アナーキスト人類学のための断章 ― 2022年10月16日
デヴィッド・グレーバー (高祖岩三郎・訳)<以文社・2006.11.1>
15年以上前に出た本だが、「ブルシット・ジョブ」を読んだあとに出会って、自分が最もしっくりくる生き方に近いのはアナーキズムかも知れないと思ったきっかけであり、以降の読書にも大きな影響を受けたので、改めて読み直してメモを残すことにした。
著者はニューヨーク出身の文化人類学者で、2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動の指導的存在と言われる。本書日本語版へのまえがき「まだ見ぬ日本の読者へ 自伝風序文」に自身の生い立ちが記してあり、12歳のときのマヤ象形文字の解読がハーバード大の専門家に認められて高校の奨学金を得て、19歳のときに人類学を志し、さらにアナーキストたることを決めたという。その背景には、両親ともに左翼の闘士であり、訳者いわく「労働者的ニューヨークの申し子」という環境で育ったことがあるようだ。著者は研究者の枠にとどまらず、世界の民衆とともに戦う活発なアクティヴィストであり、そのためイェール大学の教職を追われてロンドンの大学に移った。「ブルシット・ジョブ」が世界的なベストセラーになり、日本でも翻訳が出た直後の2020年9月に59歳の若さで亡くなった。従って、私が著者の本を読み始めたときには既に故人になってしまっていた。
私が最初にアナーキズムに親近感を抱いた文章はまえがきにあった。「・・・社会主義者が労働者のためにより高賃金の獲得を叫んでいたことに対して、アナーキストは労働時間の短縮を求めていたことにあった。・・・非資本主義的な環境に生きるほとんどの人びとは、経済学者が「目標収入(Target incomes)」と呼ぶものを目指して働いている。彼らは市場から何が必要か、それがいつ手に入るかわかっているので、ある時点で仕事をやめ、リラックスし、人生を楽しむことができる。」もちろん私は資本主義社会に生きているが、周囲の人を見ていると自分のスタンスは明らかにマイナーと感じていたので、この文章に出会って仲間を見つけた気がした。食べ物に困るほどの貧困を知らず生きてきたこともあるだろうが、高級レストランには全く興味がないし、安価な食事でもあれば満足なのも確かだ。
著者によれば古典的アナーキズムの原理は「自律(autonomy)」「自由連合(voluntary association)」「自己組織化(self-organization)」「相互扶助(mutual aid)」「直接民主主義(direct democracy)」で、自分たちをアナーキストと呼ぶかどうかに関わらず、これらの活動は現在、世界各地で広がっているという。またこの生き方は人類学者にとっては馴染みのあるものであり、著者が研究したマダガスカルで見た人々もそうであった。人類学におけるアナーキズムの先駆者と著者が考えるマルセル・モースは「国家と市場のない社会は、彼らがそのように生きることを積極的に望んだためにそうなった」としている。アマゾンや北米の先住民は、暴力の脅威に裏付けられた権力や恒常的な富の不平等が生じないような状況を作っていた、という。すなわちヒトの社会は、発展して国家や市場経済を作り出したわけではないということだ。最近よく聞くようになり、このブログでも以前に紹介した「贈与経済」もモースに由来するもので、モース以前は、貨幣や市場なき経済は「物々交換」によって機能している、と考えられていたが、実際には「贈与経済」だったことをモースは証明したそうだ。
しかしこれまで実際に存在したアナーキズムは原住民の社会か、あるいは近代テクノロジーの世界では小規模な孤立した運動の形であって、全社会的変革が実現したことはない。それはアナーキストは権力を奪取しようとはせず、国家の形成を目指さないから(だから無政府主義者と日本では訳される)、と著者はいう。アナーキストが目指すのは「・・より漸進的に、現今の権力の形態が馬鹿馬鹿しく意味をなさないことを証明する、世界的な規模の代案的(alternative)組織形態をつくり、新しいコミュニケーションの形式を示し、新しい非疎外的な生活の組織化の方法を創造する」ことで、「このことは逆に、実現しうるアナーキズムには無数の例がありうることを意味している。..高みに立って権威を押しつけないものなら、どんな種類の組織でもアナーキズムたりうるのだ。」
私が理解したところでは、著者がいうアナーキストの社会は直接民主主義であり、多数決を用いずに合意形成ができるまで話し合いを繰り返す(多数決は少数者への「暴力」を伴い、内部にしこりを残す)。またそれがどこまで広がるかは結果であって、社会全体がアナーキズムになるように命令したり、暴力的に他者を圧することはない。基本はローカルな組織や社会での実現を目指す。そこでどうしても頭がいってしまうのは、「ウォール街を占拠せよ」運動は一時的に盛り上がったとしても、「ウォール街」に代表される経済の仕組みを変革することはできないだろう、ということだ。おそらく著者の答えは、上述の「現今の権力の形態が馬鹿馬鹿しく意味をなさない」と多数の人が思うようになれば変わる、ということになるのだろう。先ずは自分の周りの社会をアナーキスト的に、ということか。尚、本書の主題はアナーキズムではなく、アナーキスト人類学なので、人類学との関連に重点が置かれているが、私の関心はあまりそこにないため本文では大部分を省略した。
先日、NHK-BSで放映された2022年フィンランドのドキュメンタリー番組「”燃え尽き症候群(Burnout)”を生むシステム」に著者が出演していて、初めて彼の言葉を聞いた。元々はアメリカかイギリスで作られた番組をフィンランドで編集し直されたため、何年も前に亡くなった故人が出ているのかと想像しているが、話の中身は「ブルシット・ジョブ」に関することで、その話し振りはこれまで持っていたイメージ通りの、一見さえないおっさんで何故か嬉しくなった。
15年以上前に出た本だが、「ブルシット・ジョブ」を読んだあとに出会って、自分が最もしっくりくる生き方に近いのはアナーキズムかも知れないと思ったきっかけであり、以降の読書にも大きな影響を受けたので、改めて読み直してメモを残すことにした。
著者はニューヨーク出身の文化人類学者で、2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動の指導的存在と言われる。本書日本語版へのまえがき「まだ見ぬ日本の読者へ 自伝風序文」に自身の生い立ちが記してあり、12歳のときのマヤ象形文字の解読がハーバード大の専門家に認められて高校の奨学金を得て、19歳のときに人類学を志し、さらにアナーキストたることを決めたという。その背景には、両親ともに左翼の闘士であり、訳者いわく「労働者的ニューヨークの申し子」という環境で育ったことがあるようだ。著者は研究者の枠にとどまらず、世界の民衆とともに戦う活発なアクティヴィストであり、そのためイェール大学の教職を追われてロンドンの大学に移った。「ブルシット・ジョブ」が世界的なベストセラーになり、日本でも翻訳が出た直後の2020年9月に59歳の若さで亡くなった。従って、私が著者の本を読み始めたときには既に故人になってしまっていた。
私が最初にアナーキズムに親近感を抱いた文章はまえがきにあった。「・・・社会主義者が労働者のためにより高賃金の獲得を叫んでいたことに対して、アナーキストは労働時間の短縮を求めていたことにあった。・・・非資本主義的な環境に生きるほとんどの人びとは、経済学者が「目標収入(Target incomes)」と呼ぶものを目指して働いている。彼らは市場から何が必要か、それがいつ手に入るかわかっているので、ある時点で仕事をやめ、リラックスし、人生を楽しむことができる。」もちろん私は資本主義社会に生きているが、周囲の人を見ていると自分のスタンスは明らかにマイナーと感じていたので、この文章に出会って仲間を見つけた気がした。食べ物に困るほどの貧困を知らず生きてきたこともあるだろうが、高級レストランには全く興味がないし、安価な食事でもあれば満足なのも確かだ。
著者によれば古典的アナーキズムの原理は「自律(autonomy)」「自由連合(voluntary association)」「自己組織化(self-organization)」「相互扶助(mutual aid)」「直接民主主義(direct democracy)」で、自分たちをアナーキストと呼ぶかどうかに関わらず、これらの活動は現在、世界各地で広がっているという。またこの生き方は人類学者にとっては馴染みのあるものであり、著者が研究したマダガスカルで見た人々もそうであった。人類学におけるアナーキズムの先駆者と著者が考えるマルセル・モースは「国家と市場のない社会は、彼らがそのように生きることを積極的に望んだためにそうなった」としている。アマゾンや北米の先住民は、暴力の脅威に裏付けられた権力や恒常的な富の不平等が生じないような状況を作っていた、という。すなわちヒトの社会は、発展して国家や市場経済を作り出したわけではないということだ。最近よく聞くようになり、このブログでも以前に紹介した「贈与経済」もモースに由来するもので、モース以前は、貨幣や市場なき経済は「物々交換」によって機能している、と考えられていたが、実際には「贈与経済」だったことをモースは証明したそうだ。
しかしこれまで実際に存在したアナーキズムは原住民の社会か、あるいは近代テクノロジーの世界では小規模な孤立した運動の形であって、全社会的変革が実現したことはない。それはアナーキストは権力を奪取しようとはせず、国家の形成を目指さないから(だから無政府主義者と日本では訳される)、と著者はいう。アナーキストが目指すのは「・・より漸進的に、現今の権力の形態が馬鹿馬鹿しく意味をなさないことを証明する、世界的な規模の代案的(alternative)組織形態をつくり、新しいコミュニケーションの形式を示し、新しい非疎外的な生活の組織化の方法を創造する」ことで、「このことは逆に、実現しうるアナーキズムには無数の例がありうることを意味している。..高みに立って権威を押しつけないものなら、どんな種類の組織でもアナーキズムたりうるのだ。」
私が理解したところでは、著者がいうアナーキストの社会は直接民主主義であり、多数決を用いずに合意形成ができるまで話し合いを繰り返す(多数決は少数者への「暴力」を伴い、内部にしこりを残す)。またそれがどこまで広がるかは結果であって、社会全体がアナーキズムになるように命令したり、暴力的に他者を圧することはない。基本はローカルな組織や社会での実現を目指す。そこでどうしても頭がいってしまうのは、「ウォール街を占拠せよ」運動は一時的に盛り上がったとしても、「ウォール街」に代表される経済の仕組みを変革することはできないだろう、ということだ。おそらく著者の答えは、上述の「現今の権力の形態が馬鹿馬鹿しく意味をなさない」と多数の人が思うようになれば変わる、ということになるのだろう。先ずは自分の周りの社会をアナーキスト的に、ということか。尚、本書の主題はアナーキズムではなく、アナーキスト人類学なので、人類学との関連に重点が置かれているが、私の関心はあまりそこにないため本文では大部分を省略した。
先日、NHK-BSで放映された2022年フィンランドのドキュメンタリー番組「”燃え尽き症候群(Burnout)”を生むシステム」に著者が出演していて、初めて彼の言葉を聞いた。元々はアメリカかイギリスで作られた番組をフィンランドで編集し直されたため、何年も前に亡くなった故人が出ているのかと想像しているが、話の中身は「ブルシット・ジョブ」に関することで、その話し振りはこれまで持っていたイメージ通りの、一見さえないおっさんで何故か嬉しくなった。
