当事者は嘘をつく ― 2025年04月18日
小松原 織香 <筑摩書房・2022.1.26>
何年も前から読みたいと思っていた本。いわゆる「当事者研究」ではなく、当事者が苦しみ抜いて研究者となり、事件から20年以上たってカミングアウトした話である。NHK「こころの時代」で著者の言葉を聞いてさらに興味を持ち、読み終えたあとにまた録画を見直した。
最初に著者が苦闘の末にたどり着いた「回復の物語」を記す。
「私は19歳のときに性暴力の被害に遭いました。その後、トラウマに苦しみ、死を考えるほど追い詰められていました。でも、自助グループにであって、自分の経験を仲間たちと分かち合うなかで、回復することができました。それから、私はもっと性暴力の問題を追求したいと考え、大学院に進学しました。いまは研究者として活動しています。」
本書はこの経過の詳細を描いたもので、その時々にどのような状態で、どう考え、どう行動したか、を研究者らしい目線で分析している。
著者は、性暴力被害者に限らず、様々な原因でトラウマを抱える若い人が今後の人生を考える上で、あるいはそのような当事者の心情を理解するのに役立つかも知れないと考えて本書を書いた、という。「この本の目的は、性暴力の被害を告発することでも、被害者の苦しみを訴えることでもない。過去の強烈な経験を引きずりながら生き延びるなかで私が見た風景を描くことだ。」「真実を明らかにするためではなく、私の生きている世界を共有するために。」
著者の研究テーマである「修復的司法 Restorative Justice」は、国家が犯罪者を処罰することで問題の解決をはかる刑事司法に対して、被害者と加害者の対話を中心に置いて問題解決を目指す。著者の研究内容は博士論文を書籍化した「性暴力と修復的司法ーー対話の先にあるもの」(西尾学術奨励賞受賞)でわかるだろうが、読んでないので知らない。司法による問題解決には被害者の回復と加害者の更生(再犯の防止)の両方が含まれると思うが、これまで私が関心を持って読んできた坂上香は後者の視点なのに対して、本書を読む限り著者の場合は前者にある。
著者のトラウマは精神科医療で全く改善されず、2年足らずの自助グループへの参加によって冒頭の「回復の物語」を得て生き延びた。また著者は性暴力被害者に対する善意の支援者に対して「顔が紅潮し、血が沸騰するような怒りで爆発寸前」になる経験をした。当事者が欲する「私を理解して欲しい」という願いを医者も支援者も受け止めることはなかった、という。(後に訪れたノルウェーの医療者なら寄り添ってくれただろうに、と涙したそうだ。)著者は加害者に対して殺したいほどの怒りをもつ時期もあったが、「赦し」を与えることを考え続けた。一方、医者やカウンセラー、研究者などの支援者は終始、著者にとって「敵」であり、彼らに対する怒りのエネルギーが著者を研究者にした、と私は理解した。
著者は当事者と研究者の狭間で苦悩しながらも、当事者であることを伏せたまま長らく研究を続けた。その葛藤も本書に詳細に記されている。著者は学位取得の目処が立った頃から水俣病の修復的司法に関心を持ち、当事者ではない単なる支援者として水俣の人々と接するようになった。すなわち自身が憎んだ立場に身を置いたときの「風景」も本書に記している。
タイトルは著者がいつも気にしていることで、無意識のうちに嘘をついているのではないか、自分の言葉に嘘が含まれていないか、という自省の気持ちを表しているが、もう一つ、当事者であることを隠して、単なる支援者のふりをして研究者を続けてきたことも含まれる。
著者が経験した「トラウマ」は私がこれまでイメージしていたものを遥かに超えていて、サバイバーという言い方が納得できた。またそれが著者だけに起きたのではないことは、多くの被害者の分析をした精神科医や被害者サバイバーの文章の中に「これは自分のことだ」と著者が感じたという言葉に表されている。本書は当事者だけが持つそのリアリティを、研究者目線で長期間に渡って記したことに価値がある。なるほど、そう思うのか、という記述が多数あった。性暴力に限らず、おそらく虐待なども含めた様々な被害者が同様の状態に陥る可能性があるのだろう。今後、もし私が支援者の立場になった場合はもちろん、マスコミなどで様々な当事者の言動に接してその状況を把握しようとする際にも、本書で読んだことが影響するだろう。少なくとも私に関して著者の目的は達成された、と思う。
