プリズン・サークル2022年09月16日

坂上 香 <岩波書店・2022.3.24>

 ブレイディみかこの本で同名のドキュメンタリー映画(2020年1月公開)の存在を知ってから、ずっと見たいと思っていたが、なかなか機会がなく、監督が書いたという本書が出版されたのでこちらから先に読んでみた。映画の方は日本の刑務所の中での撮影ということで極めて制約が多かったため、映像として残せなかった出来事や撮影終了後の話などがあり、充分に読み応えのある本になっていた。とは言えやはり映像がないと主人公の訓練生(受刑者)4人のイメージがつかみにくく、どうしても隔靴掻痒の感があって、結局は映画を見てから再度読むことになりそうだ。
 著者は以前にアメリカの刑務所や社会復帰施設における更生プログラムの映画「ライファーズ(Lifers, 終身刑もしくは無期刑受刑者のこと)」(2004年公開)を作ったことがあり、犯罪者の更生に関心のある人には有名だったようだが、私は全く知らなかった。ブレイディみかこの紹介で知ったあと、「言葉を失ったあとで」の信田と上間の対談でも触れられ、さらに現在、坂上自身が毎日新聞にアメリカの受刑者に関する連載を書いているので、益々、興味をそそられた。
 映画「プリズン・サークル」は、日本にできた4つのPFI(Private Finance Initiative)刑務所の一つ「島根あさひ社会復帰促進センター」で行われているTC(Therapeutic Community = 回復共同体)ユニットを取材した映画である。TCはアメリカの一部で行われている更生プログラムで、受刑者の人権を尊重して対話を重視し、再犯防止とともに出所後の生活回復に有効とされているという。ちなみに「サークル」は、この会話が椅子を丸く並べる円座を表し、本書の表紙にも描かれている。著者曰く、TCが日本で実現するとは信じられない(日本の刑務所は世界でもかなり遅れているので)ことだったそうだが、「島根あさひ」では受刑者(このセンターでは訓練生と呼ばれる)や支援者(専門家である民間の職員)を含んだコミュニティが確かに存在し、信頼関係を伴った会話が成立している。職員が訓練生をさん付けで呼びかけることに、著者は大変驚いている。さらに出所後も、これも通常の刑務所では考えられないことだそうだが、一部の元受刑者は支援者たちを含めた「コミュニティ」を保ち、そこには元受刑者の家族も参加したとの話がエピローグに出てくる。さらには出所者と地域住民との交流まで行われたそうだ。どれほどの割合かわからないが、TCユニットは少なくとも一部の元受刑者のその後の人生に大きな影響を与えている。本書では、映画で主人公として取り上げた4人を中心に、その他数人の訓練生の変化(回復)が記されている。TCは日本全体の受刑者、約4万人のうちのたった40人、0.1% が参加しただけではあるが、第一歩としては素晴らしい試みに思えた。。
 犯罪者の結構な割合の人が幼少期からの虐待やDVなどの被害者であることは、多くの本やメディアが伝えるところであり、犯罪を全て自己責任として本人に押し付けるのは、あまりに不公平であるように思う。また社会にとっても、少しでも多くの出所者が社会の一員として活躍する方が、日陰者として一生を終えるより好ましいはずだ。この映画の撮影後、TCユニットは停滞(後退?)しているようであるが、何とか続けて欲しいと思う。早く映画を見てみたい。