ジョブ型雇用社会とは何か 正社員体制の矛盾と転機 ― 2022年10月10日
濱口桂一郎 <岩波新書・2021.9.17>
私にとって全く学んだことのない分野であるが、日本人の生活を考える上で労働環境の理解は重要だろうと思い、手軽な新書ということもあって読んでみた。著者は旧労働省の時代から長らく労働政策に関わってきた官僚であり、しばらくEUにもいたとのことで、ヨーロッパの事情にも詳しいらしい。
年功序列による給与体系、新卒一括採用、人事異動による転勤、中高年社員への肩たたきや追い出し部屋、企業別組合など、日本に特徴的と言われる事柄について、マスコミを通してバラバラには知識として知っていたつもりだったが、それらの関連については真面目に考えたこともなかった。本書によれば、それらは全て密接に関係していて、その最も本質的なことは雇用が、諸外国のジョブ型ではない、日本特有のメンバーシップ型(いずれも著者が命名したらしい)にあるという。日本の労働にまつわる問題の歴史的経緯や、その場しのぎの対策が複雑に絡み合った現状が何となく理解できた気がする。
日本以外の国で行われている雇用は全てジョブ型で、先ず職務記述書(Job Description)があり、そのジョブに対する賃金が決まっていて(人ではなく椅子に値段がつく)、ジョブに必要なスキルを有する人を雇用する。従って原則はいつも欠員募集であり、該当するジョブが無くなれば解雇されることになる(但し、アメリカを除く全ての国で解雇規制はある)。スキルは一般に経験者の方が高いから、若者に失業者が多く、また同様のスキルを有する労働者は同様のジョブにつくから、その賃上げを要求するために産業別に団結して組合をつくる。一方、日本はジョブを限定せずに、新卒を一括採用して、会社のメンバーとして迎える。新入社員に具体的な労働スキルを求めず、人の「潜在能力」で判断して入社させ(著者はiPS細胞と呼ぶ)、会社に入ってから必要なスキルを身につけさせる(OJT, On the Job Training)。社員のジョブは会社の都合によって一方的変えることができ(ジョブ型雇用ではありえない)、配置転換や転勤を指示できる(社員に拒否権はない)。新たなジョブへの適応力が下がってきた高齢者(老化したiPS細胞)は会社にとって不要となり、肩をたたかれ追い出し部屋に送られる(もちろん一部ではあるが)。1970年代後半から1990年代前半までの20年間、日本の経済が好調だったことから、日本独特のメンバーシップ型の雇用システムが競争力の源泉としてもてはやされたが、以降の凋落により今では日本もジョブ型に変えるべきという風潮になっているらしい。しかし日本では「メンバーシップ型」の仕組みが人々に深く根付いているため、現在、日本で議論されている「ジョブ型」が非常に誤解の多い扱いをされている、というのが著者が本書を書く動機となっている。
上述の日本の状況は主に大企業のことであり、国内の大部分を占める中小企業は状況がかなり異なるが、職務記述書はなく会社の都合でジョブを変更されることは変わりないようだ。また海外の話が先進国だけなのか、全てなのかはわからなかったが、少なくとも大企業については全てジョブ型雇用なのかも知れない。
あまりに多くの知らなかったことが載っていて、到底全部を網羅できないが、驚いたことをいくつか。今の日本の給与体系は、戦前の軍人が提唱した「生活給」が基になっており、労働の中身より、男が結婚し子供を育てるのに必要なお金、という考え方から成り立っている。そのため給与は年功序列で上がっていくことになり(勤続年数と定期昇給)、これまで当たり前のようにもらっていた家族手当や児童手当もその考えからくる。ところが年功序列で上がっていく給与は現在、建て前としては経験を積んで得られる「能力」の向上で説明されていて、したがって「能力」は低下しないことになっている。しかしその「能力」は具体的なジョブを想定しないため、スキルのような実態はなく、「職務遂行能力」という測定困難な、日本以外の国からみたら極めて奇妙なものとなる。さらに1990年代から、下がった「能力」に見合う給与に下げるために「成果主義」による評価を持ち込んだが、会社の都合で割り振ったジョブで、さらに多くが集団で得られる成果であることから、個々に評価することが難しく失敗に終わった、としている。
またジョブ型雇用では、管理職は採用時から別扱いであるが(ジョブがそのように規定されている)、日本ではエリートもノンエリートも区別なく採用され、昇進によって管理職になる。アメリカのビジネススクール(大学院相当)や、フランスのエリート養成校は知っていたが、これらはジョブ型雇用の社会では一般的なようで、そこを修了することが直接、エリートである管理職への道につながり、高給を得られるようになるらしい。確かに日本ではいわゆる一流大学を卒業しても、少なくとも見かけ上、就職時には他大学出身者と同じスタートラインに立つ。
男女平等や、外国人、障害者の扱いなどについて、日本も国際情勢に合わせた対応を求められ、そのための法整備をしたようだが、元々が上述のような雇用および給与体系であるため、それぞれ様々な矛盾を孕んだものとならざるを得ない。さらに同一労働同一賃金(社内でジョブを移る日本で全員を対象とすることは不可能)、労働争議における金銭解決(日本では法制化されていない)、企業内組合の位置付け(任意加入、多くが非正規を入れていない、名ばかりの管理職でも組合から外れる)などの問題も全てメンバーシップ型雇用にからんでいる。日本も諸外国と同じくジョブ型雇用にすることで多くの矛盾が解消しそうに思えるが、著者は、日本の企業がジョブ型雇用を採用することに非常に懐疑的であり、社員を自由に配置できる、企業側にとって使い勝手の良いメンバーシップ型雇用を手放すとは考えられないようだ。要するに、日本におけるこれらの労働問題の明快な解決法はない、というのが現状のようで、本書を読んでわかったことと言えそうだ。
私にとって全く学んだことのない分野であるが、日本人の生活を考える上で労働環境の理解は重要だろうと思い、手軽な新書ということもあって読んでみた。著者は旧労働省の時代から長らく労働政策に関わってきた官僚であり、しばらくEUにもいたとのことで、ヨーロッパの事情にも詳しいらしい。
年功序列による給与体系、新卒一括採用、人事異動による転勤、中高年社員への肩たたきや追い出し部屋、企業別組合など、日本に特徴的と言われる事柄について、マスコミを通してバラバラには知識として知っていたつもりだったが、それらの関連については真面目に考えたこともなかった。本書によれば、それらは全て密接に関係していて、その最も本質的なことは雇用が、諸外国のジョブ型ではない、日本特有のメンバーシップ型(いずれも著者が命名したらしい)にあるという。日本の労働にまつわる問題の歴史的経緯や、その場しのぎの対策が複雑に絡み合った現状が何となく理解できた気がする。
日本以外の国で行われている雇用は全てジョブ型で、先ず職務記述書(Job Description)があり、そのジョブに対する賃金が決まっていて(人ではなく椅子に値段がつく)、ジョブに必要なスキルを有する人を雇用する。従って原則はいつも欠員募集であり、該当するジョブが無くなれば解雇されることになる(但し、アメリカを除く全ての国で解雇規制はある)。スキルは一般に経験者の方が高いから、若者に失業者が多く、また同様のスキルを有する労働者は同様のジョブにつくから、その賃上げを要求するために産業別に団結して組合をつくる。一方、日本はジョブを限定せずに、新卒を一括採用して、会社のメンバーとして迎える。新入社員に具体的な労働スキルを求めず、人の「潜在能力」で判断して入社させ(著者はiPS細胞と呼ぶ)、会社に入ってから必要なスキルを身につけさせる(OJT, On the Job Training)。社員のジョブは会社の都合によって一方的変えることができ(ジョブ型雇用ではありえない)、配置転換や転勤を指示できる(社員に拒否権はない)。新たなジョブへの適応力が下がってきた高齢者(老化したiPS細胞)は会社にとって不要となり、肩をたたかれ追い出し部屋に送られる(もちろん一部ではあるが)。1970年代後半から1990年代前半までの20年間、日本の経済が好調だったことから、日本独特のメンバーシップ型の雇用システムが競争力の源泉としてもてはやされたが、以降の凋落により今では日本もジョブ型に変えるべきという風潮になっているらしい。しかし日本では「メンバーシップ型」の仕組みが人々に深く根付いているため、現在、日本で議論されている「ジョブ型」が非常に誤解の多い扱いをされている、というのが著者が本書を書く動機となっている。
上述の日本の状況は主に大企業のことであり、国内の大部分を占める中小企業は状況がかなり異なるが、職務記述書はなく会社の都合でジョブを変更されることは変わりないようだ。また海外の話が先進国だけなのか、全てなのかはわからなかったが、少なくとも大企業については全てジョブ型雇用なのかも知れない。
あまりに多くの知らなかったことが載っていて、到底全部を網羅できないが、驚いたことをいくつか。今の日本の給与体系は、戦前の軍人が提唱した「生活給」が基になっており、労働の中身より、男が結婚し子供を育てるのに必要なお金、という考え方から成り立っている。そのため給与は年功序列で上がっていくことになり(勤続年数と定期昇給)、これまで当たり前のようにもらっていた家族手当や児童手当もその考えからくる。ところが年功序列で上がっていく給与は現在、建て前としては経験を積んで得られる「能力」の向上で説明されていて、したがって「能力」は低下しないことになっている。しかしその「能力」は具体的なジョブを想定しないため、スキルのような実態はなく、「職務遂行能力」という測定困難な、日本以外の国からみたら極めて奇妙なものとなる。さらに1990年代から、下がった「能力」に見合う給与に下げるために「成果主義」による評価を持ち込んだが、会社の都合で割り振ったジョブで、さらに多くが集団で得られる成果であることから、個々に評価することが難しく失敗に終わった、としている。
またジョブ型雇用では、管理職は採用時から別扱いであるが(ジョブがそのように規定されている)、日本ではエリートもノンエリートも区別なく採用され、昇進によって管理職になる。アメリカのビジネススクール(大学院相当)や、フランスのエリート養成校は知っていたが、これらはジョブ型雇用の社会では一般的なようで、そこを修了することが直接、エリートである管理職への道につながり、高給を得られるようになるらしい。確かに日本ではいわゆる一流大学を卒業しても、少なくとも見かけ上、就職時には他大学出身者と同じスタートラインに立つ。
男女平等や、外国人、障害者の扱いなどについて、日本も国際情勢に合わせた対応を求められ、そのための法整備をしたようだが、元々が上述のような雇用および給与体系であるため、それぞれ様々な矛盾を孕んだものとならざるを得ない。さらに同一労働同一賃金(社内でジョブを移る日本で全員を対象とすることは不可能)、労働争議における金銭解決(日本では法制化されていない)、企業内組合の位置付け(任意加入、多くが非正規を入れていない、名ばかりの管理職でも組合から外れる)などの問題も全てメンバーシップ型雇用にからんでいる。日本も諸外国と同じくジョブ型雇用にすることで多くの矛盾が解消しそうに思えるが、著者は、日本の企業がジョブ型雇用を採用することに非常に懐疑的であり、社員を自由に配置できる、企業側にとって使い勝手の良いメンバーシップ型雇用を手放すとは考えられないようだ。要するに、日本におけるこれらの労働問題の明快な解決法はない、というのが現状のようで、本書を読んでわかったことと言えそうだ。
