脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論2023年04月08日

ジェフ・ホーキンス (太田直子・訳)<早川書房・2022.4.25>

 これも図書館の新刊置き場で見かけ、「脳の最大の謎が解けた!」という誇張とも思える帯の言葉に半信半疑で読んでみたが、序文でリチャード・ドーキンス(「利己的な遺伝子」の著者)が絶賛する通り、もしかしたら歴史に残る本かも知れないと思った。本書はヒトの知能はどういう原理に基づいて成り立っているかについての新しい理論を提案するものであり、その説に基づいて考えられた人工知能(AI)やヒトの意識の捉え方が、これまで読んだどの本よりも説得力があって、AIによるシンギュラリティ(Singularity;技術的特異点)や、AIが人類を滅ぼすリスクについても、現在あるAIの進展の先には起きないとする理屈に納得がいった。一般紙の書評で取り上げられなかったようだが、不思議だ。但し、私が本書の理論を充分に理解したとは思えず、著者の自信たっぷりの書き方や30年前のインテル社での講演の逸話(現在のスマホの隆盛を予言するような携帯型コンピュータの話をしたのに全く受けなかった)、さらに今のAIやヒトの意識に関する記述に私が強く印象付けられただけで、脳の理論自体の評価ではないような気がする。
 著者は脳の研究を志して大学院に入ったが、そこで行われている研究に飽き足らず2年で辞め、シリコンバレーで携帯型コンピュータの会社を起業して成功した後に、その資金を使って独立系の研究会社を立ち上げて、脳の仕組みの解明を目指している、極めて異色の研究者だ。ドーキンスによれば、大学と関係なく政府の補助金にも頼らず、さらにその革命的な理論を表すには論文では足りずに1冊の本が必要という点が、ダーウィンに通じるという。つまり本書は「種の起源」に匹敵するというのが彼の見立てだ。
 本書は3部からなり、第1部は著者が「1000の脳理論(Thousand Brains Theory)」と呼ぶ新しい概念、第2部はAIの現状と著者の理論に基づいて考えるAIの方向性、第3部は脳と知能の働きから考えるヒトの「信念」の問題点や誤った信念がもたらす人類存亡のリスク、そこからの脱出法などが語られる。
 本書で先ず強調されるのは、脳は古い部位の上に新しい部位を加えて進化してきた、ということだ。小さな蠕虫の単純な運動を可能にしているニューロンが我々の脊髄の祖先となり、次に体の一方の端に現れたニューロンの塊が我々の消化と呼吸を制御する脳幹の祖先となった。すなわち脳は時間をかけて、古い部位に新しい部位を加えて進化させることによって、だんだんに複雑なふるまいができるようになった。我々がどれだけ賢くて高機能であっても、呼吸、飲食、セックス、反射反応は生存に不可欠であり、その調節機構は太古から進化してきた古い脳にある。
 哺乳類はここに新皮質を加え、さらにヒトは新皮質を脳の容積の約7割まで拡大して、これがヒトの知能の器官となった。新皮質の進化は、それまでの脳が数億年の期間をかけたのに対して遥かに短く、そのため新皮質は新規の構造が次々と加えられたのではなく、基本的には同じ構造が量的に増えて大きくなった。すなわちヒトの脳の7割は同じ構造の繰り返しということだ。これらは以前から知られていたことのようだが、ヒトの知能は新皮質によって生まれ、真の機械知能は新皮質で働くメカニズムを模してこそ可能と考える著者は、以上の点に重きを置く。従って著者は、新皮質の同じような構造から生まれるヒトの知能は、視覚、聴覚、触覚、言語を司る領域も全て似たような仕組みで動いていると考える。また本書では、感情は古い脳が、知性は新しい脳が担うことを指摘し、著者が考えるAIは新皮質を模した構造と機能を有するものであるから、敢えて古い脳に対応する機能を加えない限り、AIがヒトの感情に類した反応をすることはない、とする。これは言われてみればその通りと納得するしかない。
