アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話2022年07月25日

カトリーン・マルサル  (高橋璃子・訳)<河出書房新社・2021.11.30>

 著者はスウェーデン出身の女性ジャーナリストで、本書は1990年代に登場したというフェミニスト経済学の考え方をジャーナリスティックに訴えているが、本書最後の「経済への影響力こそ、フェミニズムの秘密兵器である」という言葉に示されるように、経済学を材料としたフェミニズムの本と読めた。アダム・スミスの夕食を作り続け、個人的生活を支えたのは全て彼の母親と親戚の女性だったらしい。しかし彼が創り出した経済合理性(見えざる手)を体現する経済人(ホモ・エコノミクス)にはそのことが全く反映されておらず、彼は同時代の人々と比較しても女性を軽視しているという。本書では、経済人の性格は全くの「男性」であり、そこでは女性の担う役割が無視され、家事労働あるいはケア労働は全く含まれていないことを徹底的にしつこいほどに批判する。フェミニズムのためには、既にできあがっている経済人というモデルに女性を当てはめても何も改善されず、従ってエピローグのタイトル「経済人にさよならを言おう」が著者の結論となる。
 経済学の対象を人間の労働全般に広げ(それはもう「経済学」ではないのかも知れないが)、GDPに変わる新たな指標が必要ということだろうと思ったが、著者は研究者ではないので、残念ながら具体的なアイディアは開示されていない。本書はフェミニスト経済学の観点からの主張であるため省かれているが、GDPに含まれないのは家事労働だけでなく、様々なレベルにおけるのコミュニティ活動やボランティア活動にも「労働」はあるだろう。ブータンの国民総幸福量や、国連の幸福度スコアなど、GDPに代わる国の評価基準は作られているが、これらはもっと普遍的な「幸せ」を表すものであって、GDPが表すものとのギャップが大き過ぎる気がする。家事労働などを金銭に換算した数値(同じ時間を他の労働に従事した場合、あるいはその労働を有償で行った場合)を見たことはあるが、国全体に広げて比較した値は知らない。素人にはなかなかイメージできないが、何かないのだろうか。あるいはヒトの生活を支える全ての活動(労働)を数値化(金銭化)し、同列に並べて比較すること自体に無理があるのならば、どのようにしてジェンダーを超えた評価が可能なのだろう。

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