ほくはテクノロジーを使わずに生きることにした2022年09月03日

マーク・ボイル (吉田奈緒子訳)<紀伊国屋書店・2021.11.27>

 日本では、著者の最初の本「ほくはお金を使わずに生きることにした」からちょうど10年後の国際無買デーに本書が発行された。表紙の写真でも、著者が若者からおじさんになって年月を感じさせる。訳者あとがきによれば、著者の「カネなし生活」は結局3年近く続き、その後、著書の印税によって故国アイルランドに、5年間無人だった12,000 m2の農場を購入して、仲間とともに移住。誰もが無銭経済(ローカルな贈与経済)を体験できる場所作りを始めたという。
 著者は20代から動物の権利運動にも関わるビーガン(卵や乳製品も摂らない徹底した菜食主義者)だったが、植物性タンパク質を摂るために輸入品の豆類などの外国産食品に頼ることに疑問を感じ、代わりに自分で釣った魚や交通事故で死んだシカを食べるようになって、より自然に近い、昔ながらの生活になった。それをさらに徹底させたのが、本書でいうテクノロジーを使わない生活で、太陽光発電もせずにパソコンや携帯電話も含めた一切の電気製品を使わず、農耕や土木の作業でも頼るのは人力だけ、としたようだ。また、カネなし生活のときは拾ったライターでストーブを点火したが、今は自力で火を起こしている。親に会うための数百キロの移動ではヒッチハイクしたが、20世紀半ばまで自給自足生活が営まれていたというイングランドの離島に行ったときは、親切なドライバーの誘いを断って全て歩いた。本書には、使わないようにしたというテクノロジーの明確な定義が書かれていないが、産業革命以前の生活なのかも知れない。但し自転車は使っている(19世紀に誕生したらしい)。本書の発行にあたり、タイプ印刷が必要なことは納得し、そのために短期間だけテクノロジーを使うことにして自分でタイプ(パソコン入力?)したそうだ。カネなし生活は当初から期間限定のつもりだったが、今回の場合は本書を読む限り、今のところずっと続けるつもりなのかも知れない。
 環境を破壊する現代のテクノロジー全盛時代に異議を唱え、地球上の全生物との共生を願う著者が、自ら実践しようとするその徹底ぶりには驚嘆するが、全テクノロジーを否定することが「地球にやさしい」のかという疑問もあるし、環境保全の意識はそれなりに高いつもりでいる私が本書を読んでも、自分の行動にいささかの影響も与えられなかった気がする。本書の原題はThe Way Home(家へ帰る道)。著者は「原始人になる」ことにしっくりこないというが、原題を見ると方向性としては単にアイルランドに戻るというだけでなく、昔のアイルランドの生活へ、ということなのだろう。つい、何と酔狂な人がいるもんだ、と思ってしまうが、著者と同じ体験ができる施設を作り、訪れる人に無料で解放しているので(巻末にその際の心得が載っている)、実験的な試みとして有意義なのかも知れない。イギリスのTVドキュメンタリーで取り上げられたというから、それなりに注目もされているのだろう。

共有地をつくる わたしの「実践私有批判」2022年09月01日

平川克美 <ミシマ社・2022.2.20>

 イギリスのコモンズに類するものの話かな、と思ったことと、これまで著者の本を何冊か読んでそれなりに良い印象があったので読んでみた。
 マーク・ボイルの次にこの本を手に取ったのは偶然だったが、両者の方向性は基本的に同じで、ボイルの方が30歳ほど若いが、彼が懐かしむアイルランドの田舎と、本書の著者が思い出す、戦後の東京・蒲田の工業地帯は良く似ている。かつてはどちらも地域の結びつきが強く、隣近所でいろんなものを融通しあうのが当たり前だったが、経済成長によって大きく変わってしまった社会である。ボイルの父は無償で地域の人の自転車修理をしていたし、著者の父は町工場の親方で、早くからテレビがあった自宅にはいろんな人が見にきた、という。両著者とも物欲がなく(あるいはなくなり)、お金(私有財産)や現代の資本主義社会への疑問があり、仲間あるいは共同体への回帰も共通している。西ヨーロッパと東アジアの島国で、似たような感慨を持つ2人がいるのは興味深いが、考えてみれば当然なのかも知れない。2人の顕著な違いは年齢と、ボイルが6年間、企業勤めをしたのに対し(優秀な営業マンだったらしい)、著者はおそらく企業勤めをほとんどしたことがなく、20代の頃から企業の経営者であったことか。
 著書は生まれ育った「町の濃密なもたれあいの空気が嫌でたまらず」逃走したが、父親の介護をきっかけに町に戻り、父の死後は実家を売却して近くの賃貸マンションに住んでいるという。今は濃密なもたれあいを求めているわけではないが、かと言ってドライな都会生活を希望しているのでもなく、人とのつながりを大切にしているように感じられる。著者は長年、企業経営に携わっているものの、金儲けのためと考えていないことはこれまで読んだ彼の本から感じていたが、その目指していたことが「共有地をつくる」ことにつながっていることが理解できた。
 本書でいう共有地はコモンズとかなり趣きが異なり、本来、私有地であるところを共有地として解放し、いろんな人が自由に出入りできる場所をつくるということだった。著者は過去に経営したリナックス(オープンソースのコンピュータOS)開発拠点の会社の一角に、オープンソースの理念をリアルの場所としたような、自由に来て仕事や雑談ができるスペースを作った。また著者は以前から喫茶店で原稿書きをしていて、彼にとって喫茶店が逃れの街(アジール)だったとの思いがあり、現在は仲間とともにつくった「隣町珈琲」という喫茶店を地域の人がアジールとして利用できる場として提供するとともに、その片隅に自分の書斎のような場所を作っている。この喫茶店は子ども食堂としても利用されているというが、確かに全国に作られている子ども食堂は子どもやその親たちのアジールと言えるし、高齢者や障害者、他国から日本に来ている人々など、特にアジールを必要とする人達のために私有地を提供している話も聞くから、著者と共通する考え方を持ち、実践している人が日本各地にいると言える。
 著者は「消費資本主義(法人資本主義)から人資本主義へ」として、私有地を解放して共有地とすることによって、資本主義社会の辺境に、資本主義とは異なる原理で動く場所を作ろう、と提唱している。ボイルの場合と同じく、資本主義の世の中を簡単に変えることができないので、とりあえずその辺境で、それとは異なる生き方をしてみる、ということだ。本の内容は少し期待と違ったが、著者の考え方には共感する部分もあり、ボイルほど極端でないので、今後の自分の生き方の参考になるかな、と思った。

