共有地をつくる わたしの「実践私有批判」 ― 2022年09月01日
平川克美 <ミシマ社・2022.2.20>
イギリスのコモンズに類するものの話かな、と思ったことと、これまで著者の本を何冊か読んでそれなりに良い印象があったので読んでみた。
マーク・ボイルの次にこの本を手に取ったのは偶然だったが、両者の方向性は基本的に同じで、ボイルの方が30歳ほど若いが、彼が懐かしむアイルランドの田舎と、本書の著者が思い出す、戦後の東京・蒲田の工業地帯は良く似ている。かつてはどちらも地域の結びつきが強く、隣近所でいろんなものを融通しあうのが当たり前だったが、経済成長によって大きく変わってしまった社会である。ボイルの父は無償で地域の人の自転車修理をしていたし、著者の父は町工場の親方で、早くからテレビがあった自宅にはいろんな人が見にきた、という。両著者とも物欲がなく(あるいはなくなり)、お金(私有財産)や現代の資本主義社会への疑問があり、仲間あるいは共同体への回帰も共通している。西ヨーロッパと東アジアの島国で、似たような感慨を持つ2人がいるのは興味深いが、考えてみれば当然なのかも知れない。2人の顕著な違いは年齢と、ボイルが6年間、企業勤めをしたのに対し(優秀な営業マンだったらしい)、著者はおそらく企業勤めをほとんどしたことがなく、20代の頃から企業の経営者であったことか。
著書は生まれ育った「町の濃密なもたれあいの空気が嫌でたまらず」逃走したが、父親の介護をきっかけに町に戻り、父の死後は実家を売却して近くの賃貸マンションに住んでいるという。今は濃密なもたれあいを求めているわけではないが、かと言ってドライな都会生活を希望しているのでもなく、人とのつながりを大切にしているように感じられる。著者は長年、企業経営に携わっているものの、金儲けのためと考えていないことはこれまで読んだ彼の本から感じていたが、その目指していたことが「共有地をつくる」ことにつながっていることが理解できた。
本書でいう共有地はコモンズとかなり趣きが異なり、本来、私有地であるところを共有地として解放し、いろんな人が自由に出入りできる場所をつくるということだった。著者は過去に経営したリナックス(オープンソースのコンピュータOS)開発拠点の会社の一角に、オープンソースの理念をリアルの場所としたような、自由に来て仕事や雑談ができるスペースを作った。また著者は以前から喫茶店で原稿書きをしていて、彼にとって喫茶店が逃れの街(アジール)だったとの思いがあり、現在は仲間とともにつくった「隣町珈琲」という喫茶店を地域の人がアジールとして利用できる場として提供するとともに、その片隅に自分の書斎のような場所を作っている。この喫茶店は子ども食堂としても利用されているというが、確かに全国に作られている子ども食堂は子どもやその親たちのアジールと言えるし、高齢者や障害者、他国から日本に来ている人々など、特にアジールを必要とする人達のために私有地を提供している話も聞くから、著者と共通する考え方を持ち、実践している人が日本各地にいると言える。
著者は「消費資本主義(法人資本主義)から人資本主義へ」として、私有地を解放して共有地とすることによって、資本主義社会の辺境に、資本主義とは異なる原理で動く場所を作ろう、と提唱している。ボイルの場合と同じく、資本主義の世の中を簡単に変えることができないので、とりあえずその辺境で、それとは異なる生き方をしてみる、ということだ。本の内容は少し期待と違ったが、著者の考え方には共感する部分もあり、ボイルほど極端でないので、今後の自分の生き方の参考になるかな、と思った。
イギリスのコモンズに類するものの話かな、と思ったことと、これまで著者の本を何冊か読んでそれなりに良い印象があったので読んでみた。
マーク・ボイルの次にこの本を手に取ったのは偶然だったが、両者の方向性は基本的に同じで、ボイルの方が30歳ほど若いが、彼が懐かしむアイルランドの田舎と、本書の著者が思い出す、戦後の東京・蒲田の工業地帯は良く似ている。かつてはどちらも地域の結びつきが強く、隣近所でいろんなものを融通しあうのが当たり前だったが、経済成長によって大きく変わってしまった社会である。ボイルの父は無償で地域の人の自転車修理をしていたし、著者の父は町工場の親方で、早くからテレビがあった自宅にはいろんな人が見にきた、という。両著者とも物欲がなく(あるいはなくなり)、お金(私有財産)や現代の資本主義社会への疑問があり、仲間あるいは共同体への回帰も共通している。西ヨーロッパと東アジアの島国で、似たような感慨を持つ2人がいるのは興味深いが、考えてみれば当然なのかも知れない。2人の顕著な違いは年齢と、ボイルが6年間、企業勤めをしたのに対し(優秀な営業マンだったらしい)、著者はおそらく企業勤めをほとんどしたことがなく、20代の頃から企業の経営者であったことか。
著書は生まれ育った「町の濃密なもたれあいの空気が嫌でたまらず」逃走したが、父親の介護をきっかけに町に戻り、父の死後は実家を売却して近くの賃貸マンションに住んでいるという。今は濃密なもたれあいを求めているわけではないが、かと言ってドライな都会生活を希望しているのでもなく、人とのつながりを大切にしているように感じられる。著者は長年、企業経営に携わっているものの、金儲けのためと考えていないことはこれまで読んだ彼の本から感じていたが、その目指していたことが「共有地をつくる」ことにつながっていることが理解できた。
本書でいう共有地はコモンズとかなり趣きが異なり、本来、私有地であるところを共有地として解放し、いろんな人が自由に出入りできる場所をつくるということだった。著者は過去に経営したリナックス(オープンソースのコンピュータOS)開発拠点の会社の一角に、オープンソースの理念をリアルの場所としたような、自由に来て仕事や雑談ができるスペースを作った。また著者は以前から喫茶店で原稿書きをしていて、彼にとって喫茶店が逃れの街(アジール)だったとの思いがあり、現在は仲間とともにつくった「隣町珈琲」という喫茶店を地域の人がアジールとして利用できる場として提供するとともに、その片隅に自分の書斎のような場所を作っている。この喫茶店は子ども食堂としても利用されているというが、確かに全国に作られている子ども食堂は子どもやその親たちのアジールと言えるし、高齢者や障害者、他国から日本に来ている人々など、特にアジールを必要とする人達のために私有地を提供している話も聞くから、著者と共通する考え方を持ち、実践している人が日本各地にいると言える。
