くらしのアナキズム2024年03月23日

松村圭一郎 <ミシマ社・2021.9.28>

 これも人類学者が書いた本。最初に読んだのは2年ほど前だが、最近、地域活動にさらに深く関わることになり、自分の活動を考えるのに関連することが書いてあったと思い、再読してメモを残すことにした。従って本書全体のメモではなく、今の自分が記録したいことだけ。著者は大学院時代にデヴィッド・グレーバーの本を読んで啓発され、アナキズムに関心を持つようになったらしい。本書では、私も以前に読んだスコットの「反穀物の人類史」、きだみのるの「にっぽん部落」、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」に加えて、モース、クラストル、ブローデル、鶴見俊輔、宮本常一などの記述を紹介しつつ、自身がエチオピアの村で観察した様子も考え合わせて、身近なところから考えるアナキズムについて書いている。
 人類学者が調査・研究してきた国家なき社会にも政治的なリーダーはいた。レヴィ=ストロースはブラジル・アマゾンの先住民のバンドの首長には明確に定められた権限や公に認められた権威はなく、人々の同意だけによって支えられている、とする。そのような首長は強権を奮って周囲を従わせることはできず、ひたすら多数の同意を維持する努力をするしかない。リーダーは自分の利益のために動くものではなく、共同体のために働き、それをする限りにおいて、ある種の権威や特権を一時的に集団から託されているに過ぎない。「人びとは、リーダーが集団の目標に貢献しているのか、つねに関心を寄せ、そこから道をはずれると、さっと同意を翻す。国家が人びとを監視する監視社会とは逆に、リーダーがつねに人びとから監視されているのだ」。
 首長は社会のなかで生じるさまざまな問題を解決するための役割を担う。威信と言葉以外につかえる強制力をともなう手段は持たない。首長は決断をして意思決定をするのではなく、巧みに言葉を使って人々を説得し、集団の同意を形成する。この同意を得るための手法は、徹底した会話につきる。民俗学者・宮本常一の記述でも日本の部落における「寄りあい」について、肯定的な意見も否定的な意見も出るなかで、決して無理をせず、気が熟すのを待って、皆の気持ちが落ち着くまで話し合った後に、長老が落としどころを提案する。グレーバーが言うように、日本でも多数決で答えを出すことは、敵対関係を作ることになるため、徹底して避ける。小さい集団を作る人類はこのようにして生き残ってきたのであろう。
 ダム建設や原発の誘致、基地建設などで日本各地が賛成派と反対派との分断に地域社会が文字通り破壊されることが度々起きている。これに関して、猪瀬浩平は「むらと原発」の中で高知県窪川町(現四万十町)で原発誘致をめぐって起きた対立について記している。賛成と反対の勢力は拮抗し、町長の選挙やリコールが繰り返され、全国的にも画期的な原発設置についての住民投票条例も可決されたが、結局、投票は実施されなかった。一方、原発とは全く別の案件として農業機械化のための土地整備事業が行われ、ここでは長い時間をかけて合意形成が図られた。結局はチェルノブイリ原発事故が起き、また他の原発設置が進んだことにより、窪川町の原発は見送られたが、町を二分する対立とは別の案件で両陣営の人の間の会話は続けられており、「骨肉を争った町民同士の『けんか』をここらでやめんと、窪川の町がだめになる」との判断が生まれ、事態は収拾された。
 以下は他に印象に残ったことがら。
 スコットは「文字が国家をつくる」と主張する。メソポタミアで最初期の国家が誕生したのは紀元前3300年頃だと考えられ、この時期は歴史上はじめて文字が登場した時と一致する。国家を維持するには非生産者(官吏、職人、兵士、聖職者、貴族階級)を食べさせるための余剰食料が必要であり、それを確保するには継続的な穀物の記録・管理が必須だった。最初期のメソポタミアでは、ほぼ簿記の目的のためだけに文字が使われており、文学や神話などが文字で記されたのは、それから500年以上たってからのことだった、という。一方、国家が誕生したあとも、あえて国家や文明から逃れた膨大な数の人々が生きてきたが、そのような人々に関する記録は全く残されていない。
 グレーバーの印象的な言葉も引用しているのでここに残しておく。イラクでサダム・フセイン政権が倒れたあとに暴動や略奪が起きたのは「人びとを、子供として処するなら、彼らは子供のように振舞う」から。

安楽死が合法の国で起こっていること2024年03月09日

児玉真美 <ちくま新書・2023.11.10>

 たまたま本屋で見かけ、タイトルに興味を持って読んでみた。安楽死を合法化した欧米の国はどこも、当初の極く限定された対象者が次第に増える方向に法律が変わり、さらに安楽死に対する医療関係者や一般の人々の意識も大きく変わってきているという。本書の内容がほぼ現状と考えると、日本でどんな厳しい条件をつけるにしても一旦、安楽死を合法化したら同様なことが起こるだろう、と容易に想像され、私にはかなり衝撃的な内容だった。
 著者は重度障害者の母であり、元は英語教員であったが今は日本ケアラー連盟代表理事で著述家、さらに語学力を生かして、安楽死に関する世界の状況をフォローしてブログで発信している。本書は現在までの「世界の安楽死の周辺ではさらに何が起こってきたか、そこにどんな危うさが見え隠れしているのか」をまとめたもの。以前に読んで読書メモを書いた「<反延命>主義の時代」と基本的なスタンスは同じで、最近の日本の安楽死容認の流れを危惧して書かれているが、今回は著者への反発の気持ちが全く起きなかっただけでなく、自分の考え方に修正を迫られた。
 先ず基本的な事項として安楽死に類する言葉の整理から。国際的に定まった定義はなく、専門家の間でも微妙に異なるようだが、本書では「尊厳死」「安楽死」「医師幇助自殺」を区別して説明している。「尊厳死」は医学的にはまだ生き延びることができるが、治療や処置、栄養補給などを控えて死を迎えることで、これはがん末期や老衰などの患者を対象に日本でも一般に行われている。これに対して「安楽死」は、医師が薬物を投与して患者を死なせることをいう。前者を消極的安楽死、後者を積極的安楽死ともいう。「医師幇助自殺」は死に至る最後のスイッチを患者自身が入れるもので、現在では薬物点滴装置のストッパーを患者が外して自殺することを指す。「安楽死」が合法化されていると言われるスイスで認められているのは「医師幇助自殺」であり、「(積極的)安楽死」は違法だそうだ。「安楽死」と「医師幇助自殺」の違いは私には本質的な話ではないと感じられるが、法的には重要なのだろう。但し、米国では医師幇助自殺を「尊厳死(dying/death with dignity)」と呼び、さらに人によっては「(積極的)安楽死」をも「尊厳死」と表現することがあるというから、確かにややこしい。
 2023年5月下旬の時点で合法化されている国
・積極的安楽死も合法化 ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、スペイン、ポルトガル、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、コロンビア
・医師幇助自殺のみ合法化:スイス、オーストリア、米国10州とDC
 この他に、イタリア、ペルーなどで個別の訴訟に対して自殺幇助を認めた判例が相次いでいる。