ほくはお金を使わずに生きることにした2022年08月26日

マーク・ボイル (吉田奈緒子訳)<紀伊国屋書店・2011.11.26>

 少し古い本だが、著者の最新刊を知って興味を持ち、彼の考え方を知るには先ずはこれからと思って読んでみた。
 著者は1979年アイルランド生まれ、イギリス在住の屈強そうな男性。大学で経営学と経済学を学び、卒業間際に読んだマハトマ・ガンディーについての本に触発されて社会の役に立ちたいとの考えに目覚め、オーガニック食品を扱う仕事ならば倫理的と考えて同業界に就職した。しかし6年間働いてみて自分の考え方とのギャップを感じ、世界の持続可能性(サスティナビリティ)の問題の原因は消費者と消費される物の断絶にあると考えて、2007年に断絶の原因である(すなわち両者を媒介している)お金を使わないフリーエコノミー(無銭経済)運動を創始した、という。本書はその活動の一環として2008年11月末の国際無買デー(Buy Nothing Day, 本当に必要なもの以外は買わずに過ごし、消費が人間社会や自然環境に与える環境について考えようという日で、日本や欧州では11月最終土曜日。全く知らなかった!)から1年間、著者がお金を一切使わない生活を実践してみたという記録。著者は最初に「カネなし生活のルール」を作った。詳細は省くが極めて常識的な内容で、若者にありがちないわゆる「頭でっかち」ではないと思った。また無銭生活の準備にはある程度のお金が必要であったが、それも極力、余り物や捨てられる物を利用することで最小限にしたようだ。
 住む場所は不用になったというトレーラーハウスを無料で入手、広大な有機農場で週3日ボランティアで働くことでその一角にハウス置き場や耕作地その他を確保、排泄はコンポストトイレ、電気は200ポンドで入手したソーラーパネルによる太陽光発電(主にパソコン用)や手回し式懐中電灯、食べ物(著者はビーガン = 卵や乳製品も摂らない徹底した菜食主義者)は自分で栽培する野菜の他、野生植物や期限切れになって廃棄された食品、酒は自作、調理と暖房は手製のストーブに倒木など由来の薪、交通手段は主に自転車で長距離はヒッチハイク(著者のルールでは自分のためにガソリンを使うわけではないのでOK)などなど。昼間でも氷点下の日が続くというイギリス・ブリストル郊外(ロンドンの西170キロ)では冬の生活が最も大変だったようだが、当初の予定通り1年間のカネなし生活を行った上に、仲間とともに大規模なフリーエコノミー・パーティーやフェスティバル(どちらも完全無料)を主催した。著者が行なったことは一般人から見れば大変なことで、健康的な若者であることに加え、それまでに有していたフリーエコノミーの人脈や様々なスキルがあったからこそ成功したのだろうが、おおもとは自分が正しいと考えるとおりに行動しようとする、その意志の強さにあるのだろう。
 本書には一言も書かれてなかったが、これはアナーキズムの本であり、経済の見方は私が今年2月に読んだ「お金のむこうに人がいる」と同じ視点と思った。著者の理想は完全な贈与経済であり、ヒトが見返りを期待せずに必要に応じて無償で与え合えばお金は不要になる、というものだ。以前に何かで読んだ映画「ペイ・フォワード」にも言及している。また環境保護の考えも徹底していて、地球上の全ての生物(微生物も含む)と共存することを目指しているようだ。冬の間、保存してある食料を食べにくるネズミを殺すことは、「たかが窃盗の罪で死刑に処するのが正当だとも思えなかった」という。
 著者は自分がすべきことを頭で考え、それをそのまま行動に移す。そういう合理性は私も意識しているが、彼の徹底ぶりには驚く。とは言え地に足がついていて、上にも書いたように「頭でっかち」とは感じない。行動してみて初めてわかることも多いだろう。インターネットの普及も著者の活動の重要な要素となっていると思った。自分で実践したいとは全く思わないが、知識としては興味深かった。