 新皮質は、広げると大きめの食事用ナプキンくらいで厚さは約 2.5 mm、その基本単位は、面積が約 1 mm2 のコラム(Column、円柱の意味。科学用語としては「カラム」の方が馴染みがあると思うが)であり、細いスパゲッティの小さなかけらのようなコラムが15万個ほどぎっしり横に並んでいる。但し、コラム自体は顕微鏡でも見えない。さらに1つのコラムは、こちらは顕微鏡で見える数百のミニコラムからなり、1つのミニコラムには100個程度のニューロン(脳の中心的な細胞)が含まれる。1978年に発行された「意識する脳 The Mindful Brain」においてマウントキャッスルは、ヒトの知能は全てこの皮質コラムおよびミニコラムにおいて同じ基本アルゴリズムのなせる業と提案した。著者は40年前にそれを読んで深く納得し、以降その具体的な中身について研究を続けて、現在までの成果をまとめたのが本書である。
 ヒトは周囲の様々なものを無意識のうちに認識し、何かそれまでと違うことがあると気付く。家具の配置が変わっていれば意識がそこにいくし、コーヒーカップの手触りがいつもと違えば違和感を覚える。これらは常にヒトが自分を取り巻く世界を予測しているからで、それから外れるとわかる、と著者は考え、このことから、脳は予測マシンであり、あらゆる皮質コラムは予測をしているとした。脳は世界の予測モデルをつくり、予測が間違っていたら、その誤りに注意を向けて、モデルを更新する。予測が正しいときは、予測が行われたことに気付かない。
 脳への入力は、2つの理由で常に変化している。一つは世界が変化しているからで、音や風に揺れる木は動き、車や時計の針も動く。もう一つはヒトが動くからで、歩く、手足を動かす、眼を動かす、頭を回すなど。眼は1秒に3回くらい、サッカードと呼ばれる急速な動きをすることで、眼から脳への情報が変わる。これらの動きを元に、脳は世界の予測モデルを作っている、と著者は考える。そこで著者らは「膨大な数のほぼそっくりの皮質コラムからなる新皮質は、どうやって動きから世界の予測モデルを学習するのか?」という問いを立て、これに答えられれば、新皮質をリバースエンジニアリングできる、と考えた。このような発想は当時の神経科学の中で非常に斬新であった、という。
 著者は、ニューロンの樹状突起活動電位は予測である、と考えた。シナプスで繋がっている樹状突起が入力を受け取るとそのニューロンは樹状突起活動電位を発生し、それが細胞体の電圧を上昇させ、細胞を予測状態にする。これは「位置について、用意・・」の合図を聞くランナーが、走り始める準備を整える様子に似ている、という。この状態にあるニューロンが次に、活動電位を発生するのに十分な入力を受ければ、ニューロンが予測状態ではなかった場合よりも少し早く、その細胞は活動電位を発生する。こうすることで、あるニューロンが接する近隣のニューロンに情報を伝えたとき、予測状態にあるニューロンのみが活動電位を発生し、その他のニューロンは抑制される。一方、予想外の入力が来ると、複数のニューロンが一度に発火する。これは新皮質についての一般的な観察結果と一致するそうで、予想外の入力のほうが、予想されていたものより、はるかに多くの活動を引き起こす、という。1つのニューロンには何千ものシナプスがあるので、各ニューロンが活性化すべきときを予測する何百ものパターンを認識できる。このように、予測は新皮質を構成するニューロンに組み込まれている、というのが著者らの重要な発見の1つとしている。
 さらに著者らは、各皮質コラム内のニューロンの大部分が果たす機能は、座標系をつくって位置を追跡すること、とした。著者らは地図の格子線を例に挙げているが、確かに世界を認識するのに座標は必要であり、またコーヒーカップなどの物体の形も3次元の座標で表すことができる。哺乳類の脳の古い部分(海馬と嗅内皮質)には、訪れたことのある場所の地図を学習するニューロンの存在が知られていて、そこにある「場所細胞」が自分がどこにいるかを教え、「格子細胞」が全体の地図を作る。両者があることにより、環境の完璧なモデルができる。これと似たようなものが新皮質にある、と著者らは考えた。但し、同じではなく、古い脳内の格子細胞と場所細胞が追いかけるのはもっぱら自分の体の位置であるが、新皮質ではこの回路のコピーが皮質コラム1個につき1つ、合わせて15万個あり、新皮質は何千もの位置を同時に追いかける。たとえば皮膚の小区画それぞれ、網膜の小区画それそれが、新皮質のなかに独自の座標系をもっている、と考える。
