残された時間 脳外科医マーシュ、がんと生きる2025年04月07日

And Finally - Matters of Life and Death
by Henry Marsh
ヘンリー・マーシュ (小田嶋由美子・訳、仲野徹・監修)<みすず書房・2024.4.1>

 既に引退した、イギリスの著名な脳外科医が進行性前立腺がんを宣告され、これまでの医者としての自分の態度を振り返るとともに、医療を良く知るがん患者として「残された時間」を考えた本。友人が経営するネパールの病院や、ソ連時代からのウクライナで医療に従事したこと、その他プライベート生活の記述が多々あったが、あまり興味がなかったのでここでは全て省略。時期的にはコロナ禍のロックダウンに始まり、あとがきにウクライナ侵攻が出てくる。Wikipediaで補足すれば著者の前立腺がんは化学的去勢と放射線治療によって寛解し、ロシア侵攻後のウクライナにも度々訪れて地元医師の指導をしているという。本書に対する不満はないが、既に数冊あるという、監修の仲野が絶賛する著作を読んでみたいとまでは思わなかった。
 自分の脳のMRI画像を見て、その老化ぶりに衝撃を受けるところから本書は始まる。他人には見ないように勧めるのに、無意識のうちに自分は医者だから患者にはならない、と考えて、見てしまったことの告白で、がんになったことについても同じ感想を抱いたそうだ。自分ががんを宣告されたあと、昔の患者の記憶が蘇るようになったという。
 医者としての自分を振り返った記述で印象深かったこと。
 「外科医は、その成功によってではなく、失敗によって、すなわち合併症の発症率によって評価されなければならない」「一般的に言えば、優秀な外科医ほど難しい奨励の担当数が多くなり、結果的に合併症の発症率が高くなる」ため「こうした評価を行うことは意外なほど難しい」。
 ふーん、なるほどね、という程度の印象だったのは、私はがんではなく、血管系の病気で死ぬと信じ込んでいるためか、あるいはこれまで友人、知人として接してきた医者のほとんどが内科系であったためか、どうも命に関わる病気で外科医にかかることが自分ごととして考えられないからかも知れない。
 外科医は、キャリアの最初の頃には患者の前で実際よりずっと経験豊富で有能であるかのように振る舞わねばならない、という。そうしないと切られる患者が不安になるから、というのは納得できた。アメリカの進化論学者トリヴァースが提唱する「人間が有する自己欺瞞の能力」、すなわち「不正直な行いをするときに自分自身を欺けば、無意識の「気配」やそぶりを通じて自分の不正直さを露呈する可能性が低くなる」という説を引用して、外科医も同様であり、自己欺瞞は重要な臨床技術、という。著者は非常に誠実な医者のようだが、いつもその自覚をもって患者に接することができる、非常に自制的な医者はそれほど多くないだろう。
 がん患者としての記述では、自分にそのような経験がないため、死に向き合う気持ちをリアリティを持って理解できた気がしなかった。がん患者が書いた本という意味では、遠い昔に読んだ江國滋の「おい癌め・・」の方が遥かに印象的だった。自分が死を間近にして身体が弱ってきたときでもできる趣味として確かに俳句はいいかも、と思ったことを覚えている。江國はそのまま死んで、マーシュは寛解したからかも知れない。実際に自分に死が迫ってきたと感じるときに本書を読んだら、また違う印象になるのだろうか。
 本書で最も印象が強かったのは自死幇助に関する記述だ。著者はイギリスで自死幇助が合法化されていないことに強い不満を持っている。自死は違法ではないのに(自死に失敗しても罪に問われないということか)、それを助けることが法に反することに著者は納得がいっていない。「多くの国で自死幇助が合法化されているということは、実際にそれが機能することのエビデンスである」とまで言っているが、この論理に私は説得されなかった。逆に、反対派が主張するような、自死幇助を合法化すると障害者や高齢者など弱い立場にいる人々の命の価値が減じられる、というエビデンスは一切ないとしているが、どのようなエビデンスをとり得るのだろう。著者の書き方(元の英語ではなく日本語訳)によれば反対派は「多くの医師、親族、医療従事者が、弱い立場にいる人々に自死の手助けを頼むように説得したり、圧力をかけたりしていると主張」するそうだが、「本当?」と思ってしまう。少なくとも日本で起こり得ると想像できるのは「無言の圧力」だろう。日本人である私は、著者のこの書き方は自論を有利にするための「強弁」と思った。
 もう一点、日本との違いと思われたのは、著者は「中絶と自死幇助に対して並外れた熱意を持って反対する人々の多くが信仰を持っている」とする点で、日本で自死幇助(いわゆる安楽死)合法化に反対する人の多くが宗教心が強いとは私には思えない。欧米では本当にそうなのだろうか。
 自死幇助に関する議論は本書の最後近くにあり、上述のように私は全く納得できなかったことが、本書全体の印象を悪くしたのかも知れない。

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