文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉2022年08月25日

ジョセフ・ヘンリック (今西康子訳)<白揚社・2019.7.26>

 2年前に読んだが、そのときの短いメモに寄れば書き方が気に入らず、あまり印象が良くなかったようだ。それを全く忘れていて、別の情報から興味を持って読み始めて再読であることに気付いた。何故か今回は何の不満もなく、充分に面白かった。自分は絶えず変化しているということだ。
 ヒトが賢いのは個人ではなく、集団として知恵を寄せ合い蓄積していくからだ(集団脳)。ヒトは他人の真似をすることが得意であり、集団で得た知恵を文化として継続、進化させていく(文化進化)。さらに文化進化が集団間競争の中で選択圧となって遺伝子進化を促し、両者が合わさって数百万年かけて現在のホモ・サピエンスが誕生した、というのが著者の主張の骨子である。
 ヒトは幼い頃から周囲を観察し、モデルとすべき適切なヒト(信頼できる大人、技法に優れた先輩、など)を選んでその真似をする。チンパンジーと比べてもヒトの方が理屈抜きで真似をしようとする(いわゆる猿真似)、という。またヒトの乳幼児は未知の人工物は興味を持って触るが、未知の植物については周囲の大人を観察し、大人が触れば自分も触ろうとする。植物には危険なものがあるため、むやみに触らないようにしているらしい。このように、ヒトには生きる上で必要なことを模倣し、文化を継承することが遺伝的に備わっていると考えられる。
 集団脳による文化進化は個人の能力を遥かに上回る。世界の主要作物の一つであるキャッサバはそのまま食すると体内で有毒なシアン化水素が発生するが、南北アメリカ大陸の住民は何千年も前から高毒性のキャッサバを主食としてきた。彼らははるか昔から、何段階もの手順を要する面倒な毒抜きを行なってきたのであるが、一般のヒトがその作業を見ても毒抜きの理屈を理解することは難しく、またシアンの慢性毒性が出た場合にキャッサバとの因果関係を見抜くことができるか疑わしい。実際、17世紀にキャッサバがポルトガル人によってアフリカ大陸に持ち込まれた後、現在に至るまで、慢性シアン中毒はアフリカの深刻な健康問題の一つという。その他、トウモロコシのアルカリ処理によるベラグラ予防(ナイアシン摂取)、授乳中や妊娠中の食のタブーなど、長期間にわたって蓄積された集団脳の例は多く、それらは理屈からではなく長い歴史の中での経験から生まれたもので、因果関係はわかりにくい。従って、それぞれの手順の意味を深く考えて不要と思えば簡易化するなどということをせず、過剰模倣(猿真似)をすることが重要であり、その資質がチンパンジーになく、ヒトにはあるらしい。
 ネアンデルタール人はホモ・サピエンスと比べて脳容量が同等か大きいが、最終的には滅びた。これは集団脳の差による、と著者は考えている。大きな集団脳が生まれるのは、社会集団の規模が大きく(ダンバー数の理屈と合わない?)、成員同士の結びつきが強く、さらに成人後の寿命が長い場合とし、ホモ・サピエンスはこれらの点で優っていたため、文化進化が進み、ネアンデルタール人より脳容量が小さくても勝ち残ることができたのではないか、という。
 現代は様々なテクノロジーや医療が発展したために、もうヒトの進化は止まったとする考えがあるが、著者の理屈では、ヒトの遺伝的進化は太古の昔から文化の影響を受けてきたのであり、現在の状況は単に、文化進化がヒトの遺伝的進化をまた新たな方向に向かわせているにすぎない、という。なるほど、という感じだ。本書の主張にほぼ説得された気がする。
 最後に、また自分ごと。ヒトは読み書きの訓練をすることによって視覚野の一部が特殊化され、その能力が高まるが、それにはコストが伴い、どうやら顔認識が苦手になるらしい。「私はその話を聞いて少しほっとした。これで、人の顔をすぐに忘れてしまう言い訳ができたぞ、・・私は顔認識用のファームウェアの一部を、大好きな読書用に譲ってしまったのです、と言えばいい」と著者は言う。私も弁解の必要があるときにはこの手を使おう。

