<反延命>主義の時代 安楽死・透析中止・トリアージ2022年09月27日

小松美彦、市野川容孝、堀江宗正編 <現代書館・2021.7.30>

 日本では認められていないが、世界では種々の条件をつけながらも少しずつ広がる安楽死。コロナ禍で感染爆発が起きたときのトリアージ。これらは以前から関心があるテーマだったので読み始めたら、数年前に見たNHKのTVドキュメンタリー番組「彼女は安楽死を選んだ」が主要な話題の一つとして取り上げられ、徹底的に批判されているのに驚いた。<反延命>主義という言葉を使ったのは「安楽死の議論を経ずに、延命の差し控え・中止・終了」が提案される状況を示したいことが理由の1つだそうだが、私が期待した安楽死そのものに関する議論は殆どなかった。
 東大の人文系教授3人が編者となり、彼らに加えて3人の医者を含む6人の文章(うち1つはインタビュー)および雨宮処凛、障害者で国会議員・木村英子と編者1人による鼎談からなっている。本書は、冒頭にあるように「<反延命>主義、すなわち人生の最終段階において無益な延命治療をおこなうべきではないとするような風潮を、批判的に解明することを目的」とする。読み始めて最初の堀江と小松の文章に反発を感じ、その印象は最後まで読み進めても消えず、怒りさえ覚えた。小松(編者のリーダー格)は上記TV番組に対して、批難ではなく批判としながらも、「捏造や隠蔽といっても過言ではない」とか、番組をナチスの映画に例えて優生思想と断じるなど、強烈な言葉をもって徹底的に貶めている。本書に対して私は同様の言葉を小松に返したい。本書の体裁は医者のコメントを加えることによって一見、バランスを取っているように見えるが、実際は編者らの主張、すなわち安楽死を含む全ての<反延命>を否定するための本、というのが私の読後感である。小松は、番組ディレクターが重要な場面で通訳の存在を隠したとして「隠蔽」という言葉を使っているが、私には通訳本人が番組への参加に同意しなかった可能性も考えられ、ディレクターの意図がどこにあったのかわからない。「捏造」や「隠蔽」という悪意を含む言葉は私にとって批判というより批難と感じるが、その感覚で言えば私のこの文章も批難の部類に入るのかも知れない。
 本書のきっかけは公立福生病院における人工透析中止事件であり、相模原やまゆり園の障害者殺人事件も重要なテーマとなっている。どちらも弱者を死に至らしめた事件ということで共通し、私を含めて多くの人は著者らと同じく、弱者の側に立つであろう。また本書は優生思想の広がりを危惧することが主要な動機となっていて、これに対して私も反対する気はない。しかし本書を読む限り、編者らは優生思想に警告を発することだけにこだわり、自らの安楽死を願う人々(私にとっては彼らも弱者)の気持ちに対して全く配慮をしていない。TV番組の主人公・小島さんは日本で安楽死について議論して欲しいとの思いでTV番組に出演したという。それに対して小松は、彼女の考えを優生思想と断じ、彼女への対応として本書に文章を書いたとする。すなわち、議論をして欲しいという小島さんに対する小松の答えは、議論などしない、と読める。はっきりとは書いていないが、以上の文脈から私は、編者たちは全ての<反延命>を否定し、安楽死を一切認めない、と理解した。小松らはそんな主張をしていない、と反論するかも知れない。しかしもしそうなら、「安易」ではない、ぎりぎり許される安楽死はあるのか、あるとすればそれにはどのような状況が必要なのか、に関する編者ら自身の考えを本書に記すべきと私は思う。それも困難ならば最低限、まだわからないが今後議論したい、でもいい。「安楽死の議論を経ずに」うんぬんと言うなら、後述する医師の言葉だけでなく、安楽死に関する編者ら自身の何らかのコメントを載せることが、少なくとも小島さんに対して優生思想という厳しい言葉を浴びせる際の礼儀もしくは義務ではないか、と私は思う。