 1995年に米国オレゴン州、ついで2001年オランダ、2002年ベルギーで安楽死を合法化したときは「もはや救命がかなわない患者にどうしても緩和不能な耐えがたい苦痛がある場合の最後の例外的な救済措置」として考えられ、「合法化」というよりも、際どい行為をする医師を免責し「非犯罪化」したという表現の方が正しい、という。それが終末期でなくとも「肉体的に耐えがたい苦痛」の患者へと広がり、さらに精神的な苦痛も対象となるようになった。ここまでの変遷は、漠然とではあるが自分でも認識していたと思うが、難病患者、重度障害者、認知症患者、精神/発達/知的障害者、病気の子どもなどに広がっている、と言われると確かに気になってくる。それどころか、スイスへの自殺ツーリズム(同国の医師幇助自殺は外国人も受け入れる)では、「命にかかわる病気があるわけではないけど人生はもう完結したと考える人や、将来的に家族の負担になることを案じる高齢者の医師幇助自殺が『理性的自殺』『先制的自殺』などと称され、近年とみに増加している」という。さらに著者が、後発ながら現在では最もラディカルと考えるカナダ(後述)では「苦しみを軽減する手段が経済的に容認できない」、すなわちお金がないから安楽死を選ぶとも言える例まで容認されているそうだ。
 このような範囲の拡大だけでなく、対象者を認定する際の要件も緩和される方向で進んでおり、立会人が複数必要だったのを一人にするとか、意思確認に慎重を期すために設けられた患者の考慮時間も大幅に短縮するなどが行われているという。「合法化した後でどこかが要件を緩和すれば、後から合法化する国のハードルは下がる。そうしてどこかが後に続くことで、安楽死のいわば『国際的スタンダード』はじわじわと下がっていく」。「すべり坂 (slippery slope)」とは、生命倫理学で使われる喩えで、ある方向に足を踏み出すと、そこはすべりやすい坂道になっていて、一歩足をすべらせたらどこまでも転がり落ちていくイメージだそうだが、安楽死の状況はまさに「すべり坂」と表現されている。
 著者がこの変化の大きな転換点とするのが、2016年にカナダが合法化した際に積極的安楽死と医師幇助自殺を合わせてMAID (Medical Assistance in Dying、死にゆく際の医療的介助)と称したことで、これによって安楽死が緩和ケアと同類に位置づけられた、と考えられ、医療関係者の感じるハードルが低くなった。充分な緩和ケアが行われないために激しい苦痛を感じて安楽死を選ぶ(選ばざるを得ない)患者もいるだろう。
 ベルギーの医療現場では安楽死がルーティン化、瑣末化(trivialization)し、法律で禁じられている医療サイドから患者への安楽死の提案がなされたり、義務付けられている安楽死の報告は実際の半分程度、などが医療職らの本や論文に紹介されている、という。さらに絶対的な要件であるはずの「自己決定」の原則が、認知症や発達/知的障害、さらに理解力が低い子どもへの拡大により、曖昧になりつつある。これらの国々では、安楽死が全死亡の数%になっているという。
 安楽死を社会保障費削減策の一つと考えたり、臓器移植の提供手段として利用するなども実際に行われているとのことで、社会からの圧力も大きい。ここにさらに「<反延命>主義の時代」でも取り上げられた「無益な治療」論が加わり、コロナ禍での対応を含めてかなりのページが割かれているがここでは省略。著者は重度障害者の母でもあるから、その実体験からの発言は深い。
 著者は「安楽死を個人の『権利』と認めて合法化し、なお高齢者や障害者や病者や貧困層など社会的弱者の命が不当に切り捨てられたり脅かされたりすることのない社会は、はたして実現可能なのかーー。海外の動向を追いかけながら、そのことをずっと考えてきた。今のところ私には、安楽死合法化の『先進国』にそのチャレンジに成功している例があるとは思えない。まして、権威主義的で、組織や集団からの同調圧力が大きな日本の文化風土の中では、その試みはより危険なものとなるだろう。私は日本で安楽死が合法化されることには、欧米以上にリスクが大きいと考えている。」と言う。苦しんでいる人がいるのだから議論だけでも始めよう、というのは「あまりにナイーブではないだろうか」と言われれば、同意せざるを得ないし、本書における著者の考察は非常に説得力がある。
 最終的な著者の主張はこうだ。「議論を原点の終末期の人に戻すべきで・・・・『終末期の人には安楽死を認めるべきか』ではなく、問題を『終末期の人の痛み苦しみに対して何ができるか』へと設定しなおすべきだ」「常に医療のそばに身を置く重い障害のある人と家族の立場から言えば『死ぬ権利』を云々する前に、『もうどうしても死を避けられなくなった時に、十分な緩和ケアと社会的ケアを受けながら、最後まで固有の人生を生きる主体として尊重されて、苦しまずに生きる権利』を主張したい」。最近のデータでは、今なお癌患者の4割が痛み苦しみながら死んでおり、少なくとも家族は、医師が十分に対応してくれなかったと感じている、という。「患者は痛みに耐えているのではなく、痛みを訴えても聞く耳を持ってくれない医師に耐えているのです」という緩和ケア医の言葉を引用している。

依存症と人類 われわれはアルコール・薬物と共存できるのか2024年03月02日

カール・エリック・フィッシャー (松本俊彦・監訳、小田嶋由美子・訳)
<みすず書房・2023.4.10>

 著者は依存症「先進国」米国の依存症専門医であるとともに、自身がアルコール依存症からの回復者でもある。斎藤環の書評や、以前に好印象を持った監訳者の絶賛でかなり期待して読んだが、私にとっては冗長で、かなりの飛ばし読みになった。ひきこもりは周囲にいるが、依存症患者を個人的に知らず(米国では9%、2200万人以上もの成人がアルコールその他の薬物問題を自認しているそうだが)、AA(Alcoholics Anonymous、アルコール依存症者の世界的な自助グループ)や日本のダルク(Drug Addiction Rehabilitation Center)に関する知識は多少あったものの、あまり身近に感じていないことが原因かも知れない。
 タイトルの通り、人類の種々の依存症(addiction)の歴史に関して、記録が残されている数千年前、古代インドのギャンブル依存症に始まり、古代ギリシャの哲学者や釈迦、アウグスティヌスなどの宗教家の思想から、依存症に対する世の中の認識や対応の長い歴史について延々と記載があり、加えて著者自身のアルコール依存症の過去や、専門医としての診療の記述が入り乱れて書かれている。前半は何とか読み続けたが、依存症の歴史に関心が薄いこともあり、途中から著者のアルコール依存症に関する記述のみを拾い読みし、終章の、依存症の理解に大きな変化が起きたという1970年代から現在までの考え方(まだ変化の途中と感じたが)と、結論「回復」を興味深く読んだ。
 一番の驚きだったのは、依存症のかなりの人が何の治療も受けずに回復する、ということ。アルコール、薬物、ギャンブルその他の依存症は一旦、深みにはまると自力で回復するのは容易でなく、また回復してもいつ再発するかわからない、と何となく考えていたが(小田嶋隆を読んだ影響もあったか)それは誤りらしい。ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵の20%弱がヘロイン依存症であったが、帰国して1年後も引き続き依存していたのは1%だった。帰還後3年間での再発率は12%、回復した兵士の半数は帰国後にときどきヘロインを使用していたが依存症の状態に戻っていなかったという。これらの結果はアメリカ国内でも衝撃的に受け取られ、当初は必ずしも信じられていなかったらしいが、この報告以降、膨大な数の大規模調査が行われ、薬物などの使用の問題を抱える人々の圧倒的多数が、「自然回復」と呼ばれる現象により自力で自発的に回復したことが明らかになった。アルコールの問題を抱える人の約70%は介入なしに回復に向かう。違法薬物の問題をもつ人の多くは、30歳までに薬物の使用をやめている。もっとも有害な問題に限定しても自然回復の割合は大きい。このような多くの知見の蓄積にも関わらず、私のような理解が未だに広まったままなのは、自力回復できず、苦しんでいる当人や家族の話が目立つからかも知れない。但し、割合は少なくても困難を抱える依存症患者がいることは事実であるから、決して軽視して良いということにはならないが。現在はAAなど種々の団体や医療施設による多様な回復プロブラムがあるらしいが、プロブラムの詳細は書かれていない。
 依存症と他の精神疾患との合併はかなりの頻度で起きるようで、物質使用障害(依存症と考えて良いのだろう)を抱える人々のおよそ半数は、うつ病や双極性障害などの別個の精神疾患を発症しており、物質使用問題のために治療を希望する人々での併存率はそれより遥かに高い、という。一方、依存症の遺伝率(遺伝子に起因する変化の度合い)は25%から70%と言われているらしい。これらの結果から考えると、がんや生活習慣病と同じく、依存症もいわゆる「体質」と呼ばれる遺伝的な素地があり、そのような人がアルコールや薬物、ギャンブルなどに接すると依存症になりやすいということだろうか。
 監訳者の解説にあった引用によれば、人類においてもっとも広範に使用され、最大の害をもたらしている薬物はアルコール、タバコ、カフェイン(ビッグ・スリーと呼ばれる)であり、これらを規制することはまず成功しない(禁酒法時代のアメリカの話を思い出す。それどころか日本は国策として、敢えてギャンブル依存症を増やす方向に進んでいるように思える。)一方、薬物政策上取り沙汰されることが多いものの、現実には一部の人々だけが使用し、その害も世界全体から見ると、ビッグ・スリーとは比較にならないほど限定的な薬物としてアヘン、大麻、コカイン(リトル・スリー)が規制の対象となっている、という。なるほど、と納得した。

