新・資本主義論 「見捨てない社会」を取り戻すために2023年04月15日

ポール・コリアー (伊藤 真・訳)<白水社・2020.9.10>

 原著は2018年、日本語訳は2020年に発行された本だがこれも図書館の新着本の棚で見つけた。帯には「開発経済学の泰斗が満を持して放つ処方箋」とある。この数年、世の中を良くする方策の本として、主にアナーキズム関連を読んできたので、別の立場からの議論も知りたいと思って読んでみた。先の柄谷の「力と交換様式」と同じく私にとって異分野の用語が多用され、プラグマティズム、ポピュリズムまではよかったが、コミュニタリアニズム(共同体主義)、ロールズ主義になるとネットで調べても著者が伝えたいであろうイメージが掴めず、読みにくかった。理系の人が一般向けに書くときは用語の初出時に簡単な説明をつけると思うが、こういう分野では難しいのだろうか。
 著者はイギリス・シェフィールドで低学歴の両親のもとに生まれながら、奨学金を得てオックスフォード大学で学び、オックスフォード、ハーヴァード、パリの大学の教授職につき、さらに大英帝国の勲章、ナイト爵位、英国学士院の学士院長賞を得たという政治経済学者。一方、著者の従姉妹は14歳まで自分とほぼ同じ境遇だったが、父親が急死したために10代で子供を産み、それに伴う問題や恥辱も味わった。「私は成功した一流家族と崩壊して貧困に落ち込んでしまう家族という、スキルと意欲が生み出す格差も味わってきた」と著者はいう。本書ではロンドンのような大都会とシェフィールドに代表される衰退した地方都市、高学歴層と低学歴層、スキルのある高所得者とスキルを持たない低所得者、という対比が何度も強調されるが、自分は両者を良く知ると言いたいのだろう。本書の著者紹介によれば、「アフリカをフィールドワークの中心としながら、世界の最貧国の最底辺で暮らす人びとに寄り添い、先進諸国の政治・経済政策やグローバリズムの弊害に厳しい批判の目を向けてきた」というから、基本的には弱者の側に立つ人と思われる。
 このように経験豊富で、その世界では恐らく著名な学者が書いた「処方箋」ということでそれなりの期待を持って読んだのだが、共感や納得する部分はあったものの、「新・資本主義」という点では少しがっかり、というのが率直な感想である。著者の責任ではないが、誤字脱字が多かったことも悪印象に繋がったのかも知れない。それにしても自らを「一流家族」と呼ぶことには驚いた。たとえイギリスのような階層社会で客観的に見れば自分はそうであると判断したとしても、謙遜を旨とする日本の感覚では考えられない。
 著者は、現在の社会では経済格差が急激に拡大しているために、「深刻な亀裂の数々が私たちの社会を大きく切り裂こうとしている。それは人びとに新たな不安と新たな怒りを抱かせ、同時に新たな政治的な激情も生み出している。」とする。その亀裂の一つとして「場所」の要素が大きく関わり、国レベルだけでなく、大都市と地方都市の違いも大きい。また「新たなスキルを身につけた高学歴者たち」という支配者層が生まれ、それに伴って大都市圏でも全国的にも低学歴の「白人労働者層」という「蔑称」で呼ばれる人びとが危機に直面している、という。著者は欧米先進国を考えているが、日本で言えば前者は「ヒルズ族」だろうか。このような現状を打開する方策を提案するために本書は書かれた。
 著者の基本的なスタンスは「資本主義は多くの成果をあげてきたし、繁栄には欠かせない。だが資本主義経済を過度に楽観視すべきではない」。マルクス主義がダメなことは、ソ連などの共産主義国が権威主義的であり、最終的に滅びたことで既に実証済み、とする。著者が良かったと考える資本主義は、第二次世界大戦後から1970年頃までの先進諸国で、「その資本主義はコミュニタリアニズムによる社会民主主義としっかりと結びついていた」。しかしその後「コミュニタリアニズムは社会的父権主義に取ってかわられた」ために反発されるようになり、結果としてイデオローグか、またはポピュリストが支持されるようになった。「左派のインテリたちが実際的なコミュニタリアニズムに根ざした社会民主主義を放棄し、功利主義やロールズ主義のイデオロギー支持へと移っていく中、中道右派の諸政党は見識に乏しい懐古主義(ノルタルジア)に凝り固まるか、これに劣らず見当外れなインテリ集団の虜になっていった。イタリアのベルルスコーニ、フランスのジャック・シラク、ドイツのメルケルらに象徴されるヨーロッパ大陸諸国のキリスト教徒民主主義者たちは、おおかたノスタルジアの道を選んだ。」バーニー・サンダース、ジェレミー・コービンがイデオローグかどうか、私には判断できないが、彼らのことも嫌いらしい。レッテル貼りが好きな人のようだ。
 そこで著者は「社会的母権主義(ソーシャル・マターナリズム)」と呼ぶ諸政策を提案する。「国家は社会と経済の両方の領域で積極的に役割を果たすが、過度に自らの権力を増大させることはしない。租税政策は強者たちが分不相応な利益を持ち去ることがないように抑制するが、喜び勇んで富裕層から所得を奪い取って貧困層に配るようなことはしない。」というが、残念ながらそれらの違いは私には良くわからなかった。著者が良しとする政治家は、シンガポールのリー・クアンユー、カナダのトルドー、ルワンダのカガメであり、全てプラグマティストとして賞賛する。フランスのマクロンも評価している。