ニュー・アソシエーショニスト宣言 ― 2022年10月03日
柄谷行人 <作品社・2021.2.5>
他館からの取り寄せで、かつ入館後1年後からとの条件だったので、知ってから入手するまで長い期間がかかったが、待った甲斐があった。本書を手に取ったきっかけは、デヴィッド・グレーバーに始まって少しずつ最近のアナーキズムに関する本を読み始めたことで、著者もアナーキズムに類した活動をしているらしい、と知って読んでみて、実際そうだった。著者のことは名前しか知らず、私には読みにくそうな本と思っていたが、確かに哲学的な部分は難しかったものの(カント、ヘーゲルの名前は知っていても純粋理系の私には無縁だった)、そこは私の関心からやや遠いので、期待したことを理解するのにはそれほど難渋しなかった。質問に対して著者が答える対話式の箇所が多いことも、わかりやすい所以の一つだろう。著者は私より一回りくらい上の世代であり、学生のときに1960年の安保反対運動に参加して社会改革を目指し、その後も様々な形をとりながらその活動を続けている数少ない闘士として認知されているらしい。私が持っていたイメージとそれほど違わなかったが、これまであまり関心がなかったので、このあたりのことは本書で初めて知った。
著者はNAMという略号にこだわっていて、本書の英文タイトルは New Associationist Manifesto だが、元々は New Associationist Movement(運動)だった。アソシエーショニスト運動という言葉自体は著者が作ったようだが、その内容は古くからあるという。「自由かつ平等な社会を実現するための運動」であり、「歴史は長く、内容は多様である。・・現在も存続している」としている。2000年に著者らがNAMという組織を作ったのは「アナーキズムとマルクス主義の総合を、実戦レベルで追求するための試み」で、2年後に組織は解散したが、個人的に細々とNAMの活動を続けている。組織解散後も「NAMの原理」という著者ら言葉の英語版がウェブ上に残っていて、今まで引き続き諸外国から連絡がきているとのことで、世界各地の運動で引用されているらしい。
著者らが考えたNAMは5つのプログラムからなる。NAMは (1) 倫理的 - 経済的な運動である (2) 資本と国家への対抗運動を組織する (3) 「非暴力的」である (4) 組織形態自体において、この運動が実現すべきものを体現する (5) 現実の矛盾を止揚する現実的な運動であり、それは現実的な諸前提から生まれる。
マルクス主義が「生産過程」を中心に据えるのに対して、著者は「交換過程(売買や贈与など)」を重視する。資本主義に立ち向かうには、著者がいう「内在的対抗運動」と「超出的対抗運動」の両方が必要であり、前者は労働運動や消費者運動、選挙その他の政治活動など、資本主義の中で闘うことであるのに対して、後者は消費・生産協同組合や地域通貨など、資本主義的でない経済を作り出すこと、としている。後者は私が以前に読んだマーク・ボイルの無銭経済運動や、平川克美の共有地に通じるものと思われるが、著者は前者、すなわち資本主義内での闘いを否定するものではない。また資本主義だけでなく、国家も捨て去るべきものとして考えることがアナーキズムとなる所以なのだろう。「非暴力的」の意味は「暴力革命」を否定するだけでなく、議会による国家権力の獲得とその行使を志向しないことを指す。(4)で著者が強調するのは、組織のリーダーを選ぶ際には必ず選挙とくじ引きを組み合わせる(選挙で3人に絞って最後はくじ引き)ことにより、代表制の官僚的固定化を阻むことだ。これによりリーダーを輩出するグループの存在を防ぐことができると考えているようだ。(5)は地域での活動が出発点で、それが協同組合や地域通貨に通じる、と私は理解した。
私が一番知りたいこと、すなわちアナーキスト達は、アナーキズムの先にどのような世界が広がると考えているのか、についてはまだ良くわからないが、地に足がついている人たちは、著者のようなローカルな、地道な活動にしか先はない、と考えているらしいことが段々わかってきた気がする。
著者の活動が日本ばかりでなく世界にどれほどの影響を与えているのか、私には全くわからない。しかしそういうことよりも、10代のときに世の中に対して抱いた問題意識を80歳まで変わらず持ち続け、活動し続けたことはレスペクトに値するし、そこに繋がる、大きく変化した世界の分析と自身の活動の点検をしているらしいことは、尋常ではない継続力と思う。
他館からの取り寄せで、かつ入館後1年後からとの条件だったので、知ってから入手するまで長い期間がかかったが、待った甲斐があった。本書を手に取ったきっかけは、デヴィッド・グレーバーに始まって少しずつ最近のアナーキズムに関する本を読み始めたことで、著者もアナーキズムに類した活動をしているらしい、と知って読んでみて、実際そうだった。著者のことは名前しか知らず、私には読みにくそうな本と思っていたが、確かに哲学的な部分は難しかったものの(カント、ヘーゲルの名前は知っていても純粋理系の私には無縁だった)、そこは私の関心からやや遠いので、期待したことを理解するのにはそれほど難渋しなかった。質問に対して著者が答える対話式の箇所が多いことも、わかりやすい所以の一つだろう。著者は私より一回りくらい上の世代であり、学生のときに1960年の安保反対運動に参加して社会改革を目指し、その後も様々な形をとりながらその活動を続けている数少ない闘士として認知されているらしい。私が持っていたイメージとそれほど違わなかったが、これまであまり関心がなかったので、このあたりのことは本書で初めて知った。
著者はNAMという略号にこだわっていて、本書の英文タイトルは New Associationist Manifesto だが、元々は New Associationist Movement(運動)だった。アソシエーショニスト運動という言葉自体は著者が作ったようだが、その内容は古くからあるという。「自由かつ平等な社会を実現するための運動」であり、「歴史は長く、内容は多様である。・・現在も存続している」としている。2000年に著者らがNAMという組織を作ったのは「アナーキズムとマルクス主義の総合を、実戦レベルで追求するための試み」で、2年後に組織は解散したが、個人的に細々とNAMの活動を続けている。組織解散後も「NAMの原理」という著者ら言葉の英語版がウェブ上に残っていて、今まで引き続き諸外国から連絡がきているとのことで、世界各地の運動で引用されているらしい。
著者らが考えたNAMは5つのプログラムからなる。NAMは (1) 倫理的 - 経済的な運動である (2) 資本と国家への対抗運動を組織する (3) 「非暴力的」である (4) 組織形態自体において、この運動が実現すべきものを体現する (5) 現実の矛盾を止揚する現実的な運動であり、それは現実的な諸前提から生まれる。
マルクス主義が「生産過程」を中心に据えるのに対して、著者は「交換過程(売買や贈与など)」を重視する。資本主義に立ち向かうには、著者がいう「内在的対抗運動」と「超出的対抗運動」の両方が必要であり、前者は労働運動や消費者運動、選挙その他の政治活動など、資本主義の中で闘うことであるのに対して、後者は消費・生産協同組合や地域通貨など、資本主義的でない経済を作り出すこと、としている。後者は私が以前に読んだマーク・ボイルの無銭経済運動や、平川克美の共有地に通じるものと思われるが、著者は前者、すなわち資本主義内での闘いを否定するものではない。また資本主義だけでなく、国家も捨て去るべきものとして考えることがアナーキズムとなる所以なのだろう。「非暴力的」の意味は「暴力革命」を否定するだけでなく、議会による国家権力の獲得とその行使を志向しないことを指す。(4)で著者が強調するのは、組織のリーダーを選ぶ際には必ず選挙とくじ引きを組み合わせる(選挙で3人に絞って最後はくじ引き)ことにより、代表制の官僚的固定化を阻むことだ。これによりリーダーを輩出するグループの存在を防ぐことができると考えているようだ。(5)は地域での活動が出発点で、それが協同組合や地域通貨に通じる、と私は理解した。
私が一番知りたいこと、すなわちアナーキスト達は、アナーキズムの先にどのような世界が広がると考えているのか、についてはまだ良くわからないが、地に足がついている人たちは、著者のようなローカルな、地道な活動にしか先はない、と考えているらしいことが段々わかってきた気がする。
著者の活動が日本ばかりでなく世界にどれほどの影響を与えているのか、私には全くわからない。しかしそういうことよりも、10代のときに世の中に対して抱いた問題意識を80歳まで変わらず持ち続け、活動し続けたことはレスペクトに値するし、そこに繋がる、大きく変化した世界の分析と自身の活動の点検をしているらしいことは、尋常ではない継続力と思う。
<反延命>主義の時代 安楽死・透析中止・トリアージ ― 2022年09月27日
小松美彦、市野川容孝、堀江宗正編 <現代書館・2021.7.30>
日本では認められていないが、世界では種々の条件をつけながらも少しずつ広がる安楽死。コロナ禍で感染爆発が起きたときのトリアージ。これらは以前から関心があるテーマだったので読み始めたら、数年前に見たNHKのTVドキュメンタリー番組「彼女は安楽死を選んだ」が主要な話題の一つとして取り上げられ、徹底的に批判されているのに驚いた。<反延命>主義という言葉を使ったのは「安楽死の議論を経ずに、延命の差し控え・中止・終了」が提案される状況を示したいことが理由の1つだそうだが、私が期待した安楽死そのものに関する議論は殆どなかった。
東大の人文系教授3人が編者となり、彼らに加えて3人の医者を含む6人の文章(うち1つはインタビュー)および雨宮処凛、障害者で国会議員・木村英子と編者1人による鼎談からなっている。本書は、冒頭にあるように「<反延命>主義、すなわち人生の最終段階において無益な延命治療をおこなうべきではないとするような風潮を、批判的に解明することを目的」とする。読み始めて最初の堀江と小松の文章に反発を感じ、その印象は最後まで読み進めても消えず、怒りさえ覚えた。小松(編者のリーダー格)は上記TV番組に対して、批難ではなく批判としながらも、「捏造や隠蔽といっても過言ではない」とか、番組をナチスの映画に例えて優生思想と断じるなど、強烈な言葉をもって徹底的に貶めている。本書に対して私は同様の言葉を小松に返したい。本書の体裁は医者のコメントを加えることによって一見、バランスを取っているように見えるが、実際は編者らの主張、すなわち安楽死を含む全ての<反延命>を否定するための本、というのが私の読後感である。小松は、番組ディレクターが重要な場面で通訳の存在を隠したとして「隠蔽」という言葉を使っているが、私には通訳本人が番組への参加に同意しなかった可能性も考えられ、ディレクターの意図がどこにあったのかわからない。「捏造」や「隠蔽」という悪意を含む言葉は私にとって批判というより批難と感じるが、その感覚で言えば私のこの文章も批難の部類に入るのかも知れない。