世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現2022年08月14日

ぼそっと池井多 <寿郎社・2020.10.30>

 まだ「ひきこもり」という言葉がなかった80年代半ばの23歳のときから現在まで、いろいろな形でひきこもりを続けているという著者が、世界の様々な国の10名を超えるひきこもり当事者とネット上でメール等のやりとりをし、インタビューとしてまとめた本。著者はひきこもりになって居心地の悪かった日本から逃げ出し、世界各地で著者の言う「そとこもり」をしているとき、自分と同じような状況の多くの日本人や外国人と会う機会があって話をし、そういう人が外国にも多くいることを知っていた。帰国後、アフリカの実情を知る人として誘われて書いた文章が何かの賞をもらい、国際ジャーナリストとしての活動を始めたが、やはりそれも堪えられなくなって、またひきこもったという。その後、海外にいるはずのひきこもり達との連携を試み、「Hikikomori」で検索してヒットしたフランスのサイトがきっかけとなって、2017年に世界ひきこもり機構(Global Hikikomori Organization, GHO)を創設し、世界各地のひきこもりとの交流が増えて現在に至るようだ。著者は今年60歳のはずだが、「世界」をWorld でも International でもなくGlobalとしたことも含め、若いひきこもりでは辿りつけないような長年に渡るひきこもり経験と洞察が隅々に感じられて、おそらく世界的にみても貴重な対話集と思った。Hikikomori という言葉がそのまま多くの国で使われていることも初めて知った。著者は本のタイトルが気に入らなかったようで、確かに網羅的にする意図はないからその気持ちがわからないでもないが、読者にとってはわかりやすく、正解だったと思う。
 本書によって何か新しい知識が増えたというより、ひきこもりという現象は、統計が存在しないのでその数は全く不明であるが、世界のどこでも起きていることと理解した。本書でも言及されていたように、家族より個人を優先し、大人になったら家を出て行くことが普通のフランスやアメリカでは、ひきこもりではなくホームレスになると聞いたことがあったが、必ずしもそうではないのは、当然といえば当然だろう。フランスでは25歳を超えたひきこもりに対しても経済的にサポートする制度があって、一生、生活の心配がないことも興味深かった。そのような国でも当事者が幸せに生きられるかどうかは別の話だろうが、少なくとも本人の安心感にはつながるだろう。またひきこもりがいるのは先進国だけ、というのも誤りで、インド、フィリピン、バングラディシュ、カメルーンにもいて、ひきこもって一人になる場所が家の中にないという例もある。またひきこもっていることが苦しい人もいれば、社会の方が病的だとして全く悩んでいない(ようにみえる)人もいる。それらの違いの一つの要因は、経済的なサポートも含めて、ひきこもりに対する社会の受け止め方なのだろう。
 著者が本書を書いた動機は、ひきこもりに対する世の中の、専門家と称する人たちも含めて、間違った理解を正したい、ということにあるようで、これまでに読んだひきこもりの本とは全く異なるスタンスで書かれていて、非常に興味深く、また少し理解が広がった気がする。著者が言うように、本書に登場した人たちが実在するという証拠はないが(単にメールのやりとりだけ)、充分に説得力のある対話記録と思う。札幌の小さな出版社が良い本を作ってくれた。