 著者がシェフィールドを愛するように、郷土愛としての「愛国心が人びとを結束させる推進力となり、不平不満に基づく個々にばらばらなアイデンティティは重視されなくなる。」「本書のプラグマティズムは道徳的価値観にしっかりと、そして一貫して根ざしている。・・「左寄り:というアイデンティティは道徳的優越感を感じるための怠惰な手法となっている。「右寄り」というアイデンティティは自分は「現実的」だと感じるための怠惰な手法となっている。みなさんはこれから本書を通じて倫理的な資本主義の未来を探究することになるーーど真ん中の中道へ、ようこそ」。これらの表現の仕方は私にはどうも気に入らない。
 著者が言う「新・資本主義」とは「道徳的な資本主義」のことで、それには家族、企業、国家という3つの組織への帰属意識が重要であり、それぞれ「倫理的な家族」など章立てして、著者が考える、あるべき3つの組織像が書かれている。これらの組織のリーダーは、成員に「義務感」を生み出すことよって彼らの順守性(コンプライアンス)を劇的に増大させることができる。すなわち成員が嫌々するのではなく、「すべき」と判断して行動するように仕向けるということだ。ピラミッド型の組織でリーダーが命令によって成員を従わせるのでは自発的な行動は期待できない。企業については、良い例としてトヨタやジョンソン・エンド・ジョンソンなど、また悪い例としてゼネラルモーターズなどで起きた具体的な事例を挙げ、倫理的な企業は発展するし、そうでない企業は没落する(ことがある?)、と考えているようだ。著者の考え方は、トランジションタウンで私が重要と感じた「当事者意識」と通じるし、望ましい組織像とは思うが、家族はともかく、現代の企業で経営者に「道徳的」であろうとするインセンティブを与えることができるのか、国のリーダーにそのような人を国民が選ぶようになるのか、私には甚だ疑問だ。著者は可能と思っているらしいが、このような理想論もプラグマティックなのだろうか。
 「現在、英米系の経済圏では、企業の重役らは自社の所有者たちの利益のために会社を経営することを法的に求められている」そうで、「企業の所有者とはもっぱら株主のことを指す」。しかし「このような仕組みは資本主義に初めから備わっているものではない。」という。「おそらく今や分散化されていない最大のリスクは、一つには勤続年数の長い従業員らが負うリスクだろう。自分自身という人的資本をたった一つの会社に投資してきたのだから。もう一つは長期的かつ構造的に供給を特定の会社に依存するかたちになってしまった顧客が負うリスクだ。」という主張は非常に納得できる。著者は従って、両者のいずれかの代表を取締役会に入れた「相互会社」という企業をベターと考えていて、それは実際に存在するし、広めることも可能と考えている。ただ、そこへの道筋として挙げられる課税や公益の監視などで達成されるのか、私には良くわからない。おそらく著者も提案はするものの、それほど実現性が高いとは考えていないと思った。
 私に最も違和感があったのは、組織の成員同士の「相互扶助」の説明だった。その必要性は私にも理解できるが、著者の表現によれば「ぼくを助けてくれるなら、ぼくも君を助けてあげるよ」となっていて、ということは著者が考える成員間のデフォルトは「信頼できない仲間」であるように思えた。私なら「君を助けてあげるから、ぼくのことも助けてね」とするところだが、理想的過ぎるのだろうか。
 一般論としてプラグマティックな考え方はそれなりに理解できるし、どちらかと言えば私もそれに近い部分はあるかも知れないとも思う。いわゆる「原理主義」が多くの軋轢や亀裂を生むであろうことも深く納得する。しかし全てのイデオロギーを排する姿勢で世の中うまくいくのだろうか、とも思ってしまう。また道徳や倫理の重要性についても同意するが、現在のグローバルな競争の中にいる企業や国家にそれを求めても無理だろう、との思いは拭えない。
 これまで考えたことが無かったのは、「場所」に関する議論のうち、大都市の優位性に関することで、人や企業が集積すること自体によって利益が生まれ、特定の層のみがその利益を得ているという話だ。それは本人あるいは当該企業の能力や努力によらない利益であるから、適切に課税すべき、と著者は主張する。具体的に人で言えば、そのような利益を得ているのが地主なのか、あるいは「新たなスキルを身につけた高学歴者たち」なのか、といかにもイギリスらしい図式的な議論があり、理屈としてはもっともと思ったが、そのような課税の仕組みが実施可能なのか私にはわからない。日本の地方交付税のような税金の徴収と分配をもっと精密に、ということなのだろうか。
 著者が懐かしむ社会民主主義は、当時活発だった協同組合が結束して生まれた中道左派政党によるらしく、また著者の故郷であるシェフィールドを含む地域で盛んになった協同組合運動が、ほぼヨーロッパ全域に急激に普及していったことを、誇らしげに語っている。外観だけ見ると、著者とグレーバーや柄谷、さらにはトランジションタウンの考え方とは水と油だが、協同組合などは共通するように感じ、歩み寄ることはできないのだろうか、と思ってしまった。但し、現在の著者はローカルな活動の再現を考えているのではなく、企業のグローバル化は基本的に善であり、国際的なあるいは国内での対応を適切に行えば有益としているので、やはり水と油か。