本書のきっかけは公立福生病院における人工透析中止事件であり、相模原やまゆり園の障害者殺人事件も重要なテーマとなっている。どちらも弱者を死に至らしめた事件ということで共通し、私を含めて多くの人は著者らと同じく、弱者の側に立つであろう。また本書は優生思想の広がりを危惧することが主要な動機となっていて、これに対して私も反対する気はない。しかし本書を読む限り、編者らは優生思想に警告を発することだけにこだわり、自らの安楽死を願う人々(私にとっては彼らも弱者)の気持ちに対して全く配慮をしていない。TV番組の主人公・小島さんは日本で安楽死について議論して欲しいとの思いでTV番組に出演したという。それに対して小松は、彼女の考えを優生思想と断じ、彼女への対応として本書に文章を書いたとする。すなわち、議論をして欲しいという小島さんに対する小松の答えは、議論などしない、と読める。はっきりとは書いていないが、以上の文脈から私は、編者たちは全ての<反延命>を否定し、安楽死を一切認めない、と理解した。小松らはそんな主張をしていない、と反論するかも知れない。しかしもしそうなら、「安易」ではない、ぎりぎり許される安楽死はあるのか、あるとすればそれにはどのような状況が必要なのか、に関する編者ら自身の考えを本書に記すべきと私は思う。それも困難ならば最低限、まだわからないが今後議論したい、でもいい。「安楽死の議論を経ずに」うんぬんと言うなら、後述する医師の言葉だけでなく、安楽死に関する編者ら自身の何らかのコメントを載せることが、少なくとも小島さんに対して優生思想という厳しい言葉を浴びせる際の礼儀もしくは義務ではないか、と私は思う。
本書に登場する3人の医師はそれぞれ、トリアージ、生命維持治療(「延命治療」という医学用語はない、と医師は言う。編者はそれに対してコメントしないが。)、最重度の心身障害を持つ小児や緩和ケア児などの代理意思決定、という少しずつ異なる重いテーマで語っているが、共通するのは決して断定的な言い方をしないことだ。トリアージは「多」であって全てを一括りにはできないし、生命維持治療の中止や安楽死を全て否定したりしない(「たとえ、本人が死にたいと言ったからといって、それでいい、とは私は思っていません」というのが医師の言葉である)。真摯に患者に向かう医師は、迷いつつもそれぞれ個別の患者にとっての最善を探す。それに対して編者らは、優生思想につながるからという理由で、安楽死に関する一切の議論をせずに切り捨てているように私には見える。医者の章を設けることで編者らの意図をカムフラージュしていると感じたことが、小松に対する上記の私のコメントになった(正直、私は番組ディレクターや本書の手法を悪いとは思わないが、小松がディレクターを批難するなら貴方も、と言いたいだけだ)。編者の一人が<反延命>を訴える人々を「医療右翼」と呼んだそうだが、私には編者らの考え方も右翼的に見える。安楽死も、夫婦別姓も、同性婚も、皆さんがどうこうではなく、マイノリティである自分たちを認めて欲しいと訴えているのに対して、一切ダメ、とすることを保守的というのではないだろうか。優生思想を阻むという、国民全体の利益と編者らが考える「正義」のためなら多少の犠牲は仕方ない、とさえ読める。まるで沖縄や福島県双葉町に対する国の態度のようだ。
誤解のないように書き加えるが、私も上記医師と同じく、安易に安楽死を肯定するつもりは全くない。小島さんの死に心を動かされたが、それを肯定すべきかどうかもわからない。ただ、肉体的な苦痛は生じなくとも、精神的に絶望的に苦しんでいて、死にたいと念じている全ての人に対して例外なく、絶対ダメ、と大声で主張する気になれないだけだ。小松のTV番組批判は、番組で紹介された、難病にも関わらず延命を希望して生きている患者の娘の言葉「姿があることは、生きてるってことでしょ。姿があるかないかは、私のなかですごくでっかい。」で終わっている。もちろん家族も大事だが、苦しんでいる当事者こそが最も配慮すべき弱者、と私は思う。安楽死を認めつつある西欧の国々でも、苦しんでいる弱者の願いをただ一方的に否定しないために、恐らく多くの議論をしながら、少しずつ法律を変えているのではないのだろうか(翻って日本はいつも「不作為」である)。安楽死について自分で考える材料を期待して本書を開いたが、医者のためらいの言葉は胸に響いたものの、編者らは「門前払い」をしていただけだった。小松が上記TV番組を「非常にいびつな番組」とするなら、同じ意味で本書は、医者の言葉を利用した「いびつな本」と私は思う。
日本における自殺の多さは、他人に迷惑をかけたくない、という日本人に多い考え方も原因の一つと私は考えていて、安楽死を望む人たちについても同様の心理が働いているように思う。自分の意思で何もできず、他人に迷惑をかけるだけの自分に精神的苦痛を感じる人がいて、中にはその苦しみが極端に強く、そういう自分の存在自体にいたたまれなくなる人がいても不思議はない。私は「閉じ込め症候群」というものを知ったとき、自分がそうなることを想像して恐怖に襲われた。TVに出た小島さんの場合、将来確実に自分が動けなくなると判断し、そうなる自分は耐えられない、そうなってからではもう遅いと考えた。もちろん心理は変わり得るから、何かのきっかけで耐えられるようになるかも知れず、様々な方法を使って安楽死を思い留めさせる試みは必要かも知れない。しかしそれでも、全ての人に「ダメ」と誰が言えるだろうか。それを国が「犯罪」としていいものだろうか。本書の中で小児科医の笹月が書いているように、おそらくいつまでたっても、どう議論してもそう簡単に「答え」は出てこない。しかしだからといって、苦痛に苛まれている人を放置して、不作為のままでいいのだろうか。(少しでも認めれば自死を、夫婦別姓の場合は家庭の崩壊を、同性婚では同性愛を、助長することになる、という保守派の常套句が聞こえてきそうだ。)ここでは触れなかったが、肉体的苦痛から安楽死を希望する人に対しても、もちろん同じ議論ができるだろう。
本書の鼎談の中に相模原障害者殺人事件・植松被告の死刑が言及されているが、国による暴力的な死の押し付けという意味では死刑こそが大問題であり、多くの先進国では死刑廃止になっているのに対して日本では広い議論さえない。犯罪者の中には経済的だけでなく、小児期の虐待やDVの被害者など多くの弱者がいる、と私は考えていて、死刑制度も弱者切り捨ての一つと思う。編者らは死刑廃止も訴えているのだろうか、あるいは専門分野が異なるから関わらないのだろうか? (犯罪者に対する他の刑罰制度も同じと思うが、それは別の読書メモで)
日本では認められていないが、世界では種々の条件をつけながらも少しずつ広がる安楽死。コロナ禍で感染爆発が起きたときのトリアージ。これらは以前から関心があるテーマだったので読み始めたら、数年前に見たNHKのTVドキュメンタリー番組「彼女は安楽死を選んだ」が主要な話題の一つとして取り上げられ、徹底的に批判されているのに驚いた。<反延命>主義という言葉を使ったのは「安楽死の議論を経ずに、延命の差し控え・中止・終了」が提案される状況を示したいことが理由の1つだそうだが、私が期待した安楽死そのものに関する議論は殆どなかった。
東大の人文系教授3人が編者となり、彼らに加えて3人の医者を含む6人の文章(うち1つはインタビュー)および雨宮処凛、障害者で国会議員・木村英子と編者1人による鼎談からなっている。本書は、冒頭にあるように「<反延命>主義、すなわち人生の最終段階において無益な延命治療をおこなうべきではないとするような風潮を、批判的に解明することを目的」とする。読み始めて最初の堀江と小松の文章に反発を感じ、その印象は最後まで読み進めても消えず、怒りさえ覚えた。小松(編者のリーダー格)は上記TV番組に対して、批難ではなく批判としながらも、「捏造や隠蔽といっても過言ではない」とか、番組をナチスの映画に例えて優生思想と断じるなど、強烈な言葉をもって徹底的に貶めている。本書に対して私は同様の言葉を小松に返したい。本書の体裁は医者のコメントを加えることによって一見、バランスを取っているように見えるが、実際は編者らの主張、すなわち安楽死を含む全ての<反延命>を否定するための本、というのが私の読後感である。小松は、番組ディレクターが重要な場面で通訳の存在を隠したとして「隠蔽」という言葉を使っているが、私には通訳本人が番組への参加に同意しなかった可能性も考えられ、ディレクターの意図がどこにあったのかわからない。「捏造」や「隠蔽」という悪意を含む言葉は私にとって批判というより批難と感じるが、その感覚で言えば私のこの文章も批難の部類に入るのかも知れない。
本書のきっかけは公立福生病院における人工透析中止事件であり、相模原やまゆり園の障害者殺人事件も重要なテーマとなっている。どちらも弱者を死に至らしめた事件ということで共通し、私を含めて多くの人は著者らと同じく、弱者の側に立つであろう。また本書は優生思想の広がりを危惧することが主要な動機となっていて、これに対して私も反対する気はない。しかし本書を読む限り、編者らは優生思想に警告を発することだけにこだわり、自らの安楽死を願う人々(私にとっては彼らも弱者)の気持ちに対して全く配慮をしていない。TV番組の主人公・小島さんは日本で安楽死について議論して欲しいとの思いでTV番組に出演したという。それに対して小松は、彼女の考えを優生思想と断じ、彼女への対応として本書に文章を書いたとする。すなわち、議論をして欲しいという小島さんに対する小松の答えは、議論などしない、と読める。はっきりとは書いていないが、以上の文脈から私は、編者たちは全ての<反延命>を否定し、安楽死を一切認めない、と理解した。小松らはそんな主張をしていない、と反論するかも知れない。しかしもしそうなら、「安易」ではない、ぎりぎり許される安楽死はあるのか、あるとすればそれにはどのような状況が必要なのか、に関する編者ら自身の考えを本書に記すべきと私は思う。それも困難ならば最低限、まだわからないが今後議論したい、でもいい。「安楽死の議論を経ずに」うんぬんと言うなら、後述する医師の言葉だけでなく、安楽死に関する編者ら自身の何らかのコメントを載せることが、少なくとも小島さんに対して優生思想という厳しい言葉を浴びせる際の礼儀もしくは義務ではないか、と私は思う。
本書に登場する3人の医師はそれぞれ、トリアージ、生命維持治療(「延命治療」という医学用語はない、と医師は言う。編者はそれに対してコメントしないが。)、最重度の心身障害を持つ小児や緩和ケア児などの代理意思決定、という少しずつ異なる重いテーマで語っているが、共通するのは決して断定的な言い方をしないことだ。トリアージは「多」であって全てを一括りにはできないし、生命維持治療の中止や安楽死を全て否定したりしない(「たとえ、本人が死にたいと言ったからといって、それでいい、とは私は思っていません」というのが医師の言葉である)。真摯に患者に向かう医師は、迷いつつもそれぞれ個別の患者にとっての最善を探す。それに対して編者らは、優生思想につながるからという理由で、安楽死に関する一切の議論をせずに切り捨てているように私には見える。医者の章を設けることで編者らの意図をカムフラージュしていると感じたことが、小松に対する上記の私のコメントになった(正直、私は番組ディレクターや本書の手法を悪いとは思わないが、小松がディレクターを批難するなら貴方も、と言いたいだけだ)。編者の一人が<反延命>を訴える人々を「医療右翼」と呼んだそうだが、私には編者らの考え方も右翼的に見える。安楽死も、夫婦別姓も、同性婚も、皆さんがどうこうではなく、マイノリティである自分たちを認めて欲しいと訴えているのに対して、一切ダメ、とすることを保守的というのではないだろうか。優生思想を阻むという、国民全体の利益と編者らが考える「正義」のためなら多少の犠牲は仕方ない、とさえ読める。まるで沖縄や福島県双葉町に対する国の態度のようだ。
