人類冬眠計画 生死のはざまに踏み込む2023年03月25日

砂川玄志郎 <岩波書店・2022.4.14>

 日本の小児科の医師が、冬眠に医療の未来を感じて研究を始め、一つのブレイクスルーを成したという話。短い本なので、何が起きたのだろうと軽い気持ちから読んでみた。著者が「冬眠研究はまさに黎明期」と言うように、彼の成果が今後どう発展するかわからないが、大きなステップであることは間違いなさそうだ。唐突に専門用語が出てくることがたまにあるものの、基本的には一般の人が著者の考えをわかりやすくたどることができるように書かれている。本書の冒頭に紹介されている、著者によるTED講演(ネット上の無料サイト)により、非常になめらかな英語(日本語字幕付き)で、本書の全貌のわかりやすい説明を聞くことができる。私は本を読んでからこの動画を見たが、先ずTED講演を聞いてからの方が理解しやすいかも知れない。
 著者は国立成育医療センターという日本の小児医療の中心で臨床医として働き、治療が難しい患者を日本各地から受け入れる立場にいた。重症患者の搬送は非常に難しく、揺れが患者の生命維持に必須のチューブを外したり、騒音が患者の呼吸音や心音の異変を察知しにくくしたりすることも起こり得るため、リスクが高い。このような状況の中で著者は、熱帯地域に住むキツネザルという霊長類が冬眠し、5日以上もの間、体温が20度台に維持されるという論文に出会った。ヒトでは数時間でも体温が30度を切れば生命の危機にさらされることから、著者にとって信じがたい報告ではあったが、もしそれが事実なら、同じ霊長類であるヒトも冬眠状態にできる可能性があり、体温を下げられれば酸素やエネルギーの供給を抑えることができ、重症患者の搬送中のリスクを下げるだけでなく、広く医療に貢献できるだろう、と著者は考えた。そこで著者は自分で冬眠研究を行いたいと重い、直ちに大学院への進学の準備を始めたそうだ。
 表題に関する論文はまだ1つだけで、ある遺伝子操作したマウスの脳に、ある物質を加えると一過性に休眠状態にすることができる、というものだ。マウスは本来、冬眠しない動物ではあるが、餌を制限することで1日の中で数時間の休眠(日内休眠)を誘導することができるとする報告がいくつかあった。休眠中は体内の代謝が低下し、体温が下がる。そこで著者は先ず、マウスに影響を与えることなく酸素消費量(代謝の指標)と体温を測定する方法を確立した。著者が研究を開始した大学院を含めて10年間、マウスの睡眠研究を行ったことが役立ったようだ。ちょうど方法が確立した頃に、ある種のノックインマウス(身体の特定の部位だけに特定の遺伝子を発現させた遺伝子改変マウス)が刺激によって数日の単位で休眠状態に入るとの連絡を、櫻井武・筑波大学教授から受け、著者のやりたいことが前に進んだ。このマウスでは刺激後、1時間くらいで酸素消費量の低下が起き、続いて体温が低下する。また著者らが開発したシステムにより、通常は37℃の目標設定温度(種々の温度条件下における熱産生のグラフから外挿される)が9℃低い28℃になっていることがわかった。冬眠動物では目標設定温度が30℃近く低下すると推定されていることから(体温が氷点下になるリスもいるそうだ)、まだ冬眠まで遥か遠いが、大きな一歩であることには違いない。体温が氷点下になったリスの細胞に全くダメージはないのだろうか。極地の海に生きる動物には凍結防止のためのタンパク質が存在すると聞いたような気がするが、恒温動物である哺乳類が本物の冬眠と呼べるほどに体温を下げるには、何か新しい遺伝子が必要になることはないのだろうか。通常の変温動物は何度まで体温を下げても生きているのだろう。疑問はつきない。
 著者は今回の発見を単にラッキーだった(セレンディピティ)と言いたくないので、一般論として、ラッキーを待ち受ける準備なり、その時の注意力なりの必要性を強調している。確かにそれまでに休眠研究の実験系を作り、そのことをどこかでアピールしていたことが櫻井教授からの連絡に繋がったのだろうから、幸運だけで済ますのは失礼だろう。
 著者が目指す方向に進み始めたことから本書では、ヒトの冬眠が実現した際のヒトの身体や社会への影響やリスクについて種々考察していて、その慎重な姿勢は評価できるが、今はまだここでそれを書き記す気にはならない。私が生きている間に、ヒトの体温を下げて医療に応用することは起きるかも知れないが、長期冬眠が実現して宇宙旅行に利用することは私には想像できないから。本書の内容も最初は新聞記事で知ったのだが、また次のブレイクスルーが起きたらマスコミで報道されると期待しよう。