何年も前から読みたいと思っていた本。いわゆる「当事者研究」ではなく、当事者が苦しみ抜いて研究者となり、事件から20年以上たってカミングアウトした話である。NHK「こころの時代」で著者の言葉を聞いてさらに興味を持ち、読み終えたあとにまた録画を見直した。
最初に著者が苦闘の末にたどり着いた「回復の物語」を記す。
「私は19歳のときに性暴力の被害に遭いました。その後、トラウマに苦しみ、死を考えるほど追い詰められていました。でも、自助グループにであって、自分の経験を仲間たちと分かち合うなかで、回復することができました。それから、私はもっと性暴力の問題を追求したいと考え、大学院に進学しました。いまは研究者として活動しています。」
本書はこの経過の詳細を描いたもので、その時々にどのような状態で、どう考え、どう行動したか、を研究者らしい目線で分析している。
著者は、性暴力被害者に限らず、様々な原因でトラウマを抱える若い人が今後の人生を考える上で、あるいはそのような当事者の心情を理解するのに役立つかも知れないと考えて本書を書いた、という。「この本の目的は、性暴力の被害を告発することでも、被害者の苦しみを訴えることでもない。過去の強烈な経験を引きずりながら生き延びるなかで私が見た風景を描くことだ。」「真実を明らかにするためではなく、私の生きている世界を共有するために。」
著者の研究テーマである「修復的司法 Restorative Justice」は、国家が犯罪者を処罰することで問題の解決をはかる刑事司法に対して、被害者と加害者の対話を中心に置いて問題解決を目指す。著者の研究内容は博士論文を書籍化した「性暴力と修復的司法ーー対話の先にあるもの」(西尾学術奨励賞受賞)でわかるだろうが、読んでないので知らない。司法による問題解決には被害者の回復と加害者の更生(再犯の防止)の両方が含まれると思うが、これまで私が関心を持って読んできた坂上香は後者の視点なのに対して、本書を読む限り著者の場合は前者にある。
著者のトラウマは精神科医療で全く改善されず、2年足らずの自助グループへの参加によって冒頭の「回復の物語」を得て生き延びた。また著者は性暴力被害者に対する善意の支援者に対して「顔が紅潮し、血が沸騰するような怒りで爆発寸前」になる経験をした。当事者が欲する「私を理解して欲しい」という願いを医者も支援者も受け止めることはなかった、という。(後に訪れたノルウェーの医療者なら寄り添ってくれただろうに、と涙したそうだ。)著者は加害者に対して殺したいほどの怒りをもつ時期もあったが、「赦し」を与えることを考え続けた。一方、医者やカウンセラー、研究者などの支援者は終始、著者にとって「敵」であり、彼らに対する怒りのエネルギーが著者を研究者にした、と私は理解した。
著者は当事者と研究者の狭間で苦悩しながらも、当事者であることを伏せたまま長らく研究を続けた。その葛藤も本書に詳細に記されている。著者は学位取得の目処が立った頃から水俣病の修復的司法に関心を持ち、当事者ではない単なる支援者として水俣の人々と接するようになった。すなわち自身が憎んだ立場に身を置いたときの「風景」も本書に記している。
タイトルは著者がいつも気にしていることで、無意識のうちに嘘をついているのではないか、自分の言葉に嘘が含まれていないか、という自省の気持ちを表しているが、もう一つ、当事者であることを隠して、単なる支援者のふりをして研究者を続けてきたことも含まれる。
著者が経験した「トラウマ」は私がこれまでイメージしていたものを遥かに超えていて、サバイバーという言い方が納得できた。またそれが著者だけに起きたのではないことは、多くの被害者の分析をした精神科医や被害者サバイバーの文章の中に「これは自分のことだ」と著者が感じたという言葉に表されている。本書は当事者だけが持つそのリアリティを、研究者目線で長期間に渡って記したことに価値がある。なるほど、そう思うのか、という記述が多数あった。性暴力に限らず、おそらく虐待なども含めた様々な被害者が同様の状態に陥る可能性があるのだろう。今後、もし私が支援者の立場になった場合はもちろん、マスコミなどで様々な当事者の言動に接してその状況を把握しようとする際にも、本書で読んだことが影響するだろう。少なくとも私に関して著者の目的は達成された、と思う。
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