直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足2024年02月24日

ジェレミー・デシルヴァ (赤根洋子・訳)<文藝春秋・2022.8.10>

 著者は恐らく40歳代の古人類学者。足への専門性が非常に高く、世界各地の研究者と交流があって化石に関する種々の共同研究を行なっているらしい。最初の著書である本書では化石の詳細な解析を元に、進化の過程で起きた足骨格の変化から歩行の仕方を読み解き、原著の副題 ”How Upright Walking Made Us Human” に示されている通り、ヒトをヒトたらしめている種々の性質との関連を考察している。人類の進化の過程で二足歩行が始まったのは樹木から地上に降りて暮らすようになったからではなく、まだ樹上生活をしていたときから既に木の上を直立して歩いていた、という最近の説は以前に読んだ本で知っていたので、目新しいことはあまりないかも、と思って読み始めたが、さすが「足首専門家」らしく非常に詳細な骨格の解析が示されており、知らないことが多々あって、充分に楽しめた。また話の構成も巧みで、アウストラロピテクスの「ルーシー」、ホモ・エレクトスの「ナリオコトメ・ボーイ(トゥルカナ・ボーイ)」など重要な化石は現地に赴いて実物を観察するなど、他の研究者との関わり方にも好感が持てた。
 著者は「人類という種を定義づける諸々の変化(脳の巨大化、子育て法の変化など)が二足歩行によって初めて可能になり」「それらの変化のおかげで誕生の地アフリカから地球全体へと広がった」と考えている。本書では、第一部で化石が示す直立二足歩行の起源について考察し、第二部でヒトの進化における二足歩行の重要性、第三部で「効率的な二足歩行のために必要になった解剖学的変化が現代人の生活に与えた影響」、結論の章で四足歩行と比較して二足歩行には不利な点が数多あるにもかかわらず、人類がそれを乗り越えて生き延び、繁栄したことの理路を記している。
 ヒトの歩行に関する進化の道筋は、類人猿のナックルウォーク(拳を使った四足歩行)から次第に立ち上がって、前屈みの二足歩行になり、最終的に直立するという図(有名な絵らしい)が印象にあるが、今の有力な説では樹上生活のときに既に直立二足歩行になり、さらにそれはチンパンジーなどの類人猿とヒトが枝分かれした時代(600万年頃と言われる)より遥か以前の1000万年前にまで遡る可能性があるという。もしかしたらヒトが4本足から2本足になったのではなく、チンパンジーが2本足からナックルウォークを始めたかも知れないのだ。但し、樹上での二足歩行の際は足で樹木を掴むために親指が(ヒトの手のように)横に突き出していて、現在のヒトの足親指の向きは地上での歩行が始まってから進化したと考えられている。
 哺乳類の中で唯一、人類の系統だけが二足歩行をしているが、四足歩行の動物に比べて走る速度がかなり遅く、ヒトの祖先が地上生活を始めた時代に栄えていた肉食動物から逃れるためには非常に不利と考えられる(恐竜やその生き残りであるダチョウなどの飛ばない鳥類の二足歩行はヒトと比べて遥かに速い)。それにも関わらず、直立二足歩行の人類が現在まで生き延び、発展したのは、不利を補って余りあるメリットがあったからで、本書にも記述されているが、ここでは省略。また良く知られるように、脳の大きさと難産も歩行と骨盤の変化が重要であるなど、第三部も興味深いがそれも省く。
 二足歩行であることは足や足跡の化石だけでなく、頭蓋骨からも示唆される。四足歩行をする類人猿では脊椎につながる穴が頭蓋骨の後ろ側にあるのに対し、直立二足歩行をするヒトでは頭蓋骨の下側にあるからだ。さらに骨盤の形からも類推されるなど、必ずしも足の化石が見つからない種であっても、二足歩行の進化の歴史に位置づけることができるらしい。
 他に私に新鮮だったのは、1000万年前の人類の祖先たちはアフリカではなく、当時温暖であったヨーロッパに生息していた可能性だ。上述した、ヒトと類人猿の共通祖先と思われる複数の種の化石はヨーロッパで発見されており、この類人猿たちが700万年前から400万年前の間に、後退する森を追ってヨーロッパを出て、中央アフリカや東アフリカに移動した、と考えられているらしい。またホモ・サピエンスと過去に共存していたネアンデルタールやデニソワ人はユーラシア大陸で進化し、アフリカから来たホモ・サピエンスと交配して、現在のヒトとなった。人類の進化は全てアフリカで起こったわけではないことを改めて認識した。

スギと広葉樹の混交林 蘇る生態系サービス2023年04月29日

清和研二 <農文協・2022.9.20>

 日本の林業やスギ人工林について、これまで新聞等で見る以外ほとんど知識がなく、自分が花粉症ではないので関心も低かったが、中島岳志の新聞書評に興味を惹かれたことと、本書を出版した農文協(農山漁村文化協会)がこれまで畑関連の調べ物(モグラ対策など)で見た雑誌のほか、地域コミュニティ活動関連の本でも良い印象を持っていたこともあり、さらに近隣の図書館にあったので読んでみた。戦後の日本で大量に作られたスギ人工林の問題点やその改善策について学べただけでなく、これまで読んだ樹木や菌類の本の内容とも結びついて充分に面白かった。著者は東北大学農学部の名誉教授で、日本の森林を良くする(回復させる)ために自身の研究成果を広く知らせたいとの思いで本書を書いたとのことである。
 従来の日本では、スギやヒノキは主に吉野、尾鷲などの「いわゆる有名林業地帯」に植えられ、人工植栽した林をきっちりと密度管理し、高品質な材を売っていた。第二次大戦後、「このような先進地の施業を真似れば、日本全国どこでも林業経営が成り立つだろう」との安易で無定見な考えが国策として行われ、結果としてなんと日本の森林の41%を針葉樹(主にスギとヒノキ)人工林に変えてしまった、という。しかしこれだけの木材に対する需要が続くはずもなく、また安い外材の輸入に押されてスギ材の価格は1980年頃をピークにして値崩れを続け、長期低落に陥った。こうなると悪循環で、森林の管理に手をかける動機も薄れ、さらに林業従事者の高齢化が伴って多くの人工林が放置されたままになっているのが現状らしい。もともと日本にあった天然林は、世界自然遺産になった秋田・白神山地のブナ林に見られるような広葉樹林であり、また天然のスギ林でも多くの広葉樹と混交して多様性が高く、さらに人の手が加わった林でも、かつては薪炭の材料となる広葉樹が多かったようだ。すなわち、この70年ほどの間に、多様性を無視して一見、ヒトに都合がいいように単純化した「自然」を日本中に作ってきた。ジャレド・ダイアモンドが「文明崩壊」に記したような、江戸時代の持続可能な森林利用システムとは異なる方向に一気に進んだわけだ。これほどまで大規模な自然の改造が国策として、私が生きていた時代の日本で行われてきたことは認識していなかった。