著者は「消費資本主義(法人資本主義)から人資本主義へ」として、私有地を解放して共有地とすることによって、資本主義社会の辺境に、資本主義とは異なる原理で動く場所を作ろう、と提唱している。ボイルの場合と同じく、資本主義の世の中を簡単に変えることができないので、とりあえずその辺境で、それとは異なる生き方をしてみる、ということだ。本の内容は少し期待と違ったが、著者の考え方には共感する部分もあり、ボイルほど極端でないので、今後の自分の生き方の参考になるかな、と思った。
ほくはテクノロジーを使わずに生きることにした ― 2022年09月03日
マーク・ボイル (吉田奈緒子訳)<紀伊国屋書店・2021.11.27>
日本では、著者の最初の本「ほくはお金を使わずに生きることにした」からちょうど10年後の国際無買デーに本書が発行された。表紙の写真でも、著者が若者からおじさんになって年月を感じさせる。訳者あとがきによれば、著者の「カネなし生活」は結局3年近く続き、その後、著書の印税によって故国アイルランドに、5年間無人だった12,000 m2の農場を購入して、仲間とともに移住。誰もが無銭経済(ローカルな贈与経済)を体験できる場所作りを始めたという。
著者は20代から動物の権利運動にも関わるビーガン(卵や乳製品も摂らない徹底した菜食主義者)だったが、植物性タンパク質を摂るために輸入品の豆類などの外国産食品に頼ることに疑問を感じ、代わりに自分で釣った魚や交通事故で死んだシカを食べるようになって、より自然に近い、昔ながらの生活になった。それをさらに徹底させたのが、本書でいうテクノロジーを使わない生活で、太陽光発電もせずにパソコンや携帯電話も含めた一切の電気製品を使わず、農耕や土木の作業でも頼るのは人力だけ、としたようだ。また、カネなし生活のときは拾ったライターでストーブを点火したが、今は自力で火を起こしている。親に会うための数百キロの移動ではヒッチハイクしたが、20世紀半ばまで自給自足生活が営まれていたというイングランドの離島に行ったときは、親切なドライバーの誘いを断って全て歩いた。本書には、使わないようにしたというテクノロジーの明確な定義が書かれていないが、産業革命以前の生活なのかも知れない。但し自転車は使っている(19世紀に誕生したらしい)。本書の発行にあたり、タイプ印刷が必要なことは納得し、そのために短期間だけテクノロジーを使うことにして自分でタイプ(パソコン入力?)したそうだ。カネなし生活は当初から期間限定のつもりだったが、今回の場合は本書を読む限り、今のところずっと続けるつもりなのかも知れない。
環境を破壊する現代のテクノロジー全盛時代に異議を唱え、地球上の全生物との共生を願う著者が、自ら実践しようとするその徹底ぶりには驚嘆するが、全テクノロジーを否定することが「地球にやさしい」のかという疑問もあるし、環境保全の意識はそれなりに高いつもりでいる私が本書を読んでも、自分の行動にいささかの影響も与えられなかった気がする。本書の原題はThe Way Home(家へ帰る道)。著者は「原始人になる」ことにしっくりこないというが、原題を見ると方向性としては単にアイルランドに戻るというだけでなく、昔のアイルランドの生活へ、ということなのだろう。つい、何と酔狂な人がいるもんだ、と思ってしまうが、著者と同じ体験ができる施設を作り、訪れる人に無料で解放しているので(巻末にその際の心得が載っている)、実験的な試みとして有意義なのかも知れない。イギリスのTVドキュメンタリーで取り上げられたというから、それなりに注目もされているのだろう。
日本では、著者の最初の本「ほくはお金を使わずに生きることにした」からちょうど10年後の国際無買デーに本書が発行された。表紙の写真でも、著者が若者からおじさんになって年月を感じさせる。訳者あとがきによれば、著者の「カネなし生活」は結局3年近く続き、その後、著書の印税によって故国アイルランドに、5年間無人だった12,000 m2の農場を購入して、仲間とともに移住。誰もが無銭経済(ローカルな贈与経済)を体験できる場所作りを始めたという。
著者は20代から動物の権利運動にも関わるビーガン(卵や乳製品も摂らない徹底した菜食主義者)だったが、植物性タンパク質を摂るために輸入品の豆類などの外国産食品に頼ることに疑問を感じ、代わりに自分で釣った魚や交通事故で死んだシカを食べるようになって、より自然に近い、昔ながらの生活になった。それをさらに徹底させたのが、本書でいうテクノロジーを使わない生活で、太陽光発電もせずにパソコンや携帯電話も含めた一切の電気製品を使わず、農耕や土木の作業でも頼るのは人力だけ、としたようだ。また、カネなし生活のときは拾ったライターでストーブを点火したが、今は自力で火を起こしている。親に会うための数百キロの移動ではヒッチハイクしたが、20世紀半ばまで自給自足生活が営まれていたというイングランドの離島に行ったときは、親切なドライバーの誘いを断って全て歩いた。本書には、使わないようにしたというテクノロジーの明確な定義が書かれていないが、産業革命以前の生活なのかも知れない。但し自転車は使っている(19世紀に誕生したらしい)。本書の発行にあたり、タイプ印刷が必要なことは納得し、そのために短期間だけテクノロジーを使うことにして自分でタイプ(パソコン入力?)したそうだ。カネなし生活は当初から期間限定のつもりだったが、今回の場合は本書を読む限り、今のところずっと続けるつもりなのかも知れない。
環境を破壊する現代のテクノロジー全盛時代に異議を唱え、地球上の全生物との共生を願う著者が、自ら実践しようとするその徹底ぶりには驚嘆するが、全テクノロジーを否定することが「地球にやさしい」のかという疑問もあるし、環境保全の意識はそれなりに高いつもりでいる私が本書を読んでも、自分の行動にいささかの影響も与えられなかった気がする。本書の原題はThe Way Home(家へ帰る道)。著者は「原始人になる」ことにしっくりこないというが、原題を見ると方向性としては単にアイルランドに戻るというだけでなく、昔のアイルランドの生活へ、ということなのだろう。つい、何と酔狂な人がいるもんだ、と思ってしまうが、著者と同じ体験ができる施設を作り、訪れる人に無料で解放しているので(巻末にその際の心得が載っている)、実験的な試みとして有意義なのかも知れない。イギリスのTVドキュメンタリーで取り上げられたというから、それなりに注目もされているのだろう。
プリズン・サークル ― 2022年09月16日
坂上 香 <岩波書店・2022.3.24>
ブレイディみかこの本で同名のドキュメンタリー映画(2020年1月公開)の存在を知ってから、ずっと見たいと思っていたが、なかなか機会がなく、監督が書いたという本書が出版されたのでこちらから先に読んでみた。映画の方は日本の刑務所の中での撮影ということで極めて制約が多かったため、映像として残せなかった出来事や撮影終了後の話などがあり、充分に読み応えのある本になっていた。とは言えやはり映像がないと主人公の訓練生(受刑者)4人のイメージがつかみにくく、どうしても隔靴掻痒の感があって、結局は映画を見てから再度読むことになりそうだ。