ロボットと人間 人とは何か2022年08月13日

石黒 浩 <岩波新書・2021.11.19>
 ロボット工学者で、人間酷似型ロボット(アンドロイド)研究の第一人者という著者が、自身の研究を解説した本。以前にTVで著者及び著者を模したアンドロイドを見たことがあり、それほど興味を持った記憶はなかったが、新書の帯のキャッチコピーでは「ロボットを研究することは、人間を深く知ることである」とあり、プロローグにも「本書では、ロボット研究の科学的側面と技術的側面、すなわち、人間に関する深い疑問に答える側面と世の中で役立つ側面の両方から、これまでに取り組んできた研究や、それをもとに巡らせた考えについて述べる」とあったので、どれほど「深い」のか期待して読んで見た。
 著者はヒトの社会に多くのロボットが共存する「ロボット社会」の実現を目指し、さらに人間を深く理解するために人間に酷似したロボットの開発を進めている、という。酷似させるために、ヒトの筋肉の動きに近づける空気アクチュエータ(空気圧で動くシリンダー)や、ヒトの皮膚を模した柔らかいシリコンを用いていて、それらに苦労が多いらしい。応用面に関する記載で興味を持ったのは対話ロボットで、高齢者や自閉症児はヒトよりもかえってロボットの方が話しやすい傾向があるという。但し、これらの例でヒトがロボットに親近感を持ち、ロボットに心を感じるためにはアンドロイドである必要はなく、遥かにシンプルな造形のロボットで充分のようだ。また平田オリザと一緒にロボットを用いた演劇を作っていて、著者はロボットの演技を観て感動したそうだ。侵襲型ブレインマシンインターフェイス(手術をして脳にセンサーを埋め込む)を用いて、考えるだけでアンドロイドを動かす「第3の腕」のような使い方も試みられているが、障害者の義手の話はなく、おそらく担当分野が違うのだろう。
 私が期待した人間理解に関して言えば、確かにロボットは、「ヒトは他者をどう見るか」に関して興味深い知見を与えることには充分に納得した。しかし前述のように、ヒトがロボットに心を感じるのに外観はあまり関係なく、この結果はすなわち心を感じるのにアンドロイドである必要はない、ということになるはずだが、そのような言及は全くない。さらに言い過ぎと思える箇所が多々あり、たとえば<人間らしいロボットは、人間を理解するテストベット(研究材料)になる>はいいが、<ロボットを開発することで、人間を理解するという(?)ことができる>は「・・、人間の理解を助ける手段となる」くらいだろう。
 全体を読み通して、著者の研究の最終目的はロボット社会を作ることにあり、アンドロイドにこだわるのは著者の興味・趣味、「人間に関する深い理解」は、アンドロイド研究の意義を読者に説得するために後付けで作った理屈で、研究費集めのための文章を読んでいる感じがした。研究費の申請書にやや大袈裟に書くのは当然で、全く構わないが、一般向けにはどうか。また少なくとも以前に読んだ「AIは人間を憎まない」に登場した合理主義者たちのような深刻さは微塵もなく、言葉は悪いがきわめて無邪気にロボット作りに励んでいるように感じられた。私の理解が足りないだけなのだろうか?

