サイボーグになる テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて ― 2025年05月05日
キム・チョヨブ/金草葉、キム・ウォニョン/金源永(牧野美加・訳)<岩波書店・2022.11.17>
後天性難聴の障害を有し、大学では自然科学を専攻したSF作家の女性(チョヨブ、1993年生まれ)と、生まれつき骨が弱い骨形成不全症のために3歳までに少なくとも10回以上の骨折を経験した弁護士で作家、パフォーマーでもある男性(ウォニョン、1982年生まれ)が章ごとに交互に書き、最後に対談が載っている。同じ論点を違う表現で繰り返して取り上げるなど、全体の統一性に少し不満が残ったが、全体としては充分に読む価値のある本と思った。対談では両者とも自分がどう感じているか、どう考えているのかを非常に率直に語っていて、彼らの問題意識が広く、深いことも感じられた。
2人は約10歳の年齢差に加えて性別、専門性も異なるが、ともに10代半ばにそれぞれ補聴器、車椅子を使い始めたという共通点があり、当事者として本書のテーマを語っている。マイノリティ当事者が支援に関して書いた本という意味で「当事者は嘘をつく」と共通しており、どちらの場合も多くの支援者は上から目線で、当事者を画一的に見るため、当事者本人の意向を尊重するわけではない、と主張していると理解した。
本タイトルを見たときは、補助器具を使っている障害者を「サイボーグ」と呼ぶことに違和感があったが、本書によれば障害当事者が自らをサイボーグと考えることは稀というから、世間の呼称を使って世の中に問いかけたと思われる。サイボーグという言葉はCybernetic と Organism からできた造語で、人間を宇宙に送るために考案されたそうで、「テクノロジーによって改造された新しい形態の人間で、臓器移植や薬物の注入、機械との結合などによって、極限の宇宙環境でも生存できるよう増強された人間を意味する」ものだった。
科学技術の飛躍的な発展により障害を補う様々な機器が作られ、著者らを含めた多くの障害者に利用されている。さらに、たとえば階段を登る車椅子など画期的な補助機器も開発されている。また医療の面では、障害の治療法や新薬などに莫大な投資が行われ、いずれ障害者も非障害者と全く同じように生活できる未来が待っている、かのようなお伽話が語られている。しかし現実では、障害者には貧困に喘いでいる人が多く、最先端の高価な機器を使えるのはごく限られた人であり、また購入できるほど裕福な人でも他人の視線に耐えるという別の試練もある。
障害を治療する医療についても著者らは懸念を表明する。確かに遠い未来の素晴らしい世界のために研究を続けることは必要であろうが、今、現実に困っている障害者が生きやすいようにすることも重要であり、そのバランスが金銭面でも社会の関心でも、前者に偏り過ぎている、と彼らは考えている。
世の中には障害学なる学問があり、そこでは「障害は損傷した身体を持つ一個人の問題ではない、損傷と相互作用する社会や環境が特定の身体を『障害化」するのだ』と主張されている、という。障害を治療の対象と捉える「障害の医療モデル」に対して、「障害の社会モデル」では物理的な施設や社会制度を変えることによって障害を解消することを目指す。
聴覚障害は目に見えないため、補聴器を使うことは障害の可視化に繋がり、聴覚障害者は社会的スティグマを嫌がって補聴器を付けないことが多い。高齢に伴う聴覚障害の場合でも同様で、私の周囲にもそういう高齢者がいるし、自分がそうなった場合を考えても如何にもありそうだ。「歩行車ではなく松葉杖を使い、あまり楽ではないけれど『脚のように見える』義足をつけ、リアルタイムで字幕を表示してくれるプログラムを使う代わりに、全神経を集中させて相手の口の形を見つめる人たち、つまりサイボーグなることよりならないことを、隠れたサイボーグとして生きることを選ぶ人たちが、ここにいる。スティグマ、非障害者のふりをして生きたいという切望、ありのまま受け入れてもらいたいという思い、それらのはざまで障害者は絶えず緊張の中に置かれている。スティグマが強い社会であるほど、障害や病気を抱える人たちはそれを隠すことを選択をする。」目立つことは悪いことであり、多数の人と同じことが重要な日本では特にそうだろう。
種々のマイノリティの話と同様に、障害を正常に対する異常と捉えるのではなく、多様性の一部とする考え方が障害者の中で広がっている。障害を恥じたり否定したりしないという強固な自己認識に基づき、自分の障害は単なる差異や違いに過ぎないのであれば、その障害を治すために時間や費用をかけるのは矛盾していると考える。その先にあるのが、日本の脳性麻痺の障害者で尊敬を集めているという人権活動家が放ったという言葉「ぼくは障害を治す薬ができても飲みません!」である。その考えをどれほどの障害者が支持するかわからないが、理屈でいけばそうなるのは理解できる。ただ、もし私が同じ境遇にいたら、たとえ理屈ではそうでも、そのように考え行動するとは想像しにくい。
その他にもいくつかの主張があったがカットして、印象に残ったことをいくつか。
「感動ポルノ」とは、非障害者に感動やインスピレーションを与えるための道具として障害者をモノ扱いするマスコミやメディアを批判する表現。
性的マイノリティが自らをクィア(queer:奇妙な、風変わりな)と呼ぶように、障害者が自らをクリップ(crip:不具)と呼ぶことで障害に対する蔑みを逆手に取り、非障害者中心主義や「正常性の規範」に積極的に抵抗する。「クリップ・テクノサイエンス宣言」では、これまでおもに非障害者の専門家が障害者のために技術を開発する、という構図を覆し、障害者や障害者コミュニティが自ら築き上げるテクノポリティックスの実現を目標とする。やはりどこか「当事者は嘘をつく」の小松原織香の考え方と重なり、一方的で寄り添う姿勢のない支援者に対するマイノリティの主張と思った。