誤解のないように書き加えるが、私も上記医師と同じく、安易に安楽死を肯定するつもりは全くない。小島さんの死に心を動かされたが、それを肯定すべきかどうかもわからない。ただ、肉体的な苦痛は生じなくとも、精神的に絶望的に苦しんでいて、死にたいと念じている全ての人に対して例外なく、絶対ダメ、と大声で主張する気になれないだけだ。小松のTV番組批判は、番組で紹介された、難病にも関わらず延命を希望して生きている患者の娘の言葉「姿があることは、生きてるってことでしょ。姿があるかないかは、私のなかですごくでっかい。」で終わっている。もちろん家族も大事だが、苦しんでいる当事者こそが最も配慮すべき弱者、と私は思う。安楽死を認めつつある西欧の国々でも、苦しんでいる弱者の願いをただ一方的に否定しないために、恐らく多くの議論をしながら、少しずつ法律を変えているのではないのだろうか(翻って日本はいつも「不作為」である)。安楽死について自分で考える材料を期待して本書を開いたが、医者のためらいの言葉は胸に響いたものの、編者らは「門前払い」をしていただけだった。小松が上記TV番組を「非常にいびつな番組」とするなら、同じ意味で本書は、医者の言葉を利用した「いびつな本」と私は思う。
日本における自殺の多さは、他人に迷惑をかけたくない、という日本人に多い考え方も原因の一つと私は考えていて、安楽死を望む人たちについても同様の心理が働いているように思う。自分の意思で何もできず、他人に迷惑をかけるだけの自分に精神的苦痛を感じる人がいて、中にはその苦しみが極端に強く、そういう自分の存在自体にいたたまれなくなる人がいても不思議はない。私は「閉じ込め症候群」というものを知ったとき、自分がそうなることを想像して恐怖に襲われた。TVに出た小島さんの場合、将来確実に自分が動けなくなると判断し、そうなる自分は耐えられない、そうなってからではもう遅いと考えた。もちろん心理は変わり得るから、何かのきっかけで耐えられるようになるかも知れず、様々な方法を使って安楽死を思い留めさせる試みは必要かも知れない。しかしそれでも、全ての人に「ダメ」と誰が言えるだろうか。それを国が「犯罪」としていいものだろうか。本書の中で小児科医の笹月が書いているように、おそらくいつまでたっても、どう議論してもそう簡単に「答え」は出てこない。しかしだからといって、苦痛に苛まれている人を放置して、不作為のままでいいのだろうか。(少しでも認めれば自死を、夫婦別姓の場合は家庭の崩壊を、同性婚では同性愛を、助長することになる、という保守派の常套句が聞こえてきそうだ。)ここでは触れなかったが、肉体的苦痛から安楽死を希望する人に対しても、もちろん同じ議論ができるだろう。
本書の鼎談の中に相模原障害者殺人事件・植松被告の死刑が言及されているが、国による暴力的な死の押し付けという意味では死刑こそが大問題であり、多くの先進国では死刑廃止になっているのに対して日本では広い議論さえない。犯罪者の中には経済的だけでなく、小児期の虐待やDVの被害者など多くの弱者がいる、と私は考えていて、死刑制度も弱者切り捨ての一つと思う。編者らは死刑廃止も訴えているのだろうか、あるいは専門分野が異なるから関わらないのだろうか? (犯罪者に対する他の刑罰制度も同じと思うが、それは別の読書メモで)
政治学者、PTA会長になる ― 2022年09月24日
岡田憲治 <毎日新聞出版・2022.2.25>
本書ができるきっかけとなった5日連続の新聞記事を面白く読んでいたので、出版を知って手にするのを心待ちにしていた。PTA自体というより、政治学者が地域活動にどう関わるかへの関心の方が強かったが、読んでみて、期待通りの内容で大満足の読書となった。
著者は大学教授でバリバリの研究者。遅くにできた子どもを育てることに積極的に関わり、小学1年生のときから学校のサッカースクールのボランティア、2年からは夫婦でPTAに参加していたという。その流れから、小学校のPTA会長を依頼され、当初は忙しくて無理、と断り続けたようだが、結局は引き受けることになった。本書は会長選出前のやりとりに始まって、結果的に3年勤めた任期を終えるまでに、著者が体験し、考えたことをまとめてあるのだが、PTAに限らず他の任意団体(例えば地域の自治会)と共通する点が多々あり、参考になることが多いと思った。また著者のスタンスが最初は上から目線と感じたが、PTA運営を継続してきた主婦たちと向き合い、後半では彼女らの立場になって考えるという態度に好感が持てた。それは著者がPTA会長候補となったとき、「ママたちと3時間立ち話ができる」という、ほとんどのパパが絶対にできないことができる珍種、と評された姿勢からくるのだろう。
著者の住む地区は東京・世田谷区の東端(都心側)。小学生の保護者の圧倒的多数はオフィス・ワーカーで、女性も7割近くがフルタイムで働いている。それまでの当該PTAは主婦達によって運営され、古くからの慣習がそのまま残っていて、著者から見るととんでもなく非効率で、無用(と著者が思う)な「仕事」が平日の日中に入って来る。しかしママたちはそれらに不満を感じつつも前例を絶対視し、それを踏襲しないと不安になる。著者はこれに対して憤慨し、大ナタを振るおうとしたために多くの人から猛反発をくらったが、ママたちが最も嫌がっていた「お月見会(町長老の接待)」を廃止したことなどによって次第に信用を得て、具体的な事例は省くが、少しずつ著者が考える改革を実現することができた、というのが全体の流れである。
しかし著者は、古いやり方を守ってきたママたち、すなわち「これまで地域のために子供たちのために頑張ってきた。そこで友情も生まれた。それは自分にとってかけがえのないものだし、そういうやり方で地域を生きることが間違っているとは思えない」と考えている人たちには最後まで考えが伝わらなかった、という。著者はそのことを自分サイドの責任と感じているようで、彼らへの配慮が足りなかったとして、もっと彼らの活動へのリスペクトを示しつつ変革に取り組んでいっていれば、と振り返っている。任期の3年目はコロナ禍に逢って活動は大幅に縮小せざるを得なくなり、改革も道半ばではあったが、相棒の会長補佐(干支一周年下の男性)とともに道筋は作った、との満足感は得られたようだ。
本書の巻末には(著者のブログにもある)、PTA 「思い出そう10のこと」を載せている。
1、PTAは、自発的に作られた「任意団体」です。・・・強制があってはなりません。
2、PTAは、加入していない家庭の子供を差別しません。・・・企業ではないからです。
3、PTAに人が集まらないなら、集まった人たちでできることをするだけです。
4、PTAがするのは、「労働」ではありません。・・・対価のないボランティア「活動」です。
5、PTAのボランティア活動は、もともと不平等なものです。・・・でも「幸福な不平等」です。
6、PTA活動は、ダメ出しをされません。・・・評価はたったひとつ 「ありがとう」 です。
7、PTA活動は、生活の延長にあります。・・・家庭を犠牲にする必要はありません。
8、PTA活動は、あまり頑張り過ぎてはいけません。・・・前例となって「労働」を増やします。
9、PTAは、学校を応援しますが指導はされません。・・・学校と保護者は対等です。
10、PTAの義務は一つだけです。・・・「何のためのPTA?」 と考え続けることです。
この姿勢は地域の活動にもそのまま当てはまるもので、良くまとめられていると思った。参考にしたい。
本書ができるきっかけとなった5日連続の新聞記事を面白く読んでいたので、出版を知って手にするのを心待ちにしていた。PTA自体というより、政治学者が地域活動にどう関わるかへの関心の方が強かったが、読んでみて、期待通りの内容で大満足の読書となった。
著者は大学教授でバリバリの研究者。遅くにできた子どもを育てることに積極的に関わり、小学1年生のときから学校のサッカースクールのボランティア、2年からは夫婦でPTAに参加していたという。その流れから、小学校のPTA会長を依頼され、当初は忙しくて無理、と断り続けたようだが、結局は引き受けることになった。本書は会長選出前のやりとりに始まって、結果的に3年勤めた任期を終えるまでに、著者が体験し、考えたことをまとめてあるのだが、PTAに限らず他の任意団体(例えば地域の自治会)と共通する点が多々あり、参考になることが多いと思った。また著者のスタンスが最初は上から目線と感じたが、PTA運営を継続してきた主婦たちと向き合い、後半では彼女らの立場になって考えるという態度に好感が持てた。それは著者がPTA会長候補となったとき、「ママたちと3時間立ち話ができる」という、ほとんどのパパが絶対にできないことができる珍種、と評された姿勢からくるのだろう。
著者の住む地区は東京・世田谷区の東端(都心側)。小学生の保護者の圧倒的多数はオフィス・ワーカーで、女性も7割近くがフルタイムで働いている。それまでの当該PTAは主婦達によって運営され、古くからの慣習がそのまま残っていて、著者から見るととんでもなく非効率で、無用(と著者が思う)な「仕事」が平日の日中に入って来る。しかしママたちはそれらに不満を感じつつも前例を絶対視し、それを踏襲しないと不安になる。著者はこれに対して憤慨し、大ナタを振るおうとしたために多くの人から猛反発をくらったが、ママたちが最も嫌がっていた「お月見会(町長老の接待)」を廃止したことなどによって次第に信用を得て、具体的な事例は省くが、少しずつ著者が考える改革を実現することができた、というのが全体の流れである。
しかし著者は、古いやり方を守ってきたママたち、すなわち「これまで地域のために子供たちのために頑張ってきた。そこで友情も生まれた。それは自分にとってかけがえのないものだし、そういうやり方で地域を生きることが間違っているとは思えない」と考えている人たちには最後まで考えが伝わらなかった、という。著者はそのことを自分サイドの責任と感じているようで、彼らへの配慮が足りなかったとして、もっと彼らの活動へのリスペクトを示しつつ変革に取り組んでいっていれば、と振り返っている。任期の3年目はコロナ禍に逢って活動は大幅に縮小せざるを得なくなり、改革も道半ばではあったが、相棒の会長補佐(干支一周年下の男性)とともに道筋は作った、との満足感は得られたようだ。
本書の巻末には(著者のブログにもある)、PTA 「思い出そう10のこと」を載せている。
1、PTAは、自発的に作られた「任意団体」です。・・・強制があってはなりません。
2、PTAは、加入していない家庭の子供を差別しません。・・・企業ではないからです。
3、PTAに人が集まらないなら、集まった人たちでできることをするだけです。
4、PTAがするのは、「労働」ではありません。・・・対価のないボランティア「活動」です。
5、PTAのボランティア活動は、もともと不平等なものです。・・・でも「幸福な不平等」です。
6、PTA活動は、ダメ出しをされません。・・・評価はたったひとつ 「ありがとう」 です。
7、PTA活動は、生活の延長にあります。・・・家庭を犠牲にする必要はありません。
8、PTA活動は、あまり頑張り過ぎてはいけません。・・・前例となって「労働」を増やします。
9、PTAは、学校を応援しますが指導はされません。・・・学校と保護者は対等です。
10、PTAの義務は一つだけです。・・・「何のためのPTA?」 と考え続けることです。
この姿勢は地域の活動にもそのまま当てはまるもので、良くまとめられていると思った。参考にしたい。
多様性の科学 画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織 ― 2022年09月17日
マシュー・サイド (特定の訳者なし)<ディスカヴァー・トゥエンティワン・2021.6.25>
アマゾンのベストセラーNo.1という広告が目にとまり読んでみた。著者はオックスフォード大首席卒業、オリンピックに2回出場した卓球全英チャンピオンで、英「タイムズ」紙のコラムニスト、ライターというから、いくつもの才能に恵まれた人なのだろう。読み終えて、値段がそれほど高くないこともあるだろうが、構成、文章ともにわかりやすく、内容的にベストセラーになって不思議はないと思った。