著者は以前にアメリカの刑務所や社会復帰施設における更生プログラムの映画「ライファーズ(Lifers, 終身刑もしくは無期刑受刑者のこと)」(2004年公開)を作ったことがあり、犯罪者の更生に関心のある人には有名だったようだが、私は全く知らなかった。ブレイディみかこの紹介で知ったあと、「言葉を失ったあとで」の信田と上間の対談でも触れられ、さらに現在、坂上自身が毎日新聞にアメリカの受刑者に関する連載を書いているので、益々、興味をそそられた。
映画「プリズン・サークル」は、日本にできた4つのPFI(Private Finance Initiative)刑務所の一つ「島根あさひ社会復帰促進センター」で行われているTC(Therapeutic Community = 回復共同体)ユニットを取材した映画である。TCはアメリカの一部で行われている更生プログラムで、受刑者の人権を尊重して対話を重視し、再犯防止とともに出所後の生活回復に有効とされているという。ちなみに「サークル」は、この会話が椅子を丸く並べる円座を表し、本書の表紙にも描かれている。著者曰く、TCが日本で実現するとは信じられない(日本の刑務所は世界でもかなり遅れているので)ことだったそうだが、「島根あさひ」では受刑者(このセンターでは訓練生と呼ばれる)や支援者(専門家である民間の職員)を含んだコミュニティが確かに存在し、信頼関係を伴った会話が成立している。職員が訓練生をさん付けで呼びかけることに、著者は大変驚いている。さらに出所後も、これも通常の刑務所では考えられないことだそうだが、一部の元受刑者は支援者たちを含めた「コミュニティ」を保ち、そこには元受刑者の家族も参加したとの話がエピローグに出てくる。さらには出所者と地域住民との交流まで行われたそうだ。どれほどの割合かわからないが、TCユニットは少なくとも一部の元受刑者のその後の人生に大きな影響を与えている。本書では、映画で主人公として取り上げた4人を中心に、その他数人の訓練生の変化(回復)が記されている。TCは日本全体の受刑者、約4万人のうちのたった40人、0.1% が参加しただけではあるが、第一歩としては素晴らしい試みに思えた。。
犯罪者の結構な割合の人が幼少期からの虐待やDVなどの被害者であることは、多くの本やメディアが伝えるところであり、犯罪を全て自己責任として本人に押し付けるのは、あまりに不公平であるように思う。また社会にとっても、少しでも多くの出所者が社会の一員として活躍する方が、日陰者として一生を終えるより好ましいはずだ。この映画の撮影後、TCユニットは停滞(後退?)しているようであるが、何とか続けて欲しいと思う。早く映画を見てみたい。
ブレイディみかこの本で同名のドキュメンタリー映画(2020年1月公開)の存在を知ってから、ずっと見たいと思っていたが、なかなか機会がなく、監督が書いたという本書が出版されたのでこちらから先に読んでみた。映画の方は日本の刑務所の中での撮影ということで極めて制約が多かったため、映像として残せなかった出来事や撮影終了後の話などがあり、充分に読み応えのある本になっていた。とは言えやはり映像がないと主人公の訓練生(受刑者)4人のイメージがつかみにくく、どうしても隔靴掻痒の感があって、結局は映画を見てから再度読むことになりそうだ。
著者は以前にアメリカの刑務所や社会復帰施設における更生プログラムの映画「ライファーズ(Lifers, 終身刑もしくは無期刑受刑者のこと)」(2004年公開)を作ったことがあり、犯罪者の更生に関心のある人には有名だったようだが、私は全く知らなかった。ブレイディみかこの紹介で知ったあと、「言葉を失ったあとで」の信田と上間の対談でも触れられ、さらに現在、坂上自身が毎日新聞にアメリカの受刑者に関する連載を書いているので、益々、興味をそそられた。
映画「プリズン・サークル」は、日本にできた4つのPFI(Private Finance Initiative)刑務所の一つ「島根あさひ社会復帰促進センター」で行われているTC(Therapeutic Community = 回復共同体)ユニットを取材した映画である。TCはアメリカの一部で行われている更生プログラムで、受刑者の人権を尊重して対話を重視し、再犯防止とともに出所後の生活回復に有効とされているという。ちなみに「サークル」は、この会話が椅子を丸く並べる円座を表し、本書の表紙にも描かれている。著者曰く、TCが日本で実現するとは信じられない(日本の刑務所は世界でもかなり遅れているので)ことだったそうだが、「島根あさひ」では受刑者(このセンターでは訓練生と呼ばれる)や支援者(専門家である民間の職員)を含んだコミュニティが確かに存在し、信頼関係を伴った会話が成立している。職員が訓練生をさん付けで呼びかけることに、著者は大変驚いている。さらに出所後も、これも通常の刑務所では考えられないことだそうだが、一部の元受刑者は支援者たちを含めた「コミュニティ」を保ち、そこには元受刑者の家族も参加したとの話がエピローグに出てくる。さらには出所者と地域住民との交流まで行われたそうだ。どれほどの割合かわからないが、TCユニットは少なくとも一部の元受刑者のその後の人生に大きな影響を与えている。本書では、映画で主人公として取り上げた4人を中心に、その他数人の訓練生の変化(回復)が記されている。TCは日本全体の受刑者、約4万人のうちのたった40人、0.1% が参加しただけではあるが、第一歩としては素晴らしい試みに思えた。。
犯罪者の結構な割合の人が幼少期からの虐待やDVなどの被害者であることは、多くの本やメディアが伝えるところであり、犯罪を全て自己責任として本人に押し付けるのは、あまりに不公平であるように思う。また社会にとっても、少しでも多くの出所者が社会の一員として活躍する方が、日陰者として一生を終えるより好ましいはずだ。この映画の撮影後、TCユニットは停滞(後退?)しているようであるが、何とか続けて欲しいと思う。早く映画を見てみたい。
多様性の科学 画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織 ― 2022年09月17日
マシュー・サイド (特定の訳者なし)<ディスカヴァー・トゥエンティワン・2021.6.25>
アマゾンのベストセラーNo.1という広告が目にとまり読んでみた。著者はオックスフォード大首席卒業、オリンピックに2回出場した卓球全英チャンピオンで、英「タイムズ」紙のコラムニスト、ライターというから、いくつもの才能に恵まれた人なのだろう。読み終えて、値段がそれほど高くないこともあるだろうが、構成、文章ともにわかりやすく、内容的にベストセラーになって不思議はないと思った。