菌類が世界を救う キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力2022年08月06日

マーリン・シェルドレイク (鍛原多惠子訳)<河出書房新社・2022.1.30>

 菌類は、植物界および動物界と並ぶ「菌類界」を構成する真核生物であり、同じ「菌」と称されるが核のない細菌(原核生物)とは全く別の生物である。ビールやパンの発酵に使われる酵母は単細胞生物であるが、ほとんどの菌類は多細胞生物で、菌糸を形成してカビと呼ばれ、それが子実体を作ればキノコと言われる。私が若い頃は真菌と呼ばれていたと思うが、今は菌類の方が普通のようだ。これまで菌類の本は全く読んだことがなかったので、本書は菌類全般の知識の整理に非常に役立ったとともに、生態系における菌類の重要性や興味深い役割について知らないことが多く、充分に面白かった。最近では菌類の応用研究が広がってきて「世界を救う」ほどになったということで、やや大袈裟なタイトルとは思ったが、本書を読み終わってみると、環境保全が喫緊の課題である今の世界では、確かに菌類が重要な働きをする可能性を秘めていることには同意できる。但し「世界を救う」のはまだ依然として可能性の段階であり、その歩みは遅く、間に合うのか、という気もするが。
 「地球上で起きる大半のできごとはこれまでも菌類の活動だったし、これからもそのことにかわりはない」という。植物が約5億年前に陸に上がったのは菌類が根の役目を果たしたから成し得たことであり、今でも植物の90%以上が菌根菌という菌類に依存している(菌根菌を経由して土壌中のミネラル等を得る)。そもそも「土壌」と呼ばれるものは菌類がいなければ存在しない。一方、菌類は光合成をしない従属栄養生物であり、植物から栄養(糖分)をもらう共生関係にある。但し、ヒトにとってキノコは食料でも毒物でもあり、有用なカビ(私の好きなブルーチーズ等)もあれば病原性のあるカビもいるのと同様に、植物に対して病原性を示す菌類もいて、両者の関係は非常に複雑である。
 菌類には、世界最大の生命体と言われるナラタケ類がある。現在、最大とされるのは米国オレゴン州にあるオニナラタケで、重さ数百トン、10平方kmにわたって広がっており、年齢は2000 - 8000歳とされる。ここでは膨大な量の菌糸体によるネットワークが森林の植物をつないでいて、このような構造をウッド・ワイド・ウェッブ(WWW)と呼ぶ。確かに、中央に司令塔はなく、インターネットとの類似を連想させる。オニナラタケは病原性があるとのことなので、ここの樹木には迷惑を被っているものもあるだろうが、WWWによって幼木は大木から栄養をもらったり、害虫に襲われた木が警戒警報を他の樹木に送るなど、森の生態系で重要な役割を担っている。植物の個体はバラバラに生きているように見えるが、動物のようにお互いに助け合うこともあるのだ。WWWについては以前、「樹木たちの知られざる生活」という名著を読んで知っていたが、菌類の側から見た世界はまた新鮮だった。山菜や野草を庭に植えるとき「土が合う」かどうかという話を聞くが、少なくともその重要な一部は菌類なのだろう。畑の土壌についても考えさせられることが多々あった。
 その他、昆虫を殺しながら胞子を拡散させる菌類(ゾンビ菌)や、光合成をしない菌従属栄養植物など興味深いことがいろいろあったが、最後に「地球を救う」可能性について。菌類には有毒なタバコの吸殻、グリホサート系の除草剤、毒ガス成分であるメチルホスホン酸ジメチル、クロロフェノールなどの殺虫剤、原油、一部のプラスチックなどを分解できるようになったものがある。放射能をエネルギー源にできる菌類もいるという。但し、それらは他の栄養分を除いて、それだけを与えて育てて誘導させてできたものであり、汚染の現場でも同様に能力を発揮するかどうかはまた別の話となるが、実際にこのような菌類を用いて、汚染された生態系を回復させた実例もあるそうだ。また現在、プラスチックその他で作られていて環境を汚染している様々なもの(例えば発泡スチロール)を菌類を用いて代替品を作る企業もあるという。
 植物の立場の本は様々あるが、菌類を主役にした本は非常に少ない。メモには記さなかったが本書には人類学的あるいは社会学的な考えまでも織り交ぜられていて、かなりレベルの高い本と思った。著者はイギリスの若い菌類研究者で、菌類に対する愛が溢れていると感じられる。国際的なベストセラーになったそうだが、菌類に世界を救ってもらうには、この内容がもっと広く知られ、活用される必要がある。その障害になっている何かがあるのだろうか。

嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む2022年08月02日

ラルフ・ジェームス・サヴァリーズ (岩坂彰・訳)<みすず書房・2021.6.16>

 貸出延長ができない他館からの取り寄せ本で、3分の2ほど読んだところで返却期限になってしまったが、メモを書き残したいほどに印象が強かったので記録しておく。
 自閉症者を養子に持つ英文学の大学教授で、作家でもある著者が、長年にわたる我が子との読書体験と、5人の自閉症者(そのうちの1人はアメリカで最も有名な自閉症者と言われるテンプル・グランディン)とそれぞれ1対1でのオンライン講義で小説を一緒に読み、話し合った記録、という体裁の本だが、折に触れて自閉症者に対する一般的な評価と、実際に著者が感じた自閉症者の能力・特徴について、最近の世の中の研究結果を交えながら、詳細に描かれている(コロナ以前のことで、オンライン講義になったのは距離など別の理由のため)。著者はニューロダイバーシティ(神経多様性)と自閉症に関する研究調査も行っているとのことで、本書はその一環のプロジェクトらしい。
 一般に自閉症者(Autistic、という言い方を本人たちは希望するらしい)は「心の理論(他者にも自分と同じような心があると考える理論)」と比喩的表現の理解に欠けるとされ、従って文学の理解も難しいと考えられているという。6人には、いわゆる「高機能」の自閉症者も「低機能」と呼ばれる人も含まれるというが、著者はこの区別を全く信用しておらず、自閉症者の、欠陥ではなく感覚で対象と関わるという才能と読書の関係に注目する。本書では、彼らと読書体験を(一人とは小説に出てくる現場の見学も)共有することによって、自閉症者とニューロティピカル(神経学的な定型発達者)の様々な違いを感じ取り、記している。
 自閉症者は知覚機能が亢進しており、「知覚システムに対するトップダウン(前頭葉)の処理の影響力が比較的弱いために、知覚システムがある種の自律性をもって働くことが可能j」とする説がある。ティト(対象の1人)はニューロティピカルよりもはるかに多くの細部を見るため(本人曰く「ハイパーフォーカス」)、世界はバラバラに見える。細部を見過ぎないようにして、ようやく全体が見える、という。文章を読んでも、ニューロティピカルは言語中枢だけを働かせて理解しようとするのに対して、自閉症者は心の中でイメージに頼っている(感覚野の活動が高い)。それが本書のタイトルになっていて(原題は See It Feelingly)、著者は、両者での本の読み方の違いを善悪や正誤とすることを批判する。「自閉症者では感覚が思考を圧倒する。ニューロティピカルでは思考が感覚を圧倒する。」という。私は以前、東田直樹君という自閉症者のTVのドキュメンタリー番組を見て、彼の著書も少し読んだが、彼の言っていたことを思い出すと、本書の主張と合うと感じた。残念ながら本書に登場する自閉症者1人の章は全て、もう1人については半分くらいしか読んでないが、自閉症を理解するのに重要な本、と思う。
 最後に自分ごと。本書の記述の中に、ニューロティピカルでも情景描写などの文章を読むと感覚野が活発になるとあったが、どうも私は「ティピカル」ではないようで、小説を読むとき(最近は滅多に読まないが)、情景描写には関心が向かないのでほとんど飛ばして、ストーリーだけを追う傾向がある。また私はヒトの顔の識別能が弱いらしく、TVドラマなどで初めて見る役者の区別がつきにくく、あるいは初対面の人の顔を覚えるのが苦手であり、最近のコロナ禍で皆さんがマスクをして目しか見えないときは、知人でも誰かわからないことが多い。これらを合わせて考えると、私は知覚機能が弱く(視覚だけ?)、そのために「ティピカル」よりさらに思考に頼り過ぎるのかも知れない。70年を生きてきて初めて2つの自分が結びついた。

アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話2022年07月25日

カトリーン・マルサル  (高橋璃子・訳)<河出書房新社・2021.11.30>

 著者はスウェーデン出身の女性ジャーナリストで、本書は1990年代に登場したというフェミニスト経済学の考え方をジャーナリスティックに訴えているが、本書最後の「経済への影響力こそ、フェミニズムの秘密兵器である」という言葉に示されるように、経済学を材料としたフェミニズムの本と読めた。アダム・スミスの夕食を作り続け、個人的生活を支えたのは全て彼の母親と親戚の女性だったらしい。しかし彼が創り出した経済合理性(見えざる手)を体現する経済人(ホモ・エコノミクス)にはそのことが全く反映されておらず、彼は同時代の人々と比較しても女性を軽視しているという。本書では、経済人の性格は全くの「男性」であり、そこでは女性の担う役割が無視され、家事労働あるいはケア労働は全く含まれていないことを徹底的にしつこいほどに批判する。フェミニズムのためには、既にできあがっている経済人というモデルに女性を当てはめても何も改善されず、従ってエピローグのタイトル「経済人にさよならを言おう」が著者の結論となる。
 経済学の対象を人間の労働全般に広げ(それはもう「経済学」ではないのかも知れないが)、GDPに変わる新たな指標が必要ということだろうと思ったが、著者は研究者ではないので、残念ながら具体的なアイディアは開示されていない。本書はフェミニスト経済学の観点からの主張であるため省かれているが、GDPに含まれないのは家事労働だけでなく、様々なレベルにおけるのコミュニティ活動やボランティア活動にも「労働」はあるだろう。ブータンの国民総幸福量や、国連の幸福度スコアなど、GDPに代わる国の評価基準は作られているが、これらはもっと普遍的な「幸せ」を表すものであって、GDPが表すものとのギャップが大き過ぎる気がする。家事労働などを金銭に換算した数値(同じ時間を他の労働に従事した場合、あるいはその労働を有償で行った場合)を見たことはあるが、国全体に広げて比較した値は知らない。素人にはなかなかイメージできないが、何かないのだろうか。あるいはヒトの生活を支える全ての活動(労働)を数値化(金銭化)し、同列に並べて比較すること自体に無理があるのならば、どのようにしてジェンダーを超えた評価が可能なのだろう。