テーマは「文化がヒトを進化させた」のヘンリックとも共通し、ヒトの賢さは多くの頭脳が集まるからこそ発揮されるという話で、そのためには集団内の多様性が重要ということ。生物にとって多様性は不可欠であり、進化には多様な遺伝子プールが必要だし、感染症など微生物による攻撃や、環境の大きな変化に対して種が生き延びるために多様性は必須であるが、本書ではヒト集団の知性においても多様性が重要で、それは遺伝的だけでなく、文化や習慣、宗教などの面でも多様であることが集団全体としての知性を発揮するのに役立つとしている。ヘンリックらの研究のポイントは歴史を踏まえた集団脳であり、主要な文献として本書でも度々引用されているが、ここでは同時的な集団脳(=集合知)がテーマとなっている。
メンバー全員が非常に優秀であっても多様性が低い画一的な集団は、皆が似たような考え方や視点になるため、複雑なタスクを対象とする場合、優秀さでは劣っているが多様な人々で構成される集団よりも全体としての知性は低くなる。様々な角度から検討することができにくいから、盲点ができやすい、ということだ。アメリカCIAのスタッフは極めて高い割合でWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)が占めていたため、ムスリムの知性や感性を理解できず、9.11同時多発テロの予兆を見逃したと言われている。CIAは職員採用基準を「賢さ」だけにしていただけで、マイノリティを排除しようとしたわけではないらしいが、結果として均一性の高い集団になってしまった。また単に多様性があるだけではダメで、ヒエラルキーの高いメンバーに対して下位者が反対意見を言いやすい状況が重要としていて、実際の現場を考えると充分に納得できた。さらに興味深いのは、イノベーションとは異なる分野の知識の融合があって起きるものであり、メンバーの賢さよりも社交性(異文化交流を起こす)が重要であるという。本書の原題は Rebel Ideas(反逆者のアイディア)。1人の知性には限界があるので、それを乗り越えるには「反逆者」あるいは「第三者のマインドセット」が必要であり、その積み重ねがホモ・サピエンス(賢い人)ということなのだろう。
本書最後の方の「平均値の落とし穴」はやや意外な、私としては若干疑問が残る内容だった。全ての疫学研究は物事を統計的にみるため、その結果を個人に応用するときは(対象を分類分けするにしても)平均値に頼らざるを得ない。たとえば血糖値コントロールのために適切な食事は、統計学的手法を用いて平均値として表された結果から提唱されている。しかし本書で紹介する研究では、血糖値に対する様々な食事の影響を各個人について分析してみると結果はバラバラで非常に個人差が大きいため(遺伝的だけでなく腸内細菌の違いなど)、標準的な食事療法は血糖値コントロールに全く役に立たないように記されている。具体的な研究結果は知らないが、意外ではあったものの不思議ではないし、興味深いと思う。本書では「個人にカスタマイズした食事療法が確立されるのは、まだまだ先の話だろう」とし、「今では患者さん自身に血糖値を測るよう勧めています。そうすれば自分の体に合う食事を見つけられますから」という研究者の言葉を引用している。医療の世界における「個別化」と同じ話と思うが、栄養学の世界では治験と同じレベルの緻密な研究は求められていないだろうから、その精度が医療より低いことは否めない。しかし、全ての人が自分でカスタマイズできるわけではないだろうし、本書の主張は、栄養士の指導をそのまま信用するな、ということになるのだろうか。
アマゾンのベストセラーNo.1という広告が目にとまり読んでみた。著者はオックスフォード大首席卒業、オリンピックに2回出場した卓球全英チャンピオンで、英「タイムズ」紙のコラムニスト、ライターというから、いくつもの才能に恵まれた人なのだろう。読み終えて、値段がそれほど高くないこともあるだろうが、構成、文章ともにわかりやすく、内容的にベストセラーになって不思議はないと思った。
テーマは「文化がヒトを進化させた」のヘンリックとも共通し、ヒトの賢さは多くの頭脳が集まるからこそ発揮されるという話で、そのためには集団内の多様性が重要ということ。生物にとって多様性は不可欠であり、進化には多様な遺伝子プールが必要だし、感染症など微生物による攻撃や、環境の大きな変化に対して種が生き延びるために多様性は必須であるが、本書ではヒト集団の知性においても多様性が重要で、それは遺伝的だけでなく、文化や習慣、宗教などの面でも多様であることが集団全体としての知性を発揮するのに役立つとしている。ヘンリックらの研究のポイントは歴史を踏まえた集団脳であり、主要な文献として本書でも度々引用されているが、ここでは同時的な集団脳(=集合知)がテーマとなっている。
メンバー全員が非常に優秀であっても多様性が低い画一的な集団は、皆が似たような考え方や視点になるため、複雑なタスクを対象とする場合、優秀さでは劣っているが多様な人々で構成される集団よりも全体としての知性は低くなる。様々な角度から検討することができにくいから、盲点ができやすい、ということだ。アメリカCIAのスタッフは極めて高い割合でWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)が占めていたため、ムスリムの知性や感性を理解できず、9.11同時多発テロの予兆を見逃したと言われている。CIAは職員採用基準を「賢さ」だけにしていただけで、マイノリティを排除しようとしたわけではないらしいが、結果として均一性の高い集団になってしまった。また単に多様性があるだけではダメで、ヒエラルキーの高いメンバーに対して下位者が反対意見を言いやすい状況が重要としていて、実際の現場を考えると充分に納得できた。さらに興味深いのは、イノベーションとは異なる分野の知識の融合があって起きるものであり、メンバーの賢さよりも社交性(異文化交流を起こす)が重要であるという。本書の原題は Rebel Ideas(反逆者のアイディア)。1人の知性には限界があるので、それを乗り越えるには「反逆者」あるいは「第三者のマインドセット」が必要であり、その積み重ねがホモ・サピエンス(賢い人)ということなのだろう。
本書最後の方の「平均値の落とし穴」はやや意外な、私としては若干疑問が残る内容だった。全ての疫学研究は物事を統計的にみるため、その結果を個人に応用するときは(対象を分類分けするにしても)平均値に頼らざるを得ない。たとえば血糖値コントロールのために適切な食事は、統計学的手法を用いて平均値として表された結果から提唱されている。しかし本書で紹介する研究では、血糖値に対する様々な食事の影響を各個人について分析してみると結果はバラバラで非常に個人差が大きいため(遺伝的だけでなく腸内細菌の違いなど)、標準的な食事療法は血糖値コントロールに全く役に立たないように記されている。具体的な研究結果は知らないが、意外ではあったものの不思議ではないし、興味深いと思う。本書では「個人にカスタマイズした食事療法が確立されるのは、まだまだ先の話だろう」とし、「今では患者さん自身に血糖値を測るよう勧めています。そうすれば自分の体に合う食事を見つけられますから」という研究者の言葉を引用している。医療の世界における「個別化」と同じ話と思うが、栄養学の世界では治験と同じレベルの緻密な研究は求められていないだろうから、その精度が医療より低いことは否めない。しかし、全ての人が自分でカスタマイズできるわけではないだろうし、本書の主張は、栄養士の指導をそのまま信用するな、ということになるのだろうか。
プリズン・サークル ― 2022年09月16日
坂上 香 <岩波書店・2022.3.24>
ブレイディみかこの本で同名のドキュメンタリー映画(2020年1月公開)の存在を知ってから、ずっと見たいと思っていたが、なかなか機会がなく、監督が書いたという本書が出版されたのでこちらから先に読んでみた。映画の方は日本の刑務所の中での撮影ということで極めて制約が多かったため、映像として残せなかった出来事や撮影終了後の話などがあり、充分に読み応えのある本になっていた。とは言えやはり映像がないと主人公の訓練生(受刑者)4人のイメージがつかみにくく、どうしても隔靴掻痒の感があって、結局は映画を見てから再度読むことになりそうだ。
著者は以前にアメリカの刑務所や社会復帰施設における更生プログラムの映画「ライファーズ(Lifers, 終身刑もしくは無期刑受刑者のこと)」(2004年公開)を作ったことがあり、犯罪者の更生に関心のある人には有名だったようだが、私は全く知らなかった。ブレイディみかこの紹介で知ったあと、「言葉を失ったあとで」の信田と上間の対談でも触れられ、さらに現在、坂上自身が毎日新聞にアメリカの受刑者に関する連載を書いているので、益々、興味をそそられた。
映画「プリズン・サークル」は、日本にできた4つのPFI(Private Finance Initiative)刑務所の一つ「島根あさひ社会復帰促進センター」で行われているTC(Therapeutic Community = 回復共同体)ユニットを取材した映画である。TCはアメリカの一部で行われている更生プログラムで、受刑者の人権を尊重して対話を重視し、再犯防止とともに出所後の生活回復に有効とされているという。ちなみに「サークル」は、この会話が椅子を丸く並べる円座を表し、本書の表紙にも描かれている。著者曰く、TCが日本で実現するとは信じられない(日本の刑務所は世界でもかなり遅れているので)ことだったそうだが、「島根あさひ」では受刑者(このセンターでは訓練生と呼ばれる)や支援者(専門家である民間の職員)を含んだコミュニティが確かに存在し、信頼関係を伴った会話が成立している。職員が訓練生をさん付けで呼びかけることに、著者は大変驚いている。さらに出所後も、これも通常の刑務所では考えられないことだそうだが、一部の元受刑者は支援者たちを含めた「コミュニティ」を保ち、そこには元受刑者の家族も参加したとの話がエピローグに出てくる。さらには出所者と地域住民との交流まで行われたそうだ。どれほどの割合かわからないが、TCユニットは少なくとも一部の元受刑者のその後の人生に大きな影響を与えている。本書では、映画で主人公として取り上げた4人を中心に、その他数人の訓練生の変化(回復)が記されている。TCは日本全体の受刑者、約4万人のうちのたった40人、0.1% が参加しただけではあるが、第一歩としては素晴らしい試みに思えた。。
犯罪者の結構な割合の人が幼少期からの虐待やDVなどの被害者であることは、多くの本やメディアが伝えるところであり、犯罪を全て自己責任として本人に押し付けるのは、あまりに不公平であるように思う。また社会にとっても、少しでも多くの出所者が社会の一員として活躍する方が、日陰者として一生を終えるより好ましいはずだ。この映画の撮影後、TCユニットは停滞(後退?)しているようであるが、何とか続けて欲しいと思う。早く映画を見てみたい。
ブレイディみかこの本で同名のドキュメンタリー映画(2020年1月公開)の存在を知ってから、ずっと見たいと思っていたが、なかなか機会がなく、監督が書いたという本書が出版されたのでこちらから先に読んでみた。映画の方は日本の刑務所の中での撮影ということで極めて制約が多かったため、映像として残せなかった出来事や撮影終了後の話などがあり、充分に読み応えのある本になっていた。とは言えやはり映像がないと主人公の訓練生(受刑者)4人のイメージがつかみにくく、どうしても隔靴掻痒の感があって、結局は映画を見てから再度読むことになりそうだ。