 本書の副題にある「生態系サービス」は私には馴染みがない言葉で、本書に何の解説も無かったが、ウィキペディアによれば「生物・生態系に由来し、人類の利益になる機能のこと。「エコロジカルサービス」や「生態系の公益的機能」とも呼ぶ」となっていて、雨水の保持による洪水防止や水質浄化、土壌の生産力の向上や持続性などを指すようだ。但し、著者は人類の利益だけでなく、動植物全体を含めた生態系の復活を意図している。本書はスギ人工林を広葉樹との混交林に変えることによって生態系サービスが回復するという研究成果をまとめたものであり、生態系サービスを変えるには現在、林野庁その他で進められようとしている程度の混交林では不十分であり、もっと強いスギの間伐が必要、というのが本書の主張である。
 著者らは、拡大造林時代に植えられた東北大の広大なスギ人工林を実験に用いた。2003年の秋、ほぼ均一な環境の林を9区画(1区画が 0.5 - 0.6 ha)に分け、間伐強度を3段階(無間伐、弱度間伐、強度間伐)に変えて3回反復した。ここでの弱度間伐(全材積の3分の1の抜き取り)が現在、日本中で一般的に行われている間伐法に近く、本実験の目玉は強度間伐(全材積の3分の2の抜き取り)である。2008年秋、2020年秋にも同じ地域に同じ間伐を繰り返した。林学の実験は息が長い。この実験地の周囲には広葉樹林が広がっていて、間伐された空き地には周囲から種々の樹木のタネが飛んできて生育し、スギと広葉樹との混交林が自然にできあがったが、弱度と強度の間伐の違いは顕著であり、当然ではあるが広葉樹の種類も本数も強度の方が遥かに多く、すなわち多様性が高くなった。
 本書の主張はここからで、広葉樹が多く種多様性が高いことにより、強度間伐の区域では硝酸態窒素の減少でみた水質の浄化と、その窒素を利用した生産力の向上および持続性(今後の広葉樹の成長も含めて)、土壌の水浸透能の増加に伴う雨水保持能力の向上、すなわち洪水や渇水の防止、さらには広葉樹の実や花を求めてくる動物や昆虫類の増加、などが顕著になった。一方、現在の日本で多く進められている弱度間伐ではその程度が遥かに弱いため、もっと強く間伐をすべきだ、と著者はいう。実験開始からまだ20年足らずであり、樹木の寿命を考えればまだほんの初期の変化を見ているだけだろうが、変化の傾向としては充分に説得力のあるデータと思った(ミミズ等の生物の変化も知りたい、と生物系の私は思ったが)。
 著者の目標は、もともとその地域にあったスギ天然林の復活である。また単に生態系サービスの増加だけを考えるのではなく、それを可能にする林業の成立を目指している。林学とはそういう学問のようだ。地域の自然環境によってその場所に適した樹木の種類は異なってくるが、スギと種々の広葉樹の巨木が混じり合い、いったんその地域にあった天然林に近い姿に近づいてきたら、後はあまり手入れをしなくても維持されるようになるだろう、という。これこそが天然林を求める意義であろうか。また林業に伴う伐採についても提案していて、皆伐と再造林の繰り返しはコスト的にも、生態系サービスの面でも非常に問題が多いため、様々な成長の程度の樹木を部分的にまんべんなく取るべき、とする。この点については、実際に行う際の手間や効率などについて林業従事者から意見がありそうだが、私にはわからない。
 間伐してできた空き地に生育する広葉樹の種類は、それまでその地に生えていた樹木や草の種類の影響が強く出るという。ここには、以前に「菌類は世界を救う」で読んだ樹木と菌類の共生が関与し、樹木によって「アーバスキュラー菌根菌」と「外生菌根菌」のどちらかに感染し、その助けがないと大きくなれない。スギはアーバスキュラー菌根菌と共生するため、スギ林の間伐でできた空き地には同じ菌類を好むカエデやミズキは成育しやすいが、外生菌根菌を好むコナラやクリは成育が止まってしまうそうだ。また牧草もアーバスキュラー菌根菌と共生するため、牧草地に外生菌根菌はいないらしい。従って、著者らの実験林のように広葉樹のタネが飛んでくる場合でも、あるいは種類を選んで植栽する場合でも、しばらくは(数十年?)その影響が出るようだ。但し、老熟した天然林では両方の菌根菌が見られるため、スギ人工林を混交林に変えたあと、長い年月をかけて次第に両者が共存する状態になっていくのだろう。
 世界でベストセラーになった「樹木たちの知られざる生活」を以前、大変面白く読んだが、中央ヨーロッパの、樹木にとって理想的な環境ではブナが一人勝ちになり、どこでもブナ林になってしまうように書かれていた。但しそれは気候(温度、湿度など)によって異なるとのことだったので、日本のように多様性の高い気候の国では、天然林に生える樹木にも場所による多様性が出るのだろう。
 全く知らなかったが日本では2019年、「森林環境税及び森林環境譲与税に関する法律」が成立し、これにより国民1人当たり毎年1000円の森林環境税が2024年から課税される。この法律の目的は「地球温暖化防止や国土の保全や水源の涵養等」なので、それを実現するための方法は「間伐」であると著者は理解しているが、具体的な間伐の方法までは法律に記載されていない。著者が危惧するのは、現在の日本の流れが著者のいう「弱度間伐」であるため、そのまま進めれば、より適した混交林の育成には繋がらない、と考えられることだ。どうもこれが著者の本書執筆の動機だったように思われるが、著者らのデータに基づいて日本の各地で同様の研究が行われ、望ましい間伐と混交林の育成が行われることを強く期待しているようだ。
 花が咲く、実がなる、葉が落ちるなどの現象が、虫や鳥、けものにとって重要なことは理解できるし、ヒトにとっても多くの場合は好ましく感じられるだろう。日本の行政の方向が、単一針葉樹林から混交林に代わろうしているらしいが、それが生態系にとってより良いものになるか、これまで気にしたことがなかった。今後、新聞に出てきたら関心を持って読むことになるだろう。

