、Aに依拠する対抗運動が概してローカルにとどまり、BやCに十分に対抗できるようなものとなりえないということも、否定しえない事実である」とする。また「Aの限界を一先ずB、すなわち、国家権力によって超えること」も議論しているが、「Cは制限されても、Bは残る。また、Aもそこに取り込まれる。・・・その結果、資本が存続することになる。」として、それがBやCを無くす可能性を否定する(著者が望むような資本も国家も無い世界はできない)。そこで出てくるのがDなのだが、著者曰く「Dは、Aとは違って、人が願望し、あるいは企画することによって実現されるようなものではない。それはいわば “向こうから” 来るのだ。」「そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、”Aの高次元での回復” としてのDが必ず到来する、と。」で本書は終わっている。どのような理屈から出てくるのか、何のことやらさっぱりわからないが、これが著者の願望であり、希望的観測なのだろう。
 結局、著者は、ローカルから抜け出すことはできないと知りつつも、「ニュー・アソシエーション」の活動を続け、あるいはサポートし、その先は未知の力に委ねる。やはりこれがアナーキズムの基本的なスタンス、というのが私の理解である。

人類冬眠計画 生死のはざまに踏み込む2023年03月25日

砂川玄志郎 <岩波書店・2022.4.14>

 日本の小児科の医師が、冬眠に医療の未来を感じて研究を始め、一つのブレイクスルーを成したという話。短い本なので、何が起きたのだろうと軽い気持ちから読んでみた。著者が「冬眠研究はまさに黎明期」と言うように、彼の成果が今後どう発展するかわからないが、大きなステップであることは間違いなさそうだ。唐突に専門用語が出てくることがたまにあるものの、基本的には一般の人が著者の考えをわかりやすくたどることができるように書かれている。本書の冒頭に紹介されている、著者によるTED講演(ネット上の無料サイト)により、非常になめらかな英語(日本語字幕付き)で、本書の全貌のわかりやすい説明を聞くことができる。私は本を読んでからこの動画を見たが、先ずTED講演を聞いてからの方が理解しやすいかも知れない。
 著者は国立成育医療センターという日本の小児医療の中心で臨床医として働き、治療が難しい患者を日本各地から受け入れる立場にいた。重症患者の搬送は非常に難しく、揺れが患者の生命維持に必須のチューブを外したり、騒音が患者の呼吸音や心音の異変を察知しにくくしたりすることも起こり得るため、リスクが高い。このような状況の中で著者は、熱帯地域に住むキツネザルという霊長類が冬眠し、5日以上もの間、体温が20度台に維持されるという論文に出会った。ヒトでは数時間でも体温が30度を切れば生命の危機にさらされることから、著者にとって信じがたい報告ではあったが、もしそれが事実なら、同じ霊長類であるヒトも冬眠状態にできる可能性があり、体温を下げられれば酸素やエネルギーの供給を抑えることができ、重症患者の搬送中のリスクを下げるだけでなく、広く医療に貢献できるだろう、と著者は考えた。そこで著者は自分で冬眠研究を行いたいと重い、直ちに大学院への進学の準備を始めたそうだ。
 表題に関する論文はまだ1つだけで、ある遺伝子操作したマウスの脳に、ある物質を加えると一過性に休眠状態にすることができる、というものだ。マウスは本来、冬眠しない動物ではあるが、餌を制限することで1日の中で数時間の休眠(日内休眠)を誘導することができるとする報告がいくつかあった。休眠中は体内の代謝が低下し、体温が下がる。そこで著者は先ず、マウスに影響を与えることなく酸素消費量(代謝の指標)と体温を測定する方法を確立した。著者が研究を開始した大学院を含めて10年間、マウスの睡眠研究を行ったことが役立ったようだ。ちょうど方法が確立した頃に、ある種のノックインマウス(身体の特定の部位だけに特定の遺伝子を発現させた遺伝子改変マウス)が刺激によって数日の単位で休眠状態に入るとの連絡を、櫻井武・筑波大学教授から受け、著者のやりたいことが前に進んだ。このマウスでは刺激後、1時間くらいで酸素消費量の低下が起き、続いて体温が低下する。また著者らが開発したシステムにより、通常は37℃の目標設定温度(種々の温度条件下における熱産生のグラフから外挿される)が9℃低い28℃になっていることがわかった。冬眠動物では目標設定温度が30℃近く低下すると推定されていることから(体温が氷点下になるリスもいるそうだ)、まだ冬眠まで遥か遠いが、大きな一歩であることには違いない。体温が氷点下になったリスの細胞に全くダメージはないのだろうか。極地の海に生きる動物には凍結防止のためのタンパク質が存在すると聞いたような気がするが、恒温動物である哺乳類が本物の冬眠と呼べるほどに体温を下げるには、何か新しい遺伝子が必要になることはないのだろうか。通常の変温動物は何度まで体温を下げても生きているのだろう。疑問はつきない。
 著者は今回の発見を単にラッキーだった(セレンディピティ)と言いたくないので、一般論として、ラッキーを待ち受ける準備なり、その時の注意力なりの必要性を強調している。確かにそれまでに休眠研究の実験系を作り、そのことをどこかでアピールしていたことが櫻井教授からの連絡に繋がったのだろうから、幸運だけで済ますのは失礼だろう。
 著者が目指す方向に進み始めたことから本書では、ヒトの冬眠が実現した際のヒトの身体や社会への影響やリスクについて種々考察していて、その慎重な姿勢は評価できるが、今はまだここでそれを書き記す気にはならない。私が生きている間に、ヒトの体温を下げて医療に応用することは起きるかも知れないが、長期冬眠が実現して宇宙旅行に利用することは私には想像できないから。本書の内容も最初は新聞記事で知ったのだが、また次のブレイクスルーが起きたらマスコミで報道されると期待しよう。