後天性難聴の障害を有し、大学では自然科学を専攻したSF作家の女性(チョヨブ、1993年生まれ)と、生まれつき骨が弱い骨形成不全症のために3歳までに少なくとも10回以上の骨折を経験した弁護士で作家、パフォーマーでもある男性(ウォニョン、1982年生まれ)が章ごとに交互に書き、最後に対談が載っている。同じ論点を違う表現で繰り返して取り上げるなど、全体の統一性に少し不満が残ったが、全体としては充分に読む価値のある本と思った。対談では両者とも自分がどう感じているか、どう考えているのかを非常に率直に語っていて、彼らの問題意識が広く、深いことも感じられた。
2人は約10歳の年齢差に加えて性別、専門性も異なるが、ともに10代半ばにそれぞれ補聴器、車椅子を使い始めたという共通点があり、当事者として本書のテーマを語っている。マイノリティ当事者が支援に関して書いた本という意味で「当事者は嘘をつく」と共通しており、どちらの場合も多くの支援者は上から目線で、当事者を画一的に見るため、当事者本人の意向を尊重するわけではない、と主張していると理解した。
本タイトルを見たときは、補助器具を使っている障害者を「サイボーグ」と呼ぶことに違和感があったが、本書によれば障害当事者が自らをサイボーグと考えることは稀というから、世間の呼称を使って世の中に問いかけたと思われる。サイボーグという言葉はCybernetic と Organism からできた造語で、人間を宇宙に送るために考案されたそうで、「テクノロジーによって改造された新しい形態の人間で、臓器移植や薬物の注入、機械との結合などによって、極限の宇宙環境でも生存できるよう増強された人間を意味する」ものだった。
科学技術の飛躍的な発展により障害を補う様々な機器が作られ、著者らを含めた多くの障害者に利用されている。さらに、たとえば階段を登る車椅子など画期的な補助機器も開発されている。また医療の面では、障害の治療法や新薬などに莫大な投資が行われ、いずれ障害者も非障害者と全く同じように生活できる未来が待っている、かのようなお伽話が語られている。しかし現実では、障害者には貧困に喘いでいる人が多く、最先端の高価な機器を使えるのはごく限られた人であり、また購入できるほど裕福な人でも他人の視線に耐えるという別の試練もある。
障害を治療する医療についても著者らは懸念を表明する。確かに遠い未来の素晴らしい世界のために研究を続けることは必要であろうが、今、現実に困っている障害者が生きやすいようにすることも重要であり、そのバランスが金銭面でも社会の関心でも、前者に偏り過ぎている、と彼らは考えている。
世の中には障害学なる学問があり、そこでは「障害は損傷した身体を持つ一個人の問題ではない、損傷と相互作用する社会や環境が特定の身体を『障害化」するのだ』と主張されている、という。障害を治療の対象と捉える「障害の医療モデル」に対して、「障害の社会モデル」では物理的な施設や社会制度を変えることによって障害を解消することを目指す。
聴覚障害は目に見えないため、補聴器を使うことは障害の可視化に繋がり、聴覚障害者は社会的スティグマを嫌がって補聴器を付けないことが多い。高齢に伴う聴覚障害の場合でも同様で、私の周囲にもそういう高齢者がいるし、自分がそうなった場合を考えても如何にもありそうだ。「歩行車ではなく松葉杖を使い、あまり楽ではないけれど『脚のように見える』義足をつけ、リアルタイムで字幕を表示してくれるプログラムを使う代わりに、全神経を集中させて相手の口の形を見つめる人たち、つまりサイボーグなることよりならないことを、隠れたサイボーグとして生きることを選ぶ人たちが、ここにいる。スティグマ、非障害者のふりをして生きたいという切望、ありのまま受け入れてもらいたいという思い、それらのはざまで障害者は絶えず緊張の中に置かれている。スティグマが強い社会であるほど、障害や病気を抱える人たちはそれを隠すことを選択をする。」目立つことは悪いことであり、多数の人と同じことが重要な日本では特にそうだろう。
種々のマイノリティの話と同様に、障害を正常に対する異常と捉えるのではなく、多様性の一部とする考え方が障害者の中で広がっている。障害を恥じたり否定したりしないという強固な自己認識に基づき、自分の障害は単なる差異や違いに過ぎないのであれば、その障害を治すために時間や費用をかけるのは矛盾していると考える。その先にあるのが、日本の脳性麻痺の障害者で尊敬を集めているという人権活動家が放ったという言葉「ぼくは障害を治す薬ができても飲みません!」である。その考えをどれほどの障害者が支持するかわからないが、理屈でいけばそうなるのは理解できる。ただ、もし私が同じ境遇にいたら、たとえ理屈ではそうでも、そのように考え行動するとは想像しにくい。
その他にもいくつかの主張があったがカットして、印象に残ったことをいくつか。
「感動ポルノ」とは、非障害者に感動やインスピレーションを与えるための道具として障害者をモノ扱いするマスコミやメディアを批判する表現。
性的マイノリティが自らをクィア(queer:奇妙な、風変わりな)と呼ぶように、障害者が自らをクリップ(crip:不具)と呼ぶことで障害に対する蔑みを逆手に取り、非障害者中心主義や「正常性の規範」に積極的に抵抗する。「クリップ・テクノサイエンス宣言」では、これまでおもに非障害者の専門家が障害者のために技術を開発する、という構図を覆し、障害者や障害者コミュニティが自ら築き上げるテクノポリティックスの実現を目標とする。やはりどこか「当事者は嘘をつく」の小松原織香の考え方と重なり、一方的で寄り添う姿勢のない支援者に対するマイノリティの主張と思った。
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