テーマは「文化がヒトを進化させた」のヘンリックとも共通し、ヒトの賢さは多くの頭脳が集まるからこそ発揮されるという話で、そのためには集団内の多様性が重要ということ。生物にとって多様性は不可欠であり、進化には多様な遺伝子プールが必要だし、感染症など微生物による攻撃や、環境の大きな変化に対して種が生き延びるために多様性は必須であるが、本書ではヒト集団の知性においても多様性が重要で、それは遺伝的だけでなく、文化や習慣、宗教などの面でも多様であることが集団全体としての知性を発揮するのに役立つとしている。ヘンリックらの研究のポイントは歴史を踏まえた集団脳であり、主要な文献として本書でも度々引用されているが、ここでは同時的な集団脳(=集合知)がテーマとなっている。
メンバー全員が非常に優秀であっても多様性が低い画一的な集団は、皆が似たような考え方や視点になるため、複雑なタスクを対象とする場合、優秀さでは劣っているが多様な人々で構成される集団よりも全体としての知性は低くなる。様々な角度から検討することができにくいから、盲点ができやすい、ということだ。アメリカCIAのスタッフは極めて高い割合でWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)が占めていたため、ムスリムの知性や感性を理解できず、9.11同時多発テロの予兆を見逃したと言われている。CIAは職員採用基準を「賢さ」だけにしていただけで、マイノリティを排除しようとしたわけではないらしいが、結果として均一性の高い集団になってしまった。また単に多様性があるだけではダメで、ヒエラルキーの高いメンバーに対して下位者が反対意見を言いやすい状況が重要としていて、実際の現場を考えると充分に納得できた。さらに興味深いのは、イノベーションとは異なる分野の知識の融合があって起きるものであり、メンバーの賢さよりも社交性(異文化交流を起こす)が重要であるという。本書の原題は Rebel Ideas(反逆者のアイディア)。1人の知性には限界があるので、それを乗り越えるには「反逆者」あるいは「第三者のマインドセット」が必要であり、その積み重ねがホモ・サピエンス(賢い人)ということなのだろう。
本書最後の方の「平均値の落とし穴」はやや意外な、私としては若干疑問が残る内容だった。全ての疫学研究は物事を統計的にみるため、その結果を個人に応用するときは(対象を分類分けするにしても)平均値に頼らざるを得ない。たとえば血糖値コントロールのために適切な食事は、統計学的手法を用いて平均値として表された結果から提唱されている。しかし本書で紹介する研究では、血糖値に対する様々な食事の影響を各個人について分析してみると結果はバラバラで非常に個人差が大きいため(遺伝的だけでなく腸内細菌の違いなど)、標準的な食事療法は血糖値コントロールに全く役に立たないように記されている。具体的な研究結果は知らないが、意外ではあったものの不思議ではないし、興味深いと思う。本書では「個人にカスタマイズした食事療法が確立されるのは、まだまだ先の話だろう」とし、「今では患者さん自身に血糖値を測るよう勧めています。そうすれば自分の体に合う食事を見つけられますから」という研究者の言葉を引用している。医療の世界における「個別化」と同じ話と思うが、栄養学の世界では治験と同じレベルの緻密な研究は求められていないだろうから、その精度が医療より低いことは否めない。しかし、全ての人が自分でカスタマイズできるわけではないだろうし、本書の主張は、栄養士の指導をそのまま信用するな、ということになるのだろうか。
アマゾンのベストセラーNo.1という広告が目にとまり読んでみた。著者はオックスフォード大首席卒業、オリンピックに2回出場した卓球全英チャンピオンで、英「タイムズ」紙のコラムニスト、ライターというから、いくつもの才能に恵まれた人なのだろう。読み終えて、値段がそれほど高くないこともあるだろうが、構成、文章ともにわかりやすく、内容的にベストセラーになって不思議はないと思った。
テーマは「文化がヒトを進化させた」のヘンリックとも共通し、ヒトの賢さは多くの頭脳が集まるからこそ発揮されるという話で、そのためには集団内の多様性が重要ということ。生物にとって多様性は不可欠であり、進化には多様な遺伝子プールが必要だし、感染症など微生物による攻撃や、環境の大きな変化に対して種が生き延びるために多様性は必須であるが、本書ではヒト集団の知性においても多様性が重要で、それは遺伝的だけでなく、文化や習慣、宗教などの面でも多様であることが集団全体としての知性を発揮するのに役立つとしている。ヘンリックらの研究のポイントは歴史を踏まえた集団脳であり、主要な文献として本書でも度々引用されているが、ここでは同時的な集団脳(=集合知)がテーマとなっている。
メンバー全員が非常に優秀であっても多様性が低い画一的な集団は、皆が似たような考え方や視点になるため、複雑なタスクを対象とする場合、優秀さでは劣っているが多様な人々で構成される集団よりも全体としての知性は低くなる。様々な角度から検討することができにくいから、盲点ができやすい、ということだ。アメリカCIAのスタッフは極めて高い割合でWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)が占めていたため、ムスリムの知性や感性を理解できず、9.11同時多発テロの予兆を見逃したと言われている。CIAは職員採用基準を「賢さ」だけにしていただけで、マイノリティを排除しようとしたわけではないらしいが、結果として均一性の高い集団になってしまった。また単に多様性があるだけではダメで、ヒエラルキーの高いメンバーに対して下位者が反対意見を言いやすい状況が重要としていて、実際の現場を考えると充分に納得できた。さらに興味深いのは、イノベーションとは異なる分野の知識の融合があって起きるものであり、メンバーの賢さよりも社交性(異文化交流を起こす)が重要であるという。本書の原題は Rebel Ideas(反逆者のアイディア)。1人の知性には限界があるので、それを乗り越えるには「反逆者」あるいは「第三者のマインドセット」が必要であり、その積み重ねがホモ・サピエンス(賢い人)ということなのだろう。