新・資本主義論 「見捨てない社会」を取り戻すために2023年04月15日

ポール・コリアー (伊藤 真・訳)<白水社・2020.9.10>

 原著は2018年、日本語訳は2020年に発行された本だがこれも図書館の新着本の棚で見つけた。帯には「開発経済学の泰斗が満を持して放つ処方箋」とある。この数年、世の中を良くする方策の本として、主にアナーキズム関連を読んできたので、別の立場からの議論も知りたいと思って読んでみた。先の柄谷の「力と交換様式」と同じく私にとって異分野の用語が多用され、プラグマティズム、ポピュリズムまではよかったが、コミュニタリアニズム(共同体主義)、ロールズ主義になるとネットで調べても著者が伝えたいであろうイメージが掴めず、読みにくかった。理系の人が一般向けに書くときは用語の初出時に簡単な説明をつけると思うが、こういう分野では難しいのだろうか。
 著者はイギリス・シェフィールドで低学歴の両親のもとに生まれながら、奨学金を得てオックスフォード大学で学び、オックスフォード、ハーヴァード、パリの大学の教授職につき、さらに大英帝国の勲章、ナイト爵位、英国学士院の学士院長賞を得たという政治経済学者。一方、著者の従姉妹は14歳まで自分とほぼ同じ境遇だったが、父親が急死したために10代で子供を産み、それに伴う問題や恥辱も味わった。「私は成功した一流家族と崩壊して貧困に落ち込んでしまう家族という、スキルと意欲が生み出す格差も味わってきた」と著者はいう。本書ではロンドンのような大都会とシェフィールドに代表される衰退した地方都市、高学歴層と低学歴層、スキルのある高所得者とスキルを持たない低所得者、という対比が何度も強調されるが、自分は両者を良く知ると言いたいのだろう。本書の著者紹介によれば、「アフリカをフィールドワークの中心としながら、世界の最貧国の最底辺で暮らす人びとに寄り添い、先進諸国の政治・経済政策やグローバリズムの弊害に厳しい批判の目を向けてきた」というから、基本的には弱者の側に立つ人と思われる。
 このように経験豊富で、その世界では恐らく著名な学者が書いた「処方箋」ということでそれなりの期待を持って読んだのだが、共感や納得する部分はあったものの、「新・資本主義」という点では少しがっかり、というのが率直な感想である。著者の責任ではないが、誤字脱字が多かったことも悪印象に繋がったのかも知れない。それにしても自らを「一流家族」と呼ぶことには驚いた。たとえイギリスのような階層社会で客観的に見れば自分はそうであると判断したとしても、謙遜を旨とする日本の感覚では考えられない。
 著者は、現在の社会では経済格差が急激に拡大しているために、「深刻な亀裂の数々が私たちの社会を大きく切り裂こうとしている。それは人びとに新たな不安と新たな怒りを抱かせ、同時に新たな政治的な激情も生み出している。」とする。その亀裂の一つとして「場所」の要素が大きく関わり、国レベルだけでなく、大都市と地方都市の違いも大きい。また「新たなスキルを身につけた高学歴者たち」という支配者層が生まれ、それに伴って大都市圏でも全国的にも低学歴の「白人労働者層」という「蔑称」で呼ばれる人びとが危機に直面している、という。著者は欧米先進国を考えているが、日本で言えば前者は「ヒルズ族」だろうか。このような現状を打開する方策を提案するために本書は書かれた。
 著者の基本的なスタンスは「資本主義は多くの成果をあげてきたし、繁栄には欠かせない。だが資本主義経済を過度に楽観視すべきではない」。マルクス主義がダメなことは、ソ連などの共産主義国が権威主義的であり、最終的に滅びたことで既に実証済み、とする。著者が良かったと考える資本主義は、第二次世界大戦後から1970年頃までの先進諸国で、「その資本主義はコミュニタリアニズムによる社会民主主義としっかりと結びついていた」。しかしその後「コミュニタリアニズムは社会的父権主義に取ってかわられた」ために反発されるようになり、結果としてイデオローグか、またはポピュリストが支持されるようになった。「左派のインテリたちが実際的なコミュニタリアニズムに根ざした社会民主主義を放棄し、功利主義やロールズ主義のイデオロギー支持へと移っていく中、中道右派の諸政党は見識に乏しい懐古主義(ノルタルジア)に凝り固まるか、これに劣らず見当外れなインテリ集団の虜になっていった。イタリアのベルルスコーニ、フランスのジャック・シラク、ドイツのメルケルらに象徴されるヨーロッパ大陸諸国のキリスト教徒民主主義者たちは、おおかたノスタルジアの道を選んだ。」バーニー・サンダース、ジェレミー・コービンがイデオローグかどうか、私には判断できないが、彼らのことも嫌いらしい。レッテル貼りが好きな人のようだ。
 そこで著者は「社会的母権主義(ソーシャル・マターナリズム)」と呼ぶ諸政策を提案する。「国家は社会と経済の両方の領域で積極的に役割を果たすが、過度に自らの権力を増大させることはしない。租税政策は強者たちが分不相応な利益を持ち去ることがないように抑制するが、喜び勇んで富裕層から所得を奪い取って貧困層に配るようなことはしない。」というが、残念ながらそれらの違いは私には良くわからなかった。著者が良しとする政治家は、シンガポールのリー・クアンユー、カナダのトルドー、ルワンダのカガメであり、全てプラグマティストとして賞賛する。フランスのマクロンも評価している。
 著者がシェフィールドを愛するように、郷土愛としての「愛国心が人びとを結束させる推進力となり、不平不満に基づく個々にばらばらなアイデンティティは重視されなくなる。」「本書のプラグマティズムは道徳的価値観にしっかりと、そして一貫して根ざしている。・・「左寄り:というアイデンティティは道徳的優越感を感じるための怠惰な手法となっている。「右寄り」というアイデンティティは自分は「現実的」だと感じるための怠惰な手法となっている。みなさんはこれから本書を通じて倫理的な資本主義の未来を探究することになるーーど真ん中の中道へ、ようこそ」。これらの表現の仕方は私にはどうも気に入らない。
 著者が言う「新・資本主義」とは「道徳的な資本主義」のことで、それには家族、企業、国家という3つの組織への帰属意識が重要であり、それぞれ「倫理的な家族」など章立てして、著者が考える、あるべき3つの組織像が書かれている。これらの組織のリーダーは、成員に「義務感」を生み出すことよって彼らの順守性(コンプライアンス)を劇的に増大させることができる。すなわち成員が嫌々するのではなく、「すべき」と判断して行動するように仕向けるということだ。ピラミッド型の組織でリーダーが命令によって成員を従わせるのでは自発的な行動は期待できない。企業については、良い例としてトヨタやジョンソン・エンド・ジョンソンなど、また悪い例としてゼネラルモーターズなどで起きた具体的な事例を挙げ、倫理的な企業は発展するし、そうでない企業は没落する(ことがある?)、と考えているようだ。著者の考え方は、トランジションタウンで私が重要と感じた「当事者意識」と通じるし、望ましい組織像とは思うが、家族はともかく、現代の企業で経営者に「道徳的」であろうとするインセンティブを与えることができるのか、国のリーダーにそのような人を国民が選ぶようになるのか、私には甚だ疑問だ。著者は可能と思っているらしいが、このような理想論もプラグマティックなのだろうか。
 「現在、英米系の経済圏では、企業の重役らは自社の所有者たちの利益のために会社を経営することを法的に求められている」そうで、「企業の所有者とはもっぱら株主のことを指す」。しかし「このような仕組みは資本主義に初めから備わっているものではない。」という。「おそらく今や分散化されていない最大のリスクは、一つには勤続年数の長い従業員らが負うリスクだろう。自分自身という人的資本をたった一つの会社に投資してきたのだから。もう一つは長期的かつ構造的に供給を特定の会社に依存するかたちになってしまった顧客が負うリスクだ。」という主張は非常に納得できる。著者は従って、両者のいずれかの代表を取締役会に入れた「相互会社」という企業をベターと考えていて、それは実際に存在するし、広めることも可能と考えている。ただ、そこへの道筋として挙げられる課税や公益の監視などで達成されるのか、私には良くわからない。おそらく著者も提案はするものの、それほど実現性が高いとは考えていないと思った。
 私に最も違和感があったのは、組織の成員同士の「相互扶助」の説明だった。その必要性は私にも理解できるが、著者の表現によれば「ぼくを助けてくれるなら、ぼくも君を助けてあげるよ」となっていて、ということは著者が考える成員間のデフォルトは「信頼できない仲間」であるように思えた。私なら「君を助けてあげるから、ぼくのことも助けてね」とするところだが、理想的過ぎるのだろうか。
 一般論としてプラグマティックな考え方はそれなりに理解できるし、どちらかと言えば私もそれに近い部分はあるかも知れないとも思う。いわゆる「原理主義」が多くの軋轢や亀裂を生むであろうことも深く納得する。しかし全てのイデオロギーを排する姿勢で世の中うまくいくのだろうか、とも思ってしまう。また道徳や倫理の重要性についても同意するが、現在のグローバルな競争の中にいる企業や国家にそれを求めても無理だろう、との思いは拭えない。
 これまで考えたことが無かったのは、「場所」に関する議論のうち、大都市の優位性に関することで、人や企業が集積すること自体によって利益が生まれ、特定の層のみがその利益を得ているという話だ。それは本人あるいは当該企業の能力や努力によらない利益であるから、適切に課税すべき、と著者は主張する。具体的に人で言えば、そのような利益を得ているのが地主なのか、あるいは「新たなスキルを身につけた高学歴者たち」なのか、といかにもイギリスらしい図式的な議論があり、理屈としてはもっともと思ったが、そのような課税の仕組みが実施可能なのか私にはわからない。日本の地方交付税のような税金の徴収と分配をもっと精密に、ということなのだろうか。
 著者が懐かしむ社会民主主義は、当時活発だった協同組合が結束して生まれた中道左派政党によるらしく、また著者の故郷であるシェフィールドを含む地域で盛んになった協同組合運動が、ほぼヨーロッパ全域に急激に普及していったことを、誇らしげに語っている。外観だけ見ると、著者とグレーバーや柄谷、さらにはトランジションタウンの考え方とは水と油だが、協同組合などは共通するように感じ、歩み寄ることはできないのだろうか、と思ってしまった。但し、現在の著者はローカルな活動の再現を考えているのではなく、企業のグローバル化は基本的に善であり、国際的なあるいは国内での対応を適切に行えば有益としているので、やはり水と油か。

脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論2023年04月08日

ジェフ・ホーキンス (太田直子・訳)<早川書房・2022.4.25>

 これも図書館の新刊置き場で見かけ、「脳の最大の謎が解けた!」という誇張とも思える帯の言葉に半信半疑で読んでみたが、序文でリチャード・ドーキンス(「利己的な遺伝子」の著者)が絶賛する通り、もしかしたら歴史に残る本かも知れないと思った。本書はヒトの知能はどういう原理に基づいて成り立っているかについての新しい理論を提案するものであり、その説に基づいて考えられた人工知能(AI)やヒトの意識の捉え方が、これまで読んだどの本よりも説得力があって、AIによるシンギュラリティ(Singularity;技術的特異点)や、AIが人類を滅ぼすリスクについても、現在あるAIの進展の先には起きないとする理屈に納得がいった。一般紙の書評で取り上げられなかったようだが、不思議だ。但し、私が本書の理論を充分に理解したとは思えず、著者の自信たっぷりの書き方や30年前のインテル社での講演の逸話(現在のスマホの隆盛を予言するような携帯型コンピュータの話をしたのに全く受けなかった)、さらに今のAIやヒトの意識に関する記述に私が強く印象付けられただけで、脳の理論自体の評価ではないような気がする。
 著者は脳の研究を志して大学院に入ったが、そこで行われている研究に飽き足らず2年で辞め、シリコンバレーで携帯型コンピュータの会社を起業して成功した後に、その資金を使って独立系の研究会社を立ち上げて、脳の仕組みの解明を目指している、極めて異色の研究者だ。ドーキンスによれば、大学と関係なく政府の補助金にも頼らず、さらにその革命的な理論を表すには論文では足りずに1冊の本が必要という点が、ダーウィンに通じるという。つまり本書は「種の起源」に匹敵するというのが彼の見立てだ。
 本書は3部からなり、第1部は著者が「1000の脳理論(Thousand Brains Theory)」と呼ぶ新しい概念、第2部はAIの現状と著者の理論に基づいて考えるAIの方向性、第3部は脳と知能の働きから考えるヒトの「信念」の問題点や誤った信念がもたらす人類存亡のリスク、そこからの脱出法などが語られる。
 本書で先ず強調されるのは、脳は古い部位の上に新しい部位を加えて進化してきた、ということだ。小さな蠕虫の単純な運動を可能にしているニューロンが我々の脊髄の祖先となり、次に体の一方の端に現れたニューロンの塊が我々の消化と呼吸を制御する脳幹の祖先となった。すなわち脳は時間をかけて、古い部位に新しい部位を加えて進化させることによって、だんだんに複雑なふるまいができるようになった。我々がどれだけ賢くて高機能であっても、呼吸、飲食、セックス、反射反応は生存に不可欠であり、その調節機構は太古から進化してきた古い脳にある。
 哺乳類はここに新皮質を加え、さらにヒトは新皮質を脳の容積の約7割まで拡大して、これがヒトの知能の器官となった。新皮質の進化は、それまでの脳が数億年の期間をかけたのに対して遥かに短く、そのため新皮質は新規の構造が次々と加えられたのではなく、基本的には同じ構造が量的に増えて大きくなった。すなわちヒトの脳の7割は同じ構造の繰り返しということだ。これらは以前から知られていたことのようだが、ヒトの知能は新皮質によって生まれ、真の機械知能は新皮質で働くメカニズムを模してこそ可能と考える著者は、以上の点に重きを置く。従って著者は、新皮質の同じような構造から生まれるヒトの知能は、視覚、聴覚、触覚、言語を司る領域も全て似たような仕組みで動いていると考える。また本書では、感情は古い脳が、知性は新しい脳が担うことを指摘し、著者が考えるAIは新皮質を模した構造と機能を有するものであるから、敢えて古い脳に対応する機能を加えない限り、AIがヒトの感情に類した反応をすることはない、とする。これは言われてみればその通りと納得するしかない。
 新皮質は、広げると大きめの食事用ナプキンくらいで厚さは約 2.5 mm、その基本単位は、面積が約 1 mm2 のコラム(Column、円柱の意味。科学用語としては「カラム」の方が馴染みがあると思うが)であり、細いスパゲッティの小さなかけらのようなコラムが15万個ほどぎっしり横に並んでいる。但し、コラム自体は顕微鏡でも見えない。さらに1つのコラムは、こちらは顕微鏡で見える数百のミニコラムからなり、1つのミニコラムには100個程度のニューロン(脳の中心的な細胞)が含まれる。1978年に発行された「意識する脳 The Mindful Brain」においてマウントキャッスルは、ヒトの知能は全てこの皮質コラムおよびミニコラムにおいて同じ基本アルゴリズムのなせる業と提案した。著者は40年前にそれを読んで深く納得し、以降その具体的な中身について研究を続けて、現在までの成果をまとめたのが本書である。
 ヒトは周囲の様々なものを無意識のうちに認識し、何かそれまでと違うことがあると気付く。家具の配置が変わっていれば意識がそこにいくし、コーヒーカップの手触りがいつもと違えば違和感を覚える。これらは常にヒトが自分を取り巻く世界を予測しているからで、それから外れるとわかる、と著者は考え、このことから、脳は予測マシンであり、あらゆる皮質コラムは予測をしているとした。脳は世界の予測モデルをつくり、予測が間違っていたら、その誤りに注意を向けて、モデルを更新する。予測が正しいときは、予測が行われたことに気付かない。
 脳への入力は、2つの理由で常に変化している。一つは世界が変化しているからで、音や風に揺れる木は動き、車や時計の針も動く。もう一つはヒトが動くからで、歩く、手足を動かす、眼を動かす、頭を回すなど。眼は1秒に3回くらい、サッカードと呼ばれる急速な動きをすることで、眼から脳への情報が変わる。これらの動きを元に、脳は世界の予測モデルを作っている、と著者は考える。そこで著者らは「膨大な数のほぼそっくりの皮質コラムからなる新皮質は、どうやって動きから世界の予測モデルを学習するのか?」という問いを立て、これに答えられれば、新皮質をリバースエンジニアリングできる、と考えた。このような発想は当時の神経科学の中で非常に斬新であった、という。
 著者は、ニューロンの樹状突起活動電位は予測である、と考えた。シナプスで繋がっている樹状突起が入力を受け取るとそのニューロンは樹状突起活動電位を発生し、それが細胞体の電圧を上昇させ、細胞を予測状態にする。これは「位置について、用意・・」の合図を聞くランナーが、走り始める準備を整える様子に似ている、という。この状態にあるニューロンが次に、活動電位を発生するのに十分な入力を受ければ、ニューロンが予測状態ではなかった場合よりも少し早く、その細胞は活動電位を発生する。こうすることで、あるニューロンが接する近隣のニューロンに情報を伝えたとき、予測状態にあるニューロンのみが活動電位を発生し、その他のニューロンは抑制される。一方、予想外の入力が来ると、複数のニューロンが一度に発火する。これは新皮質についての一般的な観察結果と一致するそうで、予想外の入力のほうが、予想されていたものより、はるかに多くの活動を引き起こす、という。1つのニューロンには何千ものシナプスがあるので、各ニューロンが活性化すべきときを予測する何百ものパターンを認識できる。このように、予測は新皮質を構成するニューロンに組み込まれている、というのが著者らの重要な発見の1つとしている。
 さらに著者らは、各皮質コラム内のニューロンの大部分が果たす機能は、座標系をつくって位置を追跡すること、とした。著者らは地図の格子線を例に挙げているが、確かに世界を認識するのに座標は必要であり、またコーヒーカップなどの物体の形も3次元の座標で表すことができる。哺乳類の脳の古い部分(海馬と嗅内皮質)には、訪れたことのある場所の地図を学習するニューロンの存在が知られていて、そこにある「場所細胞」が自分がどこにいるかを教え、「格子細胞」が全体の地図を作る。両者があることにより、環境の完璧なモデルができる。これと似たようなものが新皮質にある、と著者らは考えた。但し、同じではなく、古い脳内の格子細胞と場所細胞が追いかけるのはもっぱら自分の体の位置であるが、新皮質ではこの回路のコピーが皮質コラム1個につき1つ、合わせて15万個あり、新皮質は何千もの位置を同時に追いかける。たとえば皮膚の小区画それぞれ、網膜の小区画それそれが、新皮質のなかに独自の座標系をもっている、と考える。
 ここまでは相手が物体なのでイメージしやすいが、著者はこれと同じ皮質アルゴリズムが、民主主義や人権などの概念、さらには言語や思考でも働いている、とする。すなわちこれらも全て座標系で表されるということで、本書では様々な例やたとえを用いて説明しており、何となくわかるが、何となくしかわからない、という感じだが、ともかく著者はこの説が正しい、と確信している。それは、著者が知っている様々な問題が、この考え方によって非常にうまく説明できるから、という理由による。
 第1部の最後で、本書のタイトルにもなっている「1000の脳」理論を提案する。上述のように各皮質カラムがそれぞれ完全な1つの感覚運動システムを有し、また何かについてのヒトの知識は何千もの皮質コラムに分散している。何千も予測モデルが存在するのに、ヒトが感じる知覚は統合された1つだけである(1つのコーヒーカップについて脳内には何千ものモデルがあるが、ヒトが感じるのは1つ)。このモデルの統合を著者は「コラムによる投票」で説明する。5本の指でコーヒーカップを触るとき、それぞれの指は別々の情報を得るが、ヒトはそれらを統合してコップの形状を知る。物体を細いストローを通して見るとき、全体を認識するにはそのストローを動かさなくてはならないが、眼全体で見るなら、動かさなくても認識できる。新皮質の中で、投票は全てのコラムが行うのではなく、情報を有しているコラム(その中のニューロン)だけであり、それが(15万個のうち)およそ1000個ということで「1000の脳」理論となったようだ。このあたりはトノーニの「統合情報理論」(「意識はいつ生まれるのか」)を思い起こさせるが、本書に言及はない。著者が言う「投票」がトノーニには無い考え方なのだろう。
 著者は、真に知的なAIは、現在、知的であると唯一思われている脳をモデルにしなければできない、と考えていて、脳のメカニズムはそれを作るために必須と信じている。そこで本書の第2部では上述の議論を踏まえ、AI の重要な特性として「たえず学習する」「動きによって学習する」「たくさんのモデルをもつ」「知識を保存するのに座標系を使う」の4つを揚げている。また著者は、「意識」についても述べていて、脳と同じ原理で動く機械には意識がある(もちろん哺乳類にも意識はある)と確信している、という。但し、最初に書いたように、感情を担う古い脳の機能を加えない限り、AIに恐怖も愛情もなく、支配したい、生き延びたいという欲望もない。これらのことは私には非常に説得力があり、一部のAI研究者が危惧するような、AIによるヒトの支配など考えても意味がないように思える。
 最近、ChatGPTなる対話型AIが公表され、私もいろいろ試してみたが確かに想像を超える出来であった。Googleや中国の企業も同様のAIを開発したとの報道もあったが、専門家集団が開発中止を呼び掛ける声明を出したり、使用を禁じた国がでたりするなど、現在のAIシステムでも少し前に私が思っていたレベルより遥かに向上し、ヒトへの影響が大きくなってきているように思う。果たして現行のシステムでも私の予想を超えてシンギュラリティに行き着くのか、あるいは本書の著者が言うように、脳と同じ仕組みでなければ無理なのか、興味津々である。
 本書の第3部では、ヒトの知能が原因となる人類存亡のリスク(地球環境の破壊、核兵器など)について書かれていて、そこでは古い脳と新皮質との争いの結果、ヒトが「誤った信念」を持つことがあることを指摘していて興味深いが、メモが長くなり過ぎたので割愛する。また最後の方ではヒトの火星移住やゲノム編集によるヒトの改変の話題になり、確かに人類の将来として考えるべきことかも知れないが、私の興味、関心から外れるのでこれも省略。