 ここまでは相手が物体なのでイメージしやすいが、著者はこれと同じ皮質アルゴリズムが、民主主義や人権などの概念、さらには言語や思考でも働いている、とする。すなわちこれらも全て座標系で表されるということで、本書では様々な例やたとえを用いて説明しており、何となくわかるが、何となくしかわからない、という感じだが、ともかく著者はこの説が正しい、と確信している。それは、著者が知っている様々な問題が、この考え方によって非常にうまく説明できるから、という理由による。
 第1部の最後で、本書のタイトルにもなっている「1000の脳」理論を提案する。上述のように各皮質カラムがそれぞれ完全な1つの感覚運動システムを有し、また何かについてのヒトの知識は何千もの皮質コラムに分散している。何千も予測モデルが存在するのに、ヒトが感じる知覚は統合された1つだけである(1つのコーヒーカップについて脳内には何千ものモデルがあるが、ヒトが感じるのは1つ)。このモデルの統合を著者は「コラムによる投票」で説明する。5本の指でコーヒーカップを触るとき、それぞれの指は別々の情報を得るが、ヒトはそれらを統合してコップの形状を知る。物体を細いストローを通して見るとき、全体を認識するにはそのストローを動かさなくてはならないが、眼全体で見るなら、動かさなくても認識できる。新皮質の中で、投票は全てのコラムが行うのではなく、情報を有しているコラム(その中のニューロン)だけであり、それが(15万個のうち)およそ1000個ということで「1000の脳」理論となったようだ。このあたりはトノーニの「統合情報理論」(「意識はいつ生まれるのか」)を思い起こさせるが、本書に言及はない。著者が言う「投票」がトノーニには無い考え方なのだろう。
 著者は、真に知的なAIは、現在、知的であると唯一思われている脳をモデルにしなければできない、と考えていて、脳のメカニズムはそれを作るために必須と信じている。そこで本書の第2部では上述の議論を踏まえ、AI の重要な特性として「たえず学習する」「動きによって学習する」「たくさんのモデルをもつ」「知識を保存するのに座標系を使う」の4つを揚げている。また著者は、「意識」についても述べていて、脳と同じ原理で動く機械には意識がある(もちろん哺乳類にも意識はある)と確信している、という。但し、最初に書いたように、感情を担う古い脳の機能を加えない限り、AIに恐怖も愛情もなく、支配したい、生き延びたいという欲望もない。これらのことは私には非常に説得力があり、一部のAI研究者が危惧するような、AIによるヒトの支配など考えても意味がないように思える。
 最近、ChatGPTなる対話型AIが公表され、私もいろいろ試してみたが確かに想像を超える出来であった。Googleや中国の企業も同様のAIを開発したとの報道もあったが、専門家集団が開発中止を呼び掛ける声明を出したり、使用を禁じた国がでたりするなど、現在のAIシステムでも少し前に私が思っていたレベルより遥かに向上し、ヒトへの影響が大きくなってきているように思う。果たして現行のシステムでも私の予想を超えてシンギュラリティに行き着くのか、あるいは本書の著者が言うように、脳と同じ仕組みでなければ無理なのか、興味津々である。
 本書の第3部では、ヒトの知能が原因となる人類存亡のリスク(地球環境の破壊、核兵器など)について書かれていて、そこでは古い脳と新皮質との争いの結果、ヒトが「誤った信念」を持つことがあることを指摘していて興味深いが、メモが長くなり過ぎたので割愛する。また最後の方ではヒトの火星移住やゲノム編集によるヒトの改変の話題になり、確かに人類の将来として考えるべきことかも知れないが、私の興味、関心から外れるのでこれも省略。

コメント

_ 小料理やさいや ― 2023年04月20日 19:06

ChatGPTがあんなに臆面もなく嘘をつけるのは、古い脳がないからでしょうか?

_ のうかのまねごと ― 2023年04月21日 16:55

コメントありがとうございます。ヒトも間違えるし、臆面もなく嘘をつく(人もいる)ので、その点ではヒトと同じと私は思いました。最近、大学や職場での対応が新聞に出ますが、まだ未熟な子供達を相手にする先生が大変だろうな、というのが私の第一感です。あれは判断力のある大人が使わないと危ないですよね。誰も責任を取ってくれないし。

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