本書最後の方の「平均値の落とし穴」はやや意外な、私としては若干疑問が残る内容だった。全ての疫学研究は物事を統計的にみるため、その結果を個人に応用するときは(対象を分類分けするにしても)平均値に頼らざるを得ない。たとえば血糖値コントロールのために適切な食事は、統計学的手法を用いて平均値として表された結果から提唱されている。しかし本書で紹介する研究では、血糖値に対する様々な食事の影響を各個人について分析してみると結果はバラバラで非常に個人差が大きいため(遺伝的だけでなく腸内細菌の違いなど)、標準的な食事療法は血糖値コントロールに全く役に立たないように記されている。具体的な研究結果は知らないが、意外ではあったものの不思議ではないし、興味深いと思う。本書では「個人にカスタマイズした食事療法が確立されるのは、まだまだ先の話だろう」とし、「今では患者さん自身に血糖値を測るよう勧めています。そうすれば自分の体に合う食事を見つけられますから」という研究者の言葉を引用している。医療の世界における「個別化」と同じ話と思うが、栄養学の世界では治験と同じレベルの緻密な研究は求められていないだろうから、その精度が医療より低いことは否めない。しかし、全ての人が自分でカスタマイズできるわけではないだろうし、本書の主張は、栄養士の指導をそのまま信用するな、ということになるのだろうか。
政治学者、PTA会長になる ― 2022年09月24日
岡田憲治 <毎日新聞出版・2022.2.25>
本書ができるきっかけとなった5日連続の新聞記事を面白く読んでいたので、出版を知って手にするのを心待ちにしていた。PTA自体というより、政治学者が地域活動にどう関わるかへの関心の方が強かったが、読んでみて、期待通りの内容で大満足の読書となった。
著者は大学教授でバリバリの研究者。遅くにできた子どもを育てることに積極的に関わり、小学1年生のときから学校のサッカースクールのボランティア、2年からは夫婦でPTAに参加していたという。その流れから、小学校のPTA会長を依頼され、当初は忙しくて無理、と断り続けたようだが、結局は引き受けることになった。本書は会長選出前のやりとりに始まって、結果的に3年勤めた任期を終えるまでに、著者が体験し、考えたことをまとめてあるのだが、PTAに限らず他の任意団体(例えば地域の自治会)と共通する点が多々あり、参考になることが多いと思った。また著者のスタンスが最初は上から目線と感じたが、PTA運営を継続してきた主婦たちと向き合い、後半では彼女らの立場になって考えるという態度に好感が持てた。それは著者がPTA会長候補となったとき、「ママたちと3時間立ち話ができる」という、ほとんどのパパが絶対にできないことができる珍種、と評された姿勢からくるのだろう。
著者の住む地区は東京・世田谷区の東端(都心側)。小学生の保護者の圧倒的多数はオフィス・ワーカーで、女性も7割近くがフルタイムで働いている。それまでの当該PTAは主婦達によって運営され、古くからの慣習がそのまま残っていて、著者から見るととんでもなく非効率で、無用(と著者が思う)な「仕事」が平日の日中に入って来る。しかしママたちはそれらに不満を感じつつも前例を絶対視し、それを踏襲しないと不安になる。著者はこれに対して憤慨し、大ナタを振るおうとしたために多くの人から猛反発をくらったが、ママたちが最も嫌がっていた「お月見会(町長老の接待)」を廃止したことなどによって次第に信用を得て、具体的な事例は省くが、少しずつ著者が考える改革を実現することができた、というのが全体の流れである。
しかし著者は、古いやり方を守ってきたママたち、すなわち「これまで地域のために子供たちのために頑張ってきた。そこで友情も生まれた。それは自分にとってかけがえのないものだし、そういうやり方で地域を生きることが間違っているとは思えない」と考えている人たちには最後まで考えが伝わらなかった、という。著者はそのことを自分サイドの責任と感じているようで、彼らへの配慮が足りなかったとして、もっと彼らの活動へのリスペクトを示しつつ変革に取り組んでいっていれば、と振り返っている。任期の3年目はコロナ禍に逢って活動は大幅に縮小せざるを得なくなり、改革も道半ばではあったが、相棒の会長補佐(干支一周年下の男性)とともに道筋は作った、との満足感は得られたようだ。
本書の巻末には(著者のブログにもある)、PTA 「思い出そう10のこと」を載せている。
1、PTAは、自発的に作られた「任意団体」です。・・・強制があってはなりません。
2、PTAは、加入していない家庭の子供を差別しません。・・・企業ではないからです。
3、PTAに人が集まらないなら、集まった人たちでできることをするだけです。
4、PTAがするのは、「労働」ではありません。・・・対価のないボランティア「活動」です。
5、PTAのボランティア活動は、もともと不平等なものです。・・・でも「幸福な不平等」です。
6、PTA活動は、ダメ出しをされません。・・・評価はたったひとつ 「ありがとう」 です。
7、PTA活動は、生活の延長にあります。・・・家庭を犠牲にする必要はありません。
8、PTA活動は、あまり頑張り過ぎてはいけません。・・・前例となって「労働」を増やします。
9、PTAは、学校を応援しますが指導はされません。・・・学校と保護者は対等です。
10、PTAの義務は一つだけです。・・・「何のためのPTA?」 と考え続けることです。
この姿勢は地域の活動にもそのまま当てはまるもので、良くまとめられていると思った。参考にしたい。
本書ができるきっかけとなった5日連続の新聞記事を面白く読んでいたので、出版を知って手にするのを心待ちにしていた。PTA自体というより、政治学者が地域活動にどう関わるかへの関心の方が強かったが、読んでみて、期待通りの内容で大満足の読書となった。
著者は大学教授でバリバリの研究者。遅くにできた子どもを育てることに積極的に関わり、小学1年生のときから学校のサッカースクールのボランティア、2年からは夫婦でPTAに参加していたという。その流れから、小学校のPTA会長を依頼され、当初は忙しくて無理、と断り続けたようだが、結局は引き受けることになった。本書は会長選出前のやりとりに始まって、結果的に3年勤めた任期を終えるまでに、著者が体験し、考えたことをまとめてあるのだが、PTAに限らず他の任意団体(例えば地域の自治会)と共通する点が多々あり、参考になることが多いと思った。また著者のスタンスが最初は上から目線と感じたが、PTA運営を継続してきた主婦たちと向き合い、後半では彼女らの立場になって考えるという態度に好感が持てた。それは著者がPTA会長候補となったとき、「ママたちと3時間立ち話ができる」という、ほとんどのパパが絶対にできないことができる珍種、と評された姿勢からくるのだろう。