 本書に登場する3人の医師はそれぞれ、トリアージ、生命維持治療(「延命治療」という医学用語はない、と医師は言う。編者はそれに対してコメントしないが。)、最重度の心身障害を持つ小児や緩和ケア児などの代理意思決定、という少しずつ異なる重いテーマで語っているが、共通するのは決して断定的な言い方をしないことだ。トリアージは「多」であって全てを一括りにはできないし、生命維持治療の中止や安楽死を全て否定したりしない(「たとえ、本人が死にたいと言ったからといって、それでいい、とは私は思っていません」というのが医師の言葉である)。真摯に患者に向かう医師は、迷いつつもそれぞれ個別の患者にとっての最善を探す。それに対して編者らは、優生思想につながるからという理由で、安楽死に関する一切の議論をせずに切り捨てているように私には見える。医者の章を設けることで編者らの意図をカムフラージュしていると感じたことが、小松に対する上記の私のコメントになった(正直、私は番組ディレクターや本書の手法を悪いとは思わないが、小松がディレクターを批難するなら貴方も、と言いたいだけだ)。編者の一人が<反延命>を訴える人々を「医療右翼」と呼んだそうだが、私には編者らの考え方も右翼的に見える。安楽死も、夫婦別姓も、同性婚も、皆さんがどうこうではなく、マイノリティである自分たちを認めて欲しいと訴えているのに対して、一切ダメ、とすることを保守的というのではないだろうか。優生思想を阻むという、国民全体の利益と編者らが考える「正義」のためなら多少の犠牲は仕方ない、とさえ読める。まるで沖縄や福島県双葉町に対する国の態度のようだ。
 誤解のないように書き加えるが、私も上記医師と同じく、安易に安楽死を肯定するつもりは全くない。小島さんの死に心を動かされたが、それを肯定すべきかどうかもわからない。ただ、肉体的な苦痛は生じなくとも、精神的に絶望的に苦しんでいて、死にたいと念じている全ての人に対して例外なく、絶対ダメ、と大声で主張する気になれないだけだ。小松のTV番組批判は、番組で紹介された、難病にも関わらず延命を希望して生きている患者の娘の言葉「姿があることは、生きてるってことでしょ。姿があるかないかは、私のなかですごくでっかい。」で終わっている。もちろん家族も大事だが、苦しんでいる当事者こそが最も配慮すべき弱者、と私は思う。安楽死を認めつつある西欧の国々でも、苦しんでいる弱者の願いをただ一方的に否定しないために、恐らく多くの議論をしながら、少しずつ法律を変えているのではないのだろうか(翻って日本はいつも「不作為」である)。安楽死について自分で考える材料を期待して本書を開いたが、医者のためらいの言葉は胸に響いたものの、編者らは「門前払い」をしていただけだった。小松が上記TV番組を「非常にいびつな番組」とするなら、同じ意味で本書は、医者の言葉を利用した「いびつな本」と私は思う。
 日本における自殺の多さは、他人に迷惑をかけたくない、という日本人に多い考え方も原因の一つと私は考えていて、安楽死を望む人たちについても同様の心理が働いているように思う。自分の意思で何もできず、他人に迷惑をかけるだけの自分に精神的苦痛を感じる人がいて、中にはその苦しみが極端に強く、そういう自分の存在自体にいたたまれなくなる人がいても不思議はない。私は「閉じ込め症候群」というものを知ったとき、自分がそうなることを想像して恐怖に襲われた。TVに出た小島さんの場合、将来確実に自分が動けなくなると判断し、そうなる自分は耐えられない、そうなってからではもう遅いと考えた。もちろん心理は変わり得るから、何かのきっかけで耐えられるようになるかも知れず、様々な方法を使って安楽死を思い留めさせる試みは必要かも知れない。しかしそれでも、全ての人に「ダメ」と誰が言えるだろうか。それを国が「犯罪」としていいものだろうか。本書の中で小児科医の笹月が書いているように、おそらくいつまでたっても、どう議論してもそう簡単に「答え」は出てこない。しかしだからといって、苦痛に苛まれている人を放置して、不作為のままでいいのだろうか。(少しでも認めれば自死を、夫婦別姓の場合は家庭の崩壊を、同性婚では同性愛を、助長することになる、という保守派の常套句が聞こえてきそうだ。)ここでは触れなかったが、肉体的苦痛から安楽死を希望する人に対しても、もちろん同じ議論ができるだろう。
 本書の鼎談の中に相模原障害者殺人事件・植松被告の死刑が言及されているが、国による暴力的な死の押し付けという意味では死刑こそが大問題であり、多くの先進国では死刑廃止になっているのに対して日本では広い議論さえない。犯罪者の中には経済的だけでなく、小児期の虐待やDVの被害者など多くの弱者がいる、と私は考えていて、死刑制度も弱者切り捨ての一つと思う。編者らは死刑廃止も訴えているのだろうか、あるいは専門分野が異なるから関わらないのだろうか? (犯罪者に対する他の刑罰制度も同じと思うが、それは別の読書メモで)