著者は以前にアメリカの刑務所や社会復帰施設における更生プログラムの映画「ライファーズ(Lifers, 終身刑もしくは無期刑受刑者のこと)」(2004年公開)を作ったことがあり、犯罪者の更生に関心のある人には有名だったようだが、私は全く知らなかった。ブレイディみかこの紹介で知ったあと、「言葉を失ったあとで」の信田と上間の対談でも触れられ、さらに現在、坂上自身が毎日新聞にアメリカの受刑者に関する連載を書いているので、益々、興味をそそられた。
映画「プリズン・サークル」は、日本にできた4つのPFI(Private Finance Initiative)刑務所の一つ「島根あさひ社会復帰促進センター」で行われているTC(Therapeutic Community = 回復共同体)ユニットを取材した映画である。TCはアメリカの一部で行われている更生プログラムで、受刑者の人権を尊重して対話を重視し、再犯防止とともに出所後の生活回復に有効とされているという。ちなみに「サークル」は、この会話が椅子を丸く並べる円座を表し、本書の表紙にも描かれている。著者曰く、TCが日本で実現するとは信じられない(日本の刑務所は世界でもかなり遅れているので)ことだったそうだが、「島根あさひ」では受刑者(このセンターでは訓練生と呼ばれる)や支援者(専門家である民間の職員)を含んだコミュニティが確かに存在し、信頼関係を伴った会話が成立している。職員が訓練生をさん付けで呼びかけることに、著者は大変驚いている。さらに出所後も、これも通常の刑務所では考えられないことだそうだが、一部の元受刑者は支援者たちを含めた「コミュニティ」を保ち、そこには元受刑者の家族も参加したとの話がエピローグに出てくる。さらには出所者と地域住民との交流まで行われたそうだ。どれほどの割合かわからないが、TCユニットは少なくとも一部の元受刑者のその後の人生に大きな影響を与えている。本書では、映画で主人公として取り上げた4人を中心に、その他数人の訓練生の変化(回復)が記されている。TCは日本全体の受刑者、約4万人のうちのたった40人、0.1% が参加しただけではあるが、第一歩としては素晴らしい試みに思えた。。
犯罪者の結構な割合の人が幼少期からの虐待やDVなどの被害者であることは、多くの本やメディアが伝えるところであり、犯罪を全て自己責任として本人に押し付けるのは、あまりに不公平であるように思う。また社会にとっても、少しでも多くの出所者が社会の一員として活躍する方が、日陰者として一生を終えるより好ましいはずだ。この映画の撮影後、TCユニットは停滞(後退?)しているようであるが、何とか続けて欲しいと思う。早く映画を見てみたい。
ほくはテクノロジーを使わずに生きることにした ― 2022年09月03日
マーク・ボイル (吉田奈緒子訳)<紀伊国屋書店・2021.11.27>
日本では、著者の最初の本「ほくはお金を使わずに生きることにした」からちょうど10年後の国際無買デーに本書が発行された。表紙の写真でも、著者が若者からおじさんになって年月を感じさせる。訳者あとがきによれば、著者の「カネなし生活」は結局3年近く続き、その後、著書の印税によって故国アイルランドに、5年間無人だった12,000 m2の農場を購入して、仲間とともに移住。誰もが無銭経済(ローカルな贈与経済)を体験できる場所作りを始めたという。
著者は20代から動物の権利運動にも関わるビーガン(卵や乳製品も摂らない徹底した菜食主義者)だったが、植物性タンパク質を摂るために輸入品の豆類などの外国産食品に頼ることに疑問を感じ、代わりに自分で釣った魚や交通事故で死んだシカを食べるようになって、より自然に近い、昔ながらの生活になった。それをさらに徹底させたのが、本書でいうテクノロジーを使わない生活で、太陽光発電もせずにパソコンや携帯電話も含めた一切の電気製品を使わず、農耕や土木の作業でも頼るのは人力だけ、としたようだ。また、カネなし生活のときは拾ったライターでストーブを点火したが、今は自力で火を起こしている。親に会うための数百キロの移動ではヒッチハイクしたが、20世紀半ばまで自給自足生活が営まれていたというイングランドの離島に行ったときは、親切なドライバーの誘いを断って全て歩いた。本書には、使わないようにしたというテクノロジーの明確な定義が書かれていないが、産業革命以前の生活なのかも知れない。但し自転車は使っている(19世紀に誕生したらしい)。本書の発行にあたり、タイプ印刷が必要なことは納得し、そのために短期間だけテクノロジーを使うことにして自分でタイプ(パソコン入力?)したそうだ。カネなし生活は当初から期間限定のつもりだったが、今回の場合は本書を読む限り、今のところずっと続けるつもりなのかも知れない。
環境を破壊する現代のテクノロジー全盛時代に異議を唱え、地球上の全生物との共生を願う著者が、自ら実践しようとするその徹底ぶりには驚嘆するが、全テクノロジーを否定することが「地球にやさしい」のかという疑問もあるし、環境保全の意識はそれなりに高いつもりでいる私が本書を読んでも、自分の行動にいささかの影響も与えられなかった気がする。本書の原題はThe Way Home(家へ帰る道)。著者は「原始人になる」ことにしっくりこないというが、原題を見ると方向性としては単にアイルランドに戻るというだけでなく、昔のアイルランドの生活へ、ということなのだろう。つい、何と酔狂な人がいるもんだ、と思ってしまうが、著者と同じ体験ができる施設を作り、訪れる人に無料で解放しているので(巻末にその際の心得が載っている)、実験的な試みとして有意義なのかも知れない。イギリスのTVドキュメンタリーで取り上げられたというから、それなりに注目もされているのだろう。
日本では、著者の最初の本「ほくはお金を使わずに生きることにした」からちょうど10年後の国際無買デーに本書が発行された。表紙の写真でも、著者が若者からおじさんになって年月を感じさせる。訳者あとがきによれば、著者の「カネなし生活」は結局3年近く続き、その後、著書の印税によって故国アイルランドに、5年間無人だった12,000 m2の農場を購入して、仲間とともに移住。誰もが無銭経済(ローカルな贈与経済)を体験できる場所作りを始めたという。
著者は20代から動物の権利運動にも関わるビーガン(卵や乳製品も摂らない徹底した菜食主義者)だったが、植物性タンパク質を摂るために輸入品の豆類などの外国産食品に頼ることに疑問を感じ、代わりに自分で釣った魚や交通事故で死んだシカを食べるようになって、より自然に近い、昔ながらの生活になった。それをさらに徹底させたのが、本書でいうテクノロジーを使わない生活で、太陽光発電もせずにパソコンや携帯電話も含めた一切の電気製品を使わず、農耕や土木の作業でも頼るのは人力だけ、としたようだ。また、カネなし生活のときは拾ったライターでストーブを点火したが、今は自力で火を起こしている。親に会うための数百キロの移動ではヒッチハイクしたが、20世紀半ばまで自給自足生活が営まれていたというイングランドの離島に行ったときは、親切なドライバーの誘いを断って全て歩いた。本書には、使わないようにしたというテクノロジーの明確な定義が書かれていないが、産業革命以前の生活なのかも知れない。但し自転車は使っている(19世紀に誕生したらしい)。本書の発行にあたり、タイプ印刷が必要なことは納得し、そのために短期間だけテクノロジーを使うことにして自分でタイプ(パソコン入力?)したそうだ。カネなし生活は当初から期間限定のつもりだったが、今回の場合は本書を読む限り、今のところずっと続けるつもりなのかも知れない。
環境を破壊する現代のテクノロジー全盛時代に異議を唱え、地球上の全生物との共生を願う著者が、自ら実践しようとするその徹底ぶりには驚嘆するが、全テクノロジーを否定することが「地球にやさしい」のかという疑問もあるし、環境保全の意識はそれなりに高いつもりでいる私が本書を読んでも、自分の行動にいささかの影響も与えられなかった気がする。本書の原題はThe Way Home(家へ帰る道)。著者は「原始人になる」ことにしっくりこないというが、原題を見ると方向性としては単にアイルランドに戻るというだけでなく、昔のアイルランドの生活へ、ということなのだろう。つい、何と酔狂な人がいるもんだ、と思ってしまうが、著者と同じ体験ができる施設を作り、訪れる人に無料で解放しているので(巻末にその際の心得が載っている)、実験的な試みとして有意義なのかも知れない。イギリスのTVドキュメンタリーで取り上げられたというから、それなりに注目もされているのだろう。
共有地をつくる わたしの「実践私有批判」 ― 2022年09月01日
平川克美 <ミシマ社・2022.2.20>
イギリスのコモンズに類するものの話かな、と思ったことと、これまで著者の本を何冊か読んでそれなりに良い印象があったので読んでみた。
マーク・ボイルの次にこの本を手に取ったのは偶然だったが、両者の方向性は基本的に同じで、ボイルの方が30歳ほど若いが、彼が懐かしむアイルランドの田舎と、本書の著者が思い出す、戦後の東京・蒲田の工業地帯は良く似ている。かつてはどちらも地域の結びつきが強く、隣近所でいろんなものを融通しあうのが当たり前だったが、経済成長によって大きく変わってしまった社会である。ボイルの父は無償で地域の人の自転車修理をしていたし、著者の父は町工場の親方で、早くからテレビがあった自宅にはいろんな人が見にきた、という。両著者とも物欲がなく(あるいはなくなり)、お金(私有財産)や現代の資本主義社会への疑問があり、仲間あるいは共同体への回帰も共通している。西ヨーロッパと東アジアの島国で、似たような感慨を持つ2人がいるのは興味深いが、考えてみれば当然なのかも知れない。2人の顕著な違いは年齢と、ボイルが6年間、企業勤めをしたのに対し(優秀な営業マンだったらしい)、著者はおそらく企業勤めをほとんどしたことがなく、20代の頃から企業の経営者であったことか。
著書は生まれ育った「町の濃密なもたれあいの空気が嫌でたまらず」逃走したが、父親の介護をきっかけに町に戻り、父の死後は実家を売却して近くの賃貸マンションに住んでいるという。今は濃密なもたれあいを求めているわけではないが、かと言ってドライな都会生活を希望しているのでもなく、人とのつながりを大切にしているように感じられる。著者は長年、企業経営に携わっているものの、金儲けのためと考えていないことはこれまで読んだ彼の本から感じていたが、その目指していたことが「共有地をつくる」ことにつながっていることが理解できた。
本書でいう共有地はコモンズとかなり趣きが異なり、本来、私有地であるところを共有地として解放し、いろんな人が自由に出入りできる場所をつくるということだった。著者は過去に経営したリナックス(オープンソースのコンピュータOS)開発拠点の会社の一角に、オープンソースの理念をリアルの場所としたような、自由に来て仕事や雑談ができるスペースを作った。また著者は以前から喫茶店で原稿書きをしていて、彼にとって喫茶店が逃れの街(アジール)だったとの思いがあり、現在は仲間とともにつくった「隣町珈琲」という喫茶店を地域の人がアジールとして利用できる場として提供するとともに、その片隅に自分の書斎のような場所を作っている。この喫茶店は子ども食堂としても利用されているというが、確かに全国に作られている子ども食堂は子どもやその親たちのアジールと言えるし、高齢者や障害者、他国から日本に来ている人々など、特にアジールを必要とする人達のために私有地を提供している話も聞くから、著者と共通する考え方を持ち、実践している人が日本各地にいると言える。