著者の住む地区は東京・世田谷区の東端(都心側)。小学生の保護者の圧倒的多数はオフィス・ワーカーで、女性も7割近くがフルタイムで働いている。それまでの当該PTAは主婦達によって運営され、古くからの慣習がそのまま残っていて、著者から見るととんでもなく非効率で、無用(と著者が思う)な「仕事」が平日の日中に入って来る。しかしママたちはそれらに不満を感じつつも前例を絶対視し、それを踏襲しないと不安になる。著者はこれに対して憤慨し、大ナタを振るおうとしたために多くの人から猛反発をくらったが、ママたちが最も嫌がっていた「お月見会(町長老の接待)」を廃止したことなどによって次第に信用を得て、具体的な事例は省くが、少しずつ著者が考える改革を実現することができた、というのが全体の流れである。
しかし著者は、古いやり方を守ってきたママたち、すなわち「これまで地域のために子供たちのために頑張ってきた。そこで友情も生まれた。それは自分にとってかけがえのないものだし、そういうやり方で地域を生きることが間違っているとは思えない」と考えている人たちには最後まで考えが伝わらなかった、という。著者はそのことを自分サイドの責任と感じているようで、彼らへの配慮が足りなかったとして、もっと彼らの活動へのリスペクトを示しつつ変革に取り組んでいっていれば、と振り返っている。任期の3年目はコロナ禍に逢って活動は大幅に縮小せざるを得なくなり、改革も道半ばではあったが、相棒の会長補佐(干支一周年下の男性)とともに道筋は作った、との満足感は得られたようだ。
本書の巻末には(著者のブログにもある)、PTA 「思い出そう10のこと」を載せている。
1、PTAは、自発的に作られた「任意団体」です。・・・強制があってはなりません。
2、PTAは、加入していない家庭の子供を差別しません。・・・企業ではないからです。
3、PTAに人が集まらないなら、集まった人たちでできることをするだけです。
4、PTAがするのは、「労働」ではありません。・・・対価のないボランティア「活動」です。
5、PTAのボランティア活動は、もともと不平等なものです。・・・でも「幸福な不平等」です。
6、PTA活動は、ダメ出しをされません。・・・評価はたったひとつ 「ありがとう」 です。
7、PTA活動は、生活の延長にあります。・・・家庭を犠牲にする必要はありません。
8、PTA活動は、あまり頑張り過ぎてはいけません。・・・前例となって「労働」を増やします。
9、PTAは、学校を応援しますが指導はされません。・・・学校と保護者は対等です。
10、PTAの義務は一つだけです。・・・「何のためのPTA?」 と考え続けることです。
この姿勢は地域の活動にもそのまま当てはまるもので、良くまとめられていると思った。参考にしたい。
<反延命>主義の時代 安楽死・透析中止・トリアージ ― 2022年09月27日
小松美彦、市野川容孝、堀江宗正編 <現代書館・2021.7.30>
日本では認められていないが、世界では種々の条件をつけながらも少しずつ広がる安楽死。コロナ禍で感染爆発が起きたときのトリアージ。これらは以前から関心があるテーマだったので読み始めたら、数年前に見たNHKのTVドキュメンタリー番組「彼女は安楽死を選んだ」が主要な話題の一つとして取り上げられ、徹底的に批判されているのに驚いた。<反延命>主義という言葉を使ったのは「安楽死の議論を経ずに、延命の差し控え・中止・終了」が提案される状況を示したいことが理由の1つだそうだが、私が期待した安楽死そのものに関する議論は殆どなかった。
東大の人文系教授3人が編者となり、彼らに加えて3人の医者を含む6人の文章(うち1つはインタビュー)および雨宮処凛、障害者で国会議員・木村英子と編者1人による鼎談からなっている。本書は、冒頭にあるように「<反延命>主義、すなわち人生の最終段階において無益な延命治療をおこなうべきではないとするような風潮を、批判的に解明することを目的」とする。読み始めて最初の堀江と小松の文章に反発を感じ、その印象は最後まで読み進めても消えず、怒りさえ覚えた。小松(編者のリーダー格)は上記TV番組に対して、批難ではなく批判としながらも、「捏造や隠蔽といっても過言ではない」とか、番組をナチスの映画に例えて優生思想と断じるなど、強烈な言葉をもって徹底的に貶めている。本書に対して私は同様の言葉を小松に返したい。本書の体裁は医者のコメントを加えることによって一見、バランスを取っているように見えるが、実際は編者らの主張、すなわち安楽死を含む全ての<反延命>を否定するための本、というのが私の読後感である。小松は、番組ディレクターが重要な場面で通訳の存在を隠したとして「隠蔽」という言葉を使っているが、私には通訳本人が番組への参加に同意しなかった可能性も考えられ、ディレクターの意図がどこにあったのかわからない。「捏造」や「隠蔽」という悪意を含む言葉は私にとって批判というより批難と感じるが、その感覚で言えば私のこの文章も批難の部類に入るのかも知れない。
本書のきっかけは公立福生病院における人工透析中止事件であり、相模原やまゆり園の障害者殺人事件も重要なテーマとなっている。どちらも弱者を死に至らしめた事件ということで共通し、私を含めて多くの人は著者らと同じく、弱者の側に立つであろう。また本書は優生思想の広がりを危惧することが主要な動機となっていて、これに対して私も反対する気はない。しかし本書を読む限り、編者らは優生思想に警告を発することだけにこだわり、自らの安楽死を願う人々(私にとっては彼らも弱者)の気持ちに対して全く配慮をしていない。TV番組の主人公・小島さんは日本で安楽死について議論して欲しいとの思いでTV番組に出演したという。それに対して小松は、彼女の考えを優生思想と断じ、彼女への対応として本書に文章を書いたとする。すなわち、議論をして欲しいという小島さんに対する小松の答えは、議論などしない、と読める。はっきりとは書いていないが、以上の文脈から私は、編者たちは全ての<反延命>を否定し、安楽死を一切認めない、と理解した。小松らはそんな主張をしていない、と反論するかも知れない。しかしもしそうなら、「安易」ではない、ぎりぎり許される安楽死はあるのか、あるとすればそれにはどのような状況が必要なのか、に関する編者ら自身の考えを本書に記すべきと私は思う。それも困難ならば最低限、まだわからないが今後議論したい、でもいい。「安楽死の議論を経ずに」うんぬんと言うなら、後述する医師の言葉だけでなく、安楽死に関する編者ら自身の何らかのコメントを載せることが、少なくとも小島さんに対して優生思想という厳しい言葉を浴びせる際の礼儀もしくは義務ではないか、と私は思う。