皮膚、人間のすべてを語る 万能の臓器と巡る10章2023年04月01日

モンティ・ライマン (塩﨑香織・訳)<みすず書房・2022.5.9>

 特に皮膚に興味があったわけではないが、それなりに面白く読み通した。著者はイギリスの皮膚科医だが、本の内容には人間や社会一般に対する洞察も含まれ、またアジアやアフリカの開発途上国での経験が随所に紹介されていて、単なる医学の一分野の話を大きく超えていた。一般知識として知らなかったことも多く、知っていたことでも新たな視点から興味深い結びつきがわかって楽しめた。「菌類が世界を救う」のマーリン・シェルドレイクと同じく、自分の専門領域を愛していて、さらにそこを突き抜けた魅力を引き出すイギリスの若い教養人、という印象を受けたが少し褒めすぎか。全体としては皮膚がいかに重要で面白いかを様々な角度から記しているが、以下に興味深かったことを記す。
 最近、ヒトに住み着いている生物として腸内細菌が話題になるが、皮膚にも多くの生物が生きている。ヒトの皮膚の表面積は 2 m2 あり、そこには真菌(菌類)、ウイルス、ダニのほか1000種類以上の細菌や古細菌までいるという。ありとあらゆる種類の微生物がいるということだ。そのほとんどは悪さをしない共生菌だが、中には黄色ブドウ球菌など病気の原因になるものもいる。その形態のおぞましさの例として紹介しているのがニキビダニで、「クモともカニとも言い切れない体にミミズの細長い尻尾がついたような生き物が、まず間違いなく読者の顔面をはい回り、眉毛の毛包に入り込んでいる」という。確かに載っている写真は、実際に自分の身体にいるのを顕微鏡で見たら、何としても排除したくなりそうな生き物だ。
 皮膚がんの発症には太陽光が大きく関与していて、皮膚の色が薄い人(白人)に特に影響が強く、日本人にとって馴染みが薄いが、近年、欧米諸国では爆発的に皮膚がんの発症率が高くなっている。アメリカではここ30年で皮膚がん患者数がその他のがん患者の合計を上回るようになり、オーストラリアでは3人のうち2人が一生のうちに皮膚がんを発症するという。その原因として私はオゾン層の破壊によって地表に届く紫外線量が増加したことが大きいと思っていたが、本書ではそれには触れず、白人が「健康的な小麦色」の肌への憧れのために、日焼け止めを利用せず、積極的に日焼けをしていることを挙げている。小麦色の肌が「健康的」というのは俗説に過ぎず、皮膚の色が少し濃くなる程度でも、日焼けのダメージは長年に渡って蓄積するし、小さな子どもに炎症を起こすような日焼けをさせることは児童虐待である、という。欧米諸国では公衆衛生の啓発活動として、日焼けの防止が推奨されているが、その効果は上がっておらず、この30年で皮膚がんの発症率を減少に転じさせた国は、その世界では有名なキャンペーンを成功させたオーストラリアだけらしい。肌の色が濃くても太陽光によって皮膚がん発症のリスクは上がるものの白人に比べて小さいため、日本ではほとんど問題にされていないが、ランニングや畑仕事で毎年、強烈に肌を焼いている私としてはもう少し気をつけるべきなのかも知れない。
 ヒトの五感の一つである触覚には、指先など皮膚の無毛部が感じる「識別的触覚」があり、その受容体(メカノレセプター)や脳に高速で信号を送る神経繊維がわかっているが、最近、これとは全く別の触覚システムが理解され始めた。誰でも知っているように、自分で自分をくすぐることはできないし、「恋人に腕を触られたときの感覚は、・・医者の触診や混雑した電車の中で知らない人の手がかすったときの感覚」とは全く異なる。これらは「情動的触覚」と呼ばれ、皮膚の有毛部にある受容体で感知され、いま皮膚を触っているのは何か、という視覚情報と合わさって脳に伝達されて情動を形成する。従って「敵」と認識されればその刺激はさらに不快に感じられ、「愛情のこもった手で撫でられることを期待していれば、快感を受け止めるために皮膚の構造は一時的に変化する」という。自分でくすぐることができないのは「期待と予感をめぐる皮膚と脳のかけひきの奥深さをよく表している」というのが面白い。
 触れることは人間の生存と発達に大きな役割を果たすらしい。13世紀に、現代では倫理的にとても許されそうにない実験が行われた。人間が最初に話す言語を発見するために、生まれたばかりの赤ちゃんを母親から引き離して育て、乳母ら世話係は赤ちゃんがいるところでは会話禁止、さらに赤ちゃんに触れることも禁止したところ、乳は与えられていたにもかかわらず、赤ちゃんは死んでしまった、という。またチャウシェスク独裁政権時代のルーマニアで、職員が絶対的に足りない孤児院で成長した人は、ほかのルーマニア人に比べて、糖尿病から統合失調症まで、身体・精神疾患がはるかに高い割合でみられた。一方、1978年、南米コロンビアの母子医療センターでは、新生児集中治療室のスタッフと保育器の不足のため、赤ちゃんの死亡率が70%に達していたことから、方針を変えて、未熟児で生まれた赤ちゃんを肌が直接触れるように母親の胸に抱かせ、温めるとともに、母乳養育を推奨したところ、死亡率は10%に急低下した。この方法はカンガルーケアと名付けられ、その後の2、30年で世界に広がり、母親あるいは保育者との肌の触れ合いに特別な力があることがわかったという。カンガルーケアは赤ちゃんのバイタルサインを安定させ、睡眠を改善し、体重増加につながる上に、両親に対しても心理的にプラスの影響を与え、不安を和らげて育児に自信をもたせる効果が認められている。
 触れることの癒しの力は恋人や家族とのスキンシップにもあり、ストレスを下げる、脳からのエンドルフィンやオキシトシンの分泌が上がって報酬系や思いやりの回路が活性化される、など様々な結果が報告されている。さらにアルツハイマー病患者に触れるケアを取り入れると、周囲の人との感情的なつながりが改善され、症状を和らげるという。身体に手をあてて不調を治す方法は大昔から知られているが、そのしくみの理解はまだ始まったばかりで、今後の研究により「人間のタッチの力でさらに驚くような発見がなされることは間違いないだろう」としている。少し言い過ぎの気がしないでもないが。日本人は世界の中でかなりスキンシップが少ないと思うが、日本人を対象とした「触れる」ことに関する上述のような研究があるか、元々が少なければタッチの効果は低いのか、あるいはかえって強く効果が出るのか、知りたいところだ。
 心と皮膚の状態とは密接な関係がある。ストレスは湿疹や乾癬、ニキビ、脱毛、かゆみといった皮膚症状を悪化させる。赤面、冷や汗、鳥肌なども精神状態が皮膚に出たものと言える。逆に、私たちの身体で唯一外界にさらされていて、よくも悪くも第一印象を左右するから、皮膚が直接心に対して影響を与えることもある。ニキビに悩み、自殺を考えたことのある人はアメリカとイギリスで5人に1人という驚きの調査もあるという。確かに、特に若いうちは外見の悩みが心の傷として生涯にわたって残る可能性もあり、「気にするな」などの言葉はむやみに掛けるべきではないのだろう。
 最後に、本書で最も驚いたこと。現在、アメリカとイギリスでは26ー40歳のおよそ3分の1が少なくとも1つタトゥー(一生残る色素を身体に入れること)を有しているという。ヨーロッパにおけるこの風習は19世紀後半に始まるとのことで、もとは非常に高額の費用が必要だったために上流社会や王族のあいだで流行したが、安価な機械が開発されて広まったそうだ。日本では遅くとも江戸時代には刺青(入れ墨)が行われていたと思うが、ヨーロッパの氷河で発見された紀元前3300年頃のミイラ、通称「アイスマン」の全身に61個の小さな入れ墨が見つかったというから、かなりの歴史がある風習のようだ。なお、今のところ、タトゥーの色素が吸収されて身体のあちこちに移動することが知られているが、それらが健康に長期的な影響を及ぼすかどうかは不明とのことである。その他、皮膚と関連する人種、セックス、宗教、哲学なども議論されていて興味深いこともあったが、ここでは省く。

人類冬眠計画 生死のはざまに踏み込む2023年03月25日

砂川玄志郎 <岩波書店・2022.4.14>

 日本の小児科の医師が、冬眠に医療の未来を感じて研究を始め、一つのブレイクスルーを成したという話。短い本なので、何が起きたのだろうと軽い気持ちから読んでみた。著者が「冬眠研究はまさに黎明期」と言うように、彼の成果が今後どう発展するかわからないが、大きなステップであることは間違いなさそうだ。唐突に専門用語が出てくることがたまにあるものの、基本的には一般の人が著者の考えをわかりやすくたどることができるように書かれている。本書の冒頭に紹介されている、著者によるTED講演(ネット上の無料サイト)により、非常になめらかな英語(日本語字幕付き)で、本書の全貌のわかりやすい説明を聞くことができる。私は本を読んでからこの動画を見たが、先ずTED講演を聞いてからの方が理解しやすいかも知れない。
 著者は国立成育医療センターという日本の小児医療の中心で臨床医として働き、治療が難しい患者を日本各地から受け入れる立場にいた。重症患者の搬送は非常に難しく、揺れが患者の生命維持に必須のチューブを外したり、騒音が患者の呼吸音や心音の異変を察知しにくくしたりすることも起こり得るため、リスクが高い。このような状況の中で著者は、熱帯地域に住むキツネザルという霊長類が冬眠し、5日以上もの間、体温が20度台に維持されるという論文に出会った。ヒトでは数時間でも体温が30度を切れば生命の危機にさらされることから、著者にとって信じがたい報告ではあったが、もしそれが事実なら、同じ霊長類であるヒトも冬眠状態にできる可能性があり、体温を下げられれば酸素やエネルギーの供給を抑えることができ、重症患者の搬送中のリスクを下げるだけでなく、広く医療に貢献できるだろう、と著者は考えた。そこで著者は自分で冬眠研究を行いたいと重い、直ちに大学院への進学の準備を始めたそうだ。
 表題に関する論文はまだ1つだけで、ある遺伝子操作したマウスの脳に、ある物質を加えると一過性に休眠状態にすることができる、というものだ。マウスは本来、冬眠しない動物ではあるが、餌を制限することで1日の中で数時間の休眠(日内休眠)を誘導することができるとする報告がいくつかあった。休眠中は体内の代謝が低下し、体温が下がる。そこで著者は先ず、マウスに影響を与えることなく酸素消費量(代謝の指標)と体温を測定する方法を確立した。著者が研究を開始した大学院を含めて10年間、マウスの睡眠研究を行ったことが役立ったようだ。ちょうど方法が確立した頃に、ある種のノックインマウス(身体の特定の部位だけに特定の遺伝子を発現させた遺伝子改変マウス)が刺激によって数日の単位で休眠状態に入るとの連絡を、櫻井武・筑波大学教授から受け、著者のやりたいことが前に進んだ。このマウスでは刺激後、1時間くらいで酸素消費量の低下が起き、続いて体温が低下する。また著者らが開発したシステムにより、通常は37℃の目標設定温度(種々の温度条件下における熱産生のグラフから外挿される)が9℃低い28℃になっていることがわかった。冬眠動物では目標設定温度が30℃近く低下すると推定されていることから(体温が氷点下になるリスもいるそうだ)、まだ冬眠まで遥か遠いが、大きな一歩であることには違いない。体温が氷点下になったリスの細胞に全くダメージはないのだろうか。極地の海に生きる動物には凍結防止のためのタンパク質が存在すると聞いたような気がするが、恒温動物である哺乳類が本物の冬眠と呼べるほどに体温を下げるには、何か新しい遺伝子が必要になることはないのだろうか。通常の変温動物は何度まで体温を下げても生きているのだろう。疑問はつきない。
 著者は今回の発見を単にラッキーだった(セレンディピティ)と言いたくないので、一般論として、ラッキーを待ち受ける準備なり、その時の注意力なりの必要性を強調している。確かにそれまでに休眠研究の実験系を作り、そのことをどこかでアピールしていたことが櫻井教授からの連絡に繋がったのだろうから、幸運だけで済ますのは失礼だろう。
 著者が目指す方向に進み始めたことから本書では、ヒトの冬眠が実現した際のヒトの身体や社会への影響やリスクについて種々考察していて、その慎重な姿勢は評価できるが、今はまだここでそれを書き記す気にはならない。私が生きている間に、ヒトの体温を下げて医療に応用することは起きるかも知れないが、長期冬眠が実現して宇宙旅行に利用することは私には想像できないから。本書の内容も最初は新聞記事で知ったのだが、また次のブレイクスルーが起きたらマスコミで報道されると期待しよう。