著者は「消費資本主義(法人資本主義)から人資本主義へ」として、私有地を解放して共有地とすることによって、資本主義社会の辺境に、資本主義とは異なる原理で動く場所を作ろう、と提唱している。ボイルの場合と同じく、資本主義の世の中を簡単に変えることができないので、とりあえずその辺境で、それとは異なる生き方をしてみる、ということだ。本の内容は少し期待と違ったが、著者の考え方には共感する部分もあり、ボイルほど極端でないので、今後の自分の生き方の参考になるかな、と思った。
イギリスのコモンズに類するものの話かな、と思ったことと、これまで著者の本を何冊か読んでそれなりに良い印象があったので読んでみた。
マーク・ボイルの次にこの本を手に取ったのは偶然だったが、両者の方向性は基本的に同じで、ボイルの方が30歳ほど若いが、彼が懐かしむアイルランドの田舎と、本書の著者が思い出す、戦後の東京・蒲田の工業地帯は良く似ている。かつてはどちらも地域の結びつきが強く、隣近所でいろんなものを融通しあうのが当たり前だったが、経済成長によって大きく変わってしまった社会である。ボイルの父は無償で地域の人の自転車修理をしていたし、著者の父は町工場の親方で、早くからテレビがあった自宅にはいろんな人が見にきた、という。両著者とも物欲がなく(あるいはなくなり)、お金(私有財産)や現代の資本主義社会への疑問があり、仲間あるいは共同体への回帰も共通している。西ヨーロッパと東アジアの島国で、似たような感慨を持つ2人がいるのは興味深いが、考えてみれば当然なのかも知れない。2人の顕著な違いは年齢と、ボイルが6年間、企業勤めをしたのに対し(優秀な営業マンだったらしい)、著者はおそらく企業勤めをほとんどしたことがなく、20代の頃から企業の経営者であったことか。
著書は生まれ育った「町の濃密なもたれあいの空気が嫌でたまらず」逃走したが、父親の介護をきっかけに町に戻り、父の死後は実家を売却して近くの賃貸マンションに住んでいるという。今は濃密なもたれあいを求めているわけではないが、かと言ってドライな都会生活を希望しているのでもなく、人とのつながりを大切にしているように感じられる。著者は長年、企業経営に携わっているものの、金儲けのためと考えていないことはこれまで読んだ彼の本から感じていたが、その目指していたことが「共有地をつくる」ことにつながっていることが理解できた。
本書でいう共有地はコモンズとかなり趣きが異なり、本来、私有地であるところを共有地として解放し、いろんな人が自由に出入りできる場所をつくるということだった。著者は過去に経営したリナックス(オープンソースのコンピュータOS)開発拠点の会社の一角に、オープンソースの理念をリアルの場所としたような、自由に来て仕事や雑談ができるスペースを作った。また著者は以前から喫茶店で原稿書きをしていて、彼にとって喫茶店が逃れの街(アジール)だったとの思いがあり、現在は仲間とともにつくった「隣町珈琲」という喫茶店を地域の人がアジールとして利用できる場として提供するとともに、その片隅に自分の書斎のような場所を作っている。この喫茶店は子ども食堂としても利用されているというが、確かに全国に作られている子ども食堂は子どもやその親たちのアジールと言えるし、高齢者や障害者、他国から日本に来ている人々など、特にアジールを必要とする人達のために私有地を提供している話も聞くから、著者と共通する考え方を持ち、実践している人が日本各地にいると言える。
著者は「消費資本主義(法人資本主義)から人資本主義へ」として、私有地を解放して共有地とすることによって、資本主義社会の辺境に、資本主義とは異なる原理で動く場所を作ろう、と提唱している。ボイルの場合と同じく、資本主義の世の中を簡単に変えることができないので、とりあえずその辺境で、それとは異なる生き方をしてみる、ということだ。本の内容は少し期待と違ったが、著者の考え方には共感する部分もあり、ボイルほど極端でないので、今後の自分の生き方の参考になるかな、と思った。
ほくはお金を使わずに生きることにした ― 2022年08月26日
マーク・ボイル (吉田奈緒子訳)<紀伊国屋書店・2011.11.26>
少し古い本だが、著者の最新刊を知って興味を持ち、彼の考え方を知るには先ずはこれからと思って読んでみた。
著者は1979年アイルランド生まれ、イギリス在住の屈強そうな男性。大学で経営学と経済学を学び、卒業間際に読んだマハトマ・ガンディーについての本に触発されて社会の役に立ちたいとの考えに目覚め、オーガニック食品を扱う仕事ならば倫理的と考えて同業界に就職した。しかし6年間働いてみて自分の考え方とのギャップを感じ、世界の持続可能性(サスティナビリティ)の問題の原因は消費者と消費される物の断絶にあると考えて、2007年に断絶の原因である(すなわち両者を媒介している)お金を使わないフリーエコノミー(無銭経済)運動を創始した、という。本書はその活動の一環として2008年11月末の国際無買デー(Buy Nothing Day, 本当に必要なもの以外は買わずに過ごし、消費が人間社会や自然環境に与える環境について考えようという日で、日本や欧州では11月最終土曜日。全く知らなかった!)から1年間、著者がお金を一切使わない生活を実践してみたという記録。著者は最初に「カネなし生活のルール」を作った。詳細は省くが極めて常識的な内容で、若者にありがちないわゆる「頭でっかち」ではないと思った。また無銭生活の準備にはある程度のお金が必要であったが、それも極力、余り物や捨てられる物を利用することで最小限にしたようだ。
住む場所は不用になったというトレーラーハウスを無料で入手、広大な有機農場で週3日ボランティアで働くことでその一角にハウス置き場や耕作地その他を確保、排泄はコンポストトイレ、電気は200ポンドで入手したソーラーパネルによる太陽光発電(主にパソコン用)や手回し式懐中電灯、食べ物(著者はビーガン = 卵や乳製品も摂らない徹底した菜食主義者)は自分で栽培する野菜の他、野生植物や期限切れになって廃棄された食品、酒は自作、調理と暖房は手製のストーブに倒木など由来の薪、交通手段は主に自転車で長距離はヒッチハイク(著者のルールでは自分のためにガソリンを使うわけではないのでOK)などなど。昼間でも氷点下の日が続くというイギリス・ブリストル郊外(ロンドンの西170キロ)では冬の生活が最も大変だったようだが、当初の予定通り1年間のカネなし生活を行った上に、仲間とともに大規模なフリーエコノミー・パーティーやフェスティバル(どちらも完全無料)を主催した。著者が行なったことは一般人から見れば大変なことで、健康的な若者であることに加え、それまでに有していたフリーエコノミーの人脈や様々なスキルがあったからこそ成功したのだろうが、おおもとは自分が正しいと考えるとおりに行動しようとする、その意志の強さにあるのだろう。
本書には一言も書かれてなかったが、これはアナーキズムの本であり、経済の見方は私が今年2月に読んだ「お金のむこうに人がいる」と同じ視点と思った。著者の理想は完全な贈与経済であり、ヒトが見返りを期待せずに必要に応じて無償で与え合えばお金は不要になる、というものだ。以前に何かで読んだ映画「ペイ・フォワード」にも言及している。また環境保護の考えも徹底していて、地球上の全ての生物(微生物も含む)と共存することを目指しているようだ。冬の間、保存してある食料を食べにくるネズミを殺すことは、「たかが窃盗の罪で死刑に処するのが正当だとも思えなかった」という。
著者は自分がすべきことを頭で考え、それをそのまま行動に移す。そういう合理性は私も意識しているが、彼の徹底ぶりには驚く。とは言え地に足がついていて、上にも書いたように「頭でっかち」とは感じない。行動してみて初めてわかることも多いだろう。インターネットの普及も著者の活動の重要な要素となっていると思った。自分で実践したいとは全く思わないが、知識としては興味深かった。
少し古い本だが、著者の最新刊を知って興味を持ち、彼の考え方を知るには先ずはこれからと思って読んでみた。
著者は1979年アイルランド生まれ、イギリス在住の屈強そうな男性。大学で経営学と経済学を学び、卒業間際に読んだマハトマ・ガンディーについての本に触発されて社会の役に立ちたいとの考えに目覚め、オーガニック食品を扱う仕事ならば倫理的と考えて同業界に就職した。しかし6年間働いてみて自分の考え方とのギャップを感じ、世界の持続可能性(サスティナビリティ)の問題の原因は消費者と消費される物の断絶にあると考えて、2007年に断絶の原因である(すなわち両者を媒介している)お金を使わないフリーエコノミー(無銭経済)運動を創始した、という。本書はその活動の一環として2008年11月末の国際無買デー(Buy Nothing Day, 本当に必要なもの以外は買わずに過ごし、消費が人間社会や自然環境に与える環境について考えようという日で、日本や欧州では11月最終土曜日。全く知らなかった!)から1年間、著者がお金を一切使わない生活を実践してみたという記録。著者は最初に「カネなし生活のルール」を作った。詳細は省くが極めて常識的な内容で、若者にありがちないわゆる「頭でっかち」ではないと思った。また無銭生活の準備にはある程度のお金が必要であったが、それも極力、余り物や捨てられる物を利用することで最小限にしたようだ。
住む場所は不用になったというトレーラーハウスを無料で入手、広大な有機農場で週3日ボランティアで働くことでその一角にハウス置き場や耕作地その他を確保、排泄はコンポストトイレ、電気は200ポンドで入手したソーラーパネルによる太陽光発電(主にパソコン用)や手回し式懐中電灯、食べ物(著者はビーガン = 卵や乳製品も摂らない徹底した菜食主義者)は自分で栽培する野菜の他、野生植物や期限切れになって廃棄された食品、酒は自作、調理と暖房は手製のストーブに倒木など由来の薪、交通手段は主に自転車で長距離はヒッチハイク(著者のルールでは自分のためにガソリンを使うわけではないのでOK)などなど。昼間でも氷点下の日が続くというイギリス・ブリストル郊外(ロンドンの西170キロ)では冬の生活が最も大変だったようだが、当初の予定通り1年間のカネなし生活を行った上に、仲間とともに大規模なフリーエコノミー・パーティーやフェスティバル(どちらも完全無料)を主催した。著者が行なったことは一般人から見れば大変なことで、健康的な若者であることに加え、それまでに有していたフリーエコノミーの人脈や様々なスキルがあったからこそ成功したのだろうが、おおもとは自分が正しいと考えるとおりに行動しようとする、その意志の強さにあるのだろう。
本書には一言も書かれてなかったが、これはアナーキズムの本であり、経済の見方は私が今年2月に読んだ「お金のむこうに人がいる」と同じ視点と思った。著者の理想は完全な贈与経済であり、ヒトが見返りを期待せずに必要に応じて無償で与え合えばお金は不要になる、というものだ。以前に何かで読んだ映画「ペイ・フォワード」にも言及している。また環境保護の考えも徹底していて、地球上の全ての生物(微生物も含む)と共存することを目指しているようだ。冬の間、保存してある食料を食べにくるネズミを殺すことは、「たかが窃盗の罪で死刑に処するのが正当だとも思えなかった」という。
著者は自分がすべきことを頭で考え、それをそのまま行動に移す。そういう合理性は私も意識しているが、彼の徹底ぶりには驚く。とは言え地に足がついていて、上にも書いたように「頭でっかち」とは感じない。行動してみて初めてわかることも多いだろう。インターネットの普及も著者の活動の重要な要素となっていると思った。自分で実践したいとは全く思わないが、知識としては興味深かった。
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