本書に登場する3人の医師はそれぞれ、トリアージ、生命維持治療(「延命治療」という医学用語はない、と医師は言う。編者はそれに対してコメントしないが。)、最重度の心身障害を持つ小児や緩和ケア児などの代理意思決定、という少しずつ異なる重いテーマで語っているが、共通するのは決して断定的な言い方をしないことだ。トリアージは「多」であって全てを一括りにはできないし、生命維持治療の中止や安楽死を全て否定したりしない(「たとえ、本人が死にたいと言ったからといって、それでいい、とは私は思っていません」というのが医師の言葉である)。真摯に患者に向かう医師は、迷いつつもそれぞれ個別の患者にとっての最善を探す。それに対して編者らは、優生思想につながるからという理由で、安楽死に関する一切の議論をせずに切り捨てているように私には見える。医者の章を設けることで編者らの意図をカムフラージュしていると感じたことが、小松に対する上記の私のコメントになった(正直、私は番組ディレクターや本書の手法を悪いとは思わないが、小松がディレクターを批難するなら貴方も、と言いたいだけだ)。編者の一人が<反延命>を訴える人々を「医療右翼」と呼んだそうだが、私には編者らの考え方も右翼的に見える。安楽死も、夫婦別姓も、同性婚も、皆さんがどうこうではなく、マイノリティである自分たちを認めて欲しいと訴えているのに対して、一切ダメ、とすることを保守的というのではないだろうか。優生思想を阻むという、国民全体の利益と編者らが考える「正義」のためなら多少の犠牲は仕方ない、とさえ読める。まるで沖縄や福島県双葉町に対する国の態度のようだ。
誤解のないように書き加えるが、私も上記医師と同じく、安易に安楽死を肯定するつもりは全くない。小島さんの死に心を動かされたが、それを肯定すべきかどうかもわからない。ただ、肉体的な苦痛は生じなくとも、精神的に絶望的に苦しんでいて、死にたいと念じている全ての人に対して例外なく、絶対ダメ、と大声で主張する気になれないだけだ。小松のTV番組批判は、番組で紹介された、難病にも関わらず延命を希望して生きている患者の娘の言葉「姿があることは、生きてるってことでしょ。姿があるかないかは、私のなかですごくでっかい。」で終わっている。もちろん家族も大事だが、苦しんでいる当事者こそが最も配慮すべき弱者、と私は思う。安楽死を認めつつある西欧の国々でも、苦しんでいる弱者の願いをただ一方的に否定しないために、恐らく多くの議論をしながら、少しずつ法律を変えているのではないのだろうか(翻って日本はいつも「不作為」である)。安楽死について自分で考える材料を期待して本書を開いたが、医者のためらいの言葉は胸に響いたものの、編者らは「門前払い」をしていただけだった。小松が上記TV番組を「非常にいびつな番組」とするなら、同じ意味で本書は、医者の言葉を利用した「いびつな本」と私は思う。
日本における自殺の多さは、他人に迷惑をかけたくない、という日本人に多い考え方も原因の一つと私は考えていて、安楽死を望む人たちについても同様の心理が働いているように思う。自分の意思で何もできず、他人に迷惑をかけるだけの自分に精神的苦痛を感じる人がいて、中にはその苦しみが極端に強く、そういう自分の存在自体にいたたまれなくなる人がいても不思議はない。私は「閉じ込め症候群」というものを知ったとき、自分がそうなることを想像して恐怖に襲われた。TVに出た小島さんの場合、将来確実に自分が動けなくなると判断し、そうなる自分は耐えられない、そうなってからではもう遅いと考えた。もちろん心理は変わり得るから、何かのきっかけで耐えられるようになるかも知れず、様々な方法を使って安楽死を思い留めさせる試みは必要かも知れない。しかしそれでも、全ての人に「ダメ」と誰が言えるだろうか。それを国が「犯罪」としていいものだろうか。本書の中で小児科医の笹月が書いているように、おそらくいつまでたっても、どう議論してもそう簡単に「答え」は出てこない。しかしだからといって、苦痛に苛まれている人を放置して、不作為のままでいいのだろうか。(少しでも認めれば自死を、夫婦別姓の場合は家庭の崩壊を、同性婚では同性愛を、助長することになる、という保守派の常套句が聞こえてきそうだ。)ここでは触れなかったが、肉体的苦痛から安楽死を希望する人に対しても、もちろん同じ議論ができるだろう。
本書の鼎談の中に相模原障害者殺人事件・植松被告の死刑が言及されているが、国による暴力的な死の押し付けという意味では死刑こそが大問題であり、多くの先進国では死刑廃止になっているのに対して日本では広い議論さえない。犯罪者の中には経済的だけでなく、小児期の虐待やDVの被害者など多くの弱者がいる、と私は考えていて、死刑制度も弱者切り捨ての一つと思う。編者らは死刑廃止も訴えているのだろうか、あるいは専門分野が異なるから関わらないのだろうか? (犯罪者に対する他の刑罰制度も同じと思うが、それは別の読書メモで)
日本では認められていないが、世界では種々の条件をつけながらも少しずつ広がる安楽死。コロナ禍で感染爆発が起きたときのトリアージ。これらは以前から関心があるテーマだったので読み始めたら、数年前に見たNHKのTVドキュメンタリー番組「彼女は安楽死を選んだ」が主要な話題の一つとして取り上げられ、徹底的に批判されているのに驚いた。<反延命>主義という言葉を使ったのは「安楽死の議論を経ずに、延命の差し控え・中止・終了」が提案される状況を示したいことが理由の1つだそうだが、私が期待した安楽死そのものに関する議論は殆どなかった。
東大の人文系教授3人が編者となり、彼らに加えて3人の医者を含む6人の文章(うち1つはインタビュー)および雨宮処凛、障害者で国会議員・木村英子と編者1人による鼎談からなっている。本書は、冒頭にあるように「<反延命>主義、すなわち人生の最終段階において無益な延命治療をおこなうべきではないとするような風潮を、批判的に解明することを目的」とする。読み始めて最初の堀江と小松の文章に反発を感じ、その印象は最後まで読み進めても消えず、怒りさえ覚えた。小松(編者のリーダー格)は上記TV番組に対して、批難ではなく批判としながらも、「捏造や隠蔽といっても過言ではない」とか、番組をナチスの映画に例えて優生思想と断じるなど、強烈な言葉をもって徹底的に貶めている。本書に対して私は同様の言葉を小松に返したい。本書の体裁は医者のコメントを加えることによって一見、バランスを取っているように見えるが、実際は編者らの主張、すなわち安楽死を含む全ての<反延命>を否定するための本、というのが私の読後感である。小松は、番組ディレクターが重要な場面で通訳の存在を隠したとして「隠蔽」という言葉を使っているが、私には通訳本人が番組への参加に同意しなかった可能性も考えられ、ディレクターの意図がどこにあったのかわからない。「捏造」や「隠蔽」という悪意を含む言葉は私にとって批判というより批難と感じるが、その感覚で言えば私のこの文章も批難の部類に入るのかも知れない。