力と交換様式2023年03月17日

柄谷行人 <岩波書店・2022.10.5>

 「ニュー・アソシエーショニスト宣言(NAM)」を読んで著者の活動や考え方に興味を持ち、新刊案内で本書を見つけて読んでみた。いつも読む本とはかなり趣きが異なり、私にとっては非常に難解で著者の意図を理解できたとは到底思えないが、一応何とか最後まで読み通したので、メモを残すことにした。私が知りたかったこと、すなわち著者の現在のNAMの活動はどのような考えに裏打ちされているのか、は本書の最後の数ページで何となくわかった気がしたので、もしかしたらそこだけ読んでも結局、何の違いもなかったのかも知れない。
 私にとって本書が難解だった理由の一つは、前提となる知識がほとんどないことで、マルクスの本は若い頃に手にしたことはあったが読み通すことができず、また著者の本も上記1冊しか読んだことがない。史的唯物論の概略は何となくわかるが、それに対する批判やその限界などは全く理解していない。また理系の私には、本書に見られるような極めて断定的な書き方に強い違和感があり、理系の専門書であれば事実と意見は明確に区別されるはずだが、その線引きが曖昧なために読みにくい。さらに「フェティシュ(物神)」「揚棄」など、全く馴染みがない専門用語が出てくることも厄介であった。という弁解を前置きにして、本書を読んで自分が理解したと思ったことを以下に記す。
 著者は2010年に「世界史の構造」の中で、マルクスが唱えた生産様式による分類に対して交換様式の重要性を提案したが、それでは不十分と考えて書いたのが本書らしい。マルクス主義では一般に、「生産様式が経済的なベースにあり、政治的、観念的な上部構造がそれによって規定されている」と考えられているが、著者は経済的なベースは「生産様式だけではなく、むしろ交換様式にある」と考える。交換様式には4つの型があるとする。
A: 互酬(贈与と返礼)、B: 服従と保護(略取と再分配)、C: 商品交換(貨幣と商品)、
D: Aの高次元での回復
 交換様式Aは、私のここ数年の読書で馴染みができた贈与論なので、何となくわかる。集団内部ではなく「見知らぬ、不気味な他者との接触において始まる」贈与と返礼が重要で、デヴィッド・グレーバーが評価した人類学者マルセル・モースが言い出したことだ。人類の原始社会では、以前に考えられていたような互いに必要なものを交換する物々交換ではなく、一方的な贈与と、もらった側が行わなければならないと感じる返礼を交換の基本とする。いわゆる物々交換はこの後に起きる。またここには婚姻による人の交換も含まれる。交換様式Cは通常の貨幣経済を考えればいいので最も理解しやすい。やや難解なのが交換様式Bで、これは一見、交換とは思えないが、「服従すれば保護されるという関係、あるいは、保護されるのでなければ服従しないという双務的な関係」で、Aの互酬性が水平的であり、それを垂直的な上下関係にしたものがBである、とする。確かに服従しないという選択肢があるのなら、双務的と言えるかも知れない。交換様式DとAとの違いについては最後にも触れるが、私には全くわからなかった。Dは、原始社会にあったAではなく、BやCを経験した後に行われるAということか。あるいはBやCの存在をものともせずに成しうるAなのか。
 本書のタイトルにある「力」について。上記のそれぞれの交換様式には力が伴う。「その力は物理的な力ではなく、観念的、あるいは霊的な力を指す」という。モースは交換において生じる(返礼を要求する)力を「物に付着した霊」と考え、マルクスは「フェティシュ(物神)」と呼んだ。そのような宗教的な用語は以降の人々から批判を浴びたらしいが、柄谷はモースやマルクスの考えを擁護し、その力には人智の及ばぬ霊的なものがあると主張する。理系の私にはやはり霊的との解釈は奇異に感じ、ヒトが他のヒトあるいは他のヒト集団から感じる「無言の圧力」と言った方がまだ良いように思った。その力は、集団で生きるように進化した人類が、対人関係において無意識のうちに与えるもの、あるいは感じるもので、集団としても発揮され、その力が社会を動かす。カーネマンらの言うシステム2ではなく、システム1の考え方が関与する力と思われ、従ってカーネマン、トベルスキーの行動経済学のような手法で、ヒトがあるいはヒト集団が感じる「力」を調べることができればいいと思うが、残念ながら私には何のアイディアも出てこない。
 生産様式よりも交換様式から考える方が、人類の歴史を説明しやすいかどうか、今の私には良くわからないので、深追いはしない。もしかしたら今後の考え方に影響を受けるのかも知れないが、今は何とも言えない。
 本書には「銃・病原菌・鉄」のジャレド・ダイアモンドや、ダンバー数のロビン・ダンバーが引用されていて少し驚いた。確かに人類学の流れに入らなくもないから、読んでいて自然ではあったが、私から見れば彼らの本は理系に属していて、前置きに書いたような、私が違和感を持つ断定的な表現が使われることはなかった(と思う)。柄谷は科学、あるいは科学的であることに強い意識を持っているようだが、彼の領域では自然科学のように過去のデータではなく、過去の考え方を引用して自分の考えの根拠に使うようなので、断定的な表現は不可避なのか。
 交換様式Dにおける「高次元での回復」とは何か。「今日世界宗教と見なされる諸宗教・諸宗派はすべて、交換様式Dに根ざしているといってよい。さもなければ、各地に浸透する「世界宗教」たりえなかっただろうから」というが、残念ながら私には理解できない(「世界史の構造」を読んでいないので、単に当方の怠慢かも知れないが)。伝道師という全くの他者からの贈与から始まるAとは考えられないのか。その後の文章でも宗教を交えて考察していて、過去の人たちの議論を踏まえるとそうならざるを得ないのかも知れないが、ヒト集団の行動を科学的に考えるときに宗教を持ち出す必要があるのか、との疑問が拭えない。
 最後の最後に社会主義、共産主義の今後の展望が書かれていて、そこに私が知りたかったことがあった。世界各地に「協同組合」や「協同体(アソシエーション)」などによる交換様式Aが現在も存在することを指摘し、「にもかかわらず、Aに依拠する対抗運動が概してローカルにとどまり、BやCに十分に対抗できるようなものとなりえないということも、否定しえない事実である」とする。また「Aの限界を一先ずB、すなわち、国家権力によって超えること」も議論しているが、「Cは制限されても、Bは残る。また、Aもそこに取り込まれる。・・・その結果、資本が存続することになる。」として、それがBやCを無くす可能性を否定する(著者が望むような資本も国家も無い世界はできない)。そこで出てくるのがDなのだが、著者曰く「Dは、Aとは違って、人が願望し、あるいは企画することによって実現されるようなものではない。それはいわば “向こうから” 来るのだ。」「そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、”Aの高次元での回復” としてのDが必ず到来する、と。」で本書は終わっている。どのような理屈から出てくるのか、何のことやらさっぱりわからないが、これが著者の願望であり、希望的観測なのだろう。
 結局、著者は、ローカルから抜け出すことはできないと知りつつも、「ニュー・アソシエーション」の活動を続け、あるいはサポートし、その先は未知の力に委ねる。やはりこれがアナーキズムの基本的なスタンス、というのが私の理解である。