本書のきっかけは公立福生病院における人工透析中止事件であり、相模原やまゆり園の障害者殺人事件も重要なテーマとなっている。どちらも弱者を死に至らしめた事件ということで共通し、私を含めて多くの人は著者らと同じく、弱者の側に立つであろう。また本書は優生思想の広がりを危惧することが主要な動機となっていて、これに対して私も反対する気はない。しかし本書を読む限り、編者らは優生思想に警告を発することだけにこだわり、自らの安楽死を願う人々(私にとっては彼らも弱者)の気持ちに対して全く配慮をしていない。TV番組の主人公・小島さんは日本で安楽死について議論して欲しいとの思いでTV番組に出演したという。それに対して小松は、彼女の考えを優生思想と断じ、彼女への対応として本書に文章を書いたとする。すなわち、議論をして欲しいという小島さんに対する小松の答えは、議論などしない、と読める。はっきりとは書いていないが、以上の文脈から私は、編者たちは全ての<反延命>を否定し、安楽死を一切認めない、と理解した。小松らはそんな主張をしていない、と反論するかも知れない。しかしもしそうなら、「安易」ではない、ぎりぎり許される安楽死はあるのか、あるとすればそれにはどのような状況が必要なのか、に関する編者ら自身の考えを本書に記すべきと私は思う。それも困難ならば最低限、まだわからないが今後議論したい、でもいい。「安楽死の議論を経ずに」うんぬんと言うなら、後述する医師の言葉だけでなく、安楽死に関する編者ら自身の何らかのコメントを載せることが、少なくとも小島さんに対して優生思想という厳しい言葉を浴びせる際の礼儀もしくは義務ではないか、と私は思う。
本書に登場する3人の医師はそれぞれ、トリアージ、生命維持治療(「延命治療」という医学用語はない、と医師は言う。編者はそれに対してコメントしないが。)、最重度の心身障害を持つ小児や緩和ケア児などの代理意思決定、という少しずつ異なる重いテーマで語っているが、共通するのは決して断定的な言い方をしないことだ。トリアージは「多」であって全てを一括りにはできないし、生命維持治療の中止や安楽死を全て否定したりしない(「たとえ、本人が死にたいと言ったからといって、それでいい、とは私は思っていません」というのが医師の言葉である)。真摯に患者に向かう医師は、迷いつつもそれぞれ個別の患者にとっての最善を探す。それに対して編者らは、優生思想につながるからという理由で、安楽死に関する一切の議論をせずに切り捨てているように私には見える。医者の章を設けることで編者らの意図をカムフラージュしていると感じたことが、小松に対する上記の私のコメントになった(正直、私は番組ディレクターや本書の手法を悪いとは思わないが、小松がディレクターを批難するなら貴方も、と言いたいだけだ)。編者の一人が<反延命>を訴える人々を「医療右翼」と呼んだそうだが、私には編者らの考え方も右翼的に見える。安楽死も、夫婦別姓も、同性婚も、皆さんがどうこうではなく、マイノリティである自分たちを認めて欲しいと訴えているのに対して、一切ダメ、とすることを保守的というのではないだろうか。優生思想を阻むという、国民全体の利益と編者らが考える「正義」のためなら多少の犠牲は仕方ない、とさえ読める。まるで沖縄や福島県双葉町に対する国の態度のようだ。
誤解のないように書き加えるが、私も上記医師と同じく、安易に安楽死を肯定するつもりは全くない。小島さんの死に心を動かされたが、それを肯定すべきかどうかもわからない。ただ、肉体的な苦痛は生じなくとも、精神的に絶望的に苦しんでいて、死にたいと念じている全ての人に対して例外なく、絶対ダメ、と大声で主張する気になれないだけだ。小松のTV番組批判は、番組で紹介された、難病にも関わらず延命を希望して生きている患者の娘の言葉「姿があることは、生きてるってことでしょ。姿があるかないかは、私のなかですごくでっかい。」で終わっている。もちろん家族も大事だが、苦しんでいる当事者こそが最も配慮すべき弱者、と私は思う。安楽死を認めつつある西欧の国々でも、苦しんでいる弱者の願いをただ一方的に否定しないために、恐らく多くの議論をしながら、少しずつ法律を変えているのではないのだろうか(翻って日本はいつも「不作為」である)。安楽死について自分で考える材料を期待して本書を開いたが、医者のためらいの言葉は胸に響いたものの、編者らは「門前払い」をしていただけだった。小松が上記TV番組を「非常にいびつな番組」とするなら、同じ意味で本書は、医者の言葉を利用した「いびつな本」と私は思う。
日本における自殺の多さは、他人に迷惑をかけたくない、という日本人に多い考え方も原因の一つと私は考えていて、安楽死を望む人たちについても同様の心理が働いているように思う。自分の意思で何もできず、他人に迷惑をかけるだけの自分に精神的苦痛を感じる人がいて、中にはその苦しみが極端に強く、そういう自分の存在自体にいたたまれなくなる人がいても不思議はない。私は「閉じ込め症候群」というものを知ったとき、自分がそうなることを想像して恐怖に襲われた。TVに出た小島さんの場合、将来確実に自分が動けなくなると判断し、そうなる自分は耐えられない、そうなってからではもう遅いと考えた。もちろん心理は変わり得るから、何かのきっかけで耐えられるようになるかも知れず、様々な方法を使って安楽死を思い留めさせる試みは必要かも知れない。しかしそれでも、全ての人に「ダメ」と誰が言えるだろうか。それを国が「犯罪」としていいものだろうか。本書の中で小児科医の笹月が書いているように、おそらくいつまでたっても、どう議論してもそう簡単に「答え」は出てこない。しかしだからといって、苦痛に苛まれている人を放置して、不作為のままでいいのだろうか。(少しでも認めれば自死を、夫婦別姓の場合は家庭の崩壊を、同性婚では同性愛を、助長することになる、という保守派の常套句が聞こえてきそうだ。)ここでは触れなかったが、肉体的苦痛から安楽死を希望する人に対しても、もちろん同じ議論ができるだろう。
本書の鼎談の中に相模原障害者殺人事件・植松被告の死刑が言及されているが、国による暴力的な死の押し付けという意味では死刑こそが大問題であり、多くの先進国では死刑廃止になっているのに対して日本では広い議論さえない。犯罪者の中には経済的だけでなく、小児期の虐待やDVの被害者など多くの弱者がいる、と私は考えていて、死刑制度も弱者切り捨ての一つと思う。編者らは死刑廃止も訴えているのだろうか、あるいは専門分野が異なるから関わらないのだろうか? (犯罪者に対する他の刑罰制度も同じと思うが、